「失われていかない生き方」とは?
人生において、
多くの人は何かを獲得していくと同時に
何かを失っていると感じながら
生きているのかもしれない。
なぜ人は大人になるにつれて、
何かを失っていくような感覚を抱くのか。
そう感じない生き方とは?
ふとそう思って、このテーマについて
考えを巡らせてみました。
不確定なもの、確定的なものを交換して生きていく?
世の中的になんとなく、大枠として
「こっちが正解」というレールがあったり
ここにいれば安心、ここから外れると不安、
そういう枠があるようです。
社会的な大きな視点では
「多様化」が進んでいる感じもしますが、
もっと細かい、地域それぞれの、
人々の日々の暮らしの中には
"なんとなく正解の方向性はこっち"
というものがまだまだ根強く
あるような気がします。
特に"地域性"の中にある考え方は、
長い間脈々と受け継がれてきているので、
時代の変化の風を受けて途端に変わる、
とはなりにくいのではないでしょうか。
話を戻して。
子どものうち、若いうちは
自分が何者なのかもわからないし、
どうなれるかもわからない。
不安も確かにずっと大きいけれど、
その分未来に対する希望はどこまでも
広げてよかった。
どんな夢も見ることができた。
不確定なものが大きいから不安も大きいけれど
同時に希望、夢、そういったものも同じくらい
濁りのない形で自分の中に持っていることが
できたのではないかなと。
大人になるにつれて、
自ら何かのレールに乗る。
家族を作り、仕事をすることで
なんとなく先が予測がつく形になっていく。
それは「予測しやすい未来」という形で、
安心感にも繋がるけれど。
同時にこのルートにいると
なんとなくこのルート通りの
未来がやってくるだろう、
というある意味の「退屈さ」も
予測できるようになる。
不確定要素が減り、確定的な要素が増える。
人生を通して、不確定なものを
確定的なものと交換して、
多くの人は生きているのかもしれないです。
安心できる材料は揃った。果たして中身はなんだ。
もちろんそれで満足する人生なのか
そうでないかは人それぞれです。
ただ、外側からの情報によって
自分の不確定要素の中にあった
「夢」や「希望」を、
「諦め」「常識的判断」「人生こんなもの」
みたいな確定要素と交換するのは
とてももったいない、と個人的には思います。
自分の周りに安心できる材料は揃った。
でもそれが、果たして心がときめいたり、
ワクワク胸が躍るものなのか、と
見つめ直してみるのもいいかもしれません。
大人になるということは、決して
何かを諦める、ということと
同義ではないのだから。
いくつになっても
ずっと夢を見て、希望を持って
生きていっていい。
むしろ本当の意味で生きる、とは
そういうことだと私は思います。
もし今の子どもたちが
未来に希望を持てないとしたら
それは今の多くの大人が
先に諦めている姿を見せているから
かもしれません。
「安心材料」という名の"退屈"を
たくさん集めて、あれ、これでよかったかな…
とやっているのかもしれないです。
どこまでも自分の可能性を諦めない
世の中の風潮、身近な大人の言葉。
たくさんのものが私たちを
諦めさせようとします。
どうしてそんなことをするのか
不思議でならないけれど、そう感じます。
ということはつまり、
そこに抗うことで人とは違う人生を
切り開いていくことができるということです。
多分人は、心のどこかで
やっぱり夢を持った人生を生きたい、
ワクワクしたい。
だから自分の可能性をちゃんと
自分で信じてあげながら生き続けること。
死ぬ最後の瞬間まで、ずっと自分の可能性を
諦めないで夢を見続けることで
本当に自分の命を充分に輝かせて生きた、と
言えるのではないかなと思います。
人生の舞台から自ら降りた時、青春は終わり老いが始まる
私の尊敬する人となった岡本太郎さんは、
こういっています。
本当にその通りだと思います。
最後の瞬間まで、自分と思い切り向き合い、
走り続けていくんです。生きているのだから。
大人になって、
口癖のように「もう歳だから」「今更」
みたいなことを口にしてしまっていませんか?
その瞬間、自分は人生の本番を降りた、
あとは余生にする、と
決めてしまうことになります。
人生を通して、
「約束されていないもの」を探し続ける。
自分自身の夢、未来のこと。
安心だけど退屈なもの、
少なくとも自分の心が「本当はこれじゃない」、
と感じるものを後生大事に
抱え込んで生きるのではなくて。
自分自身を晒して、
何も持たずにぶつかって生きればいい。
自ら人生を"オリ"ることで
人は失っていくのだと思います。
人生を最後までオリない姿勢が
進み続けて、気付き続ける人生を
切り拓くのではないでしょうか。