NobutomoMurai
写真について考えたことをまとめたものです
話題のツイート。 35mmという広角寄りのレンズで、75mmのバストアップ相当の写りになるような距離まで寄ると顔が歪んでしまうからリスキーだよねという旨。 これはある程度前提を限定した上で、避けたほうがよいケースの提示をもって結論を出しているという意味でトガった問いと、答えだと思う。 この意見に対しては概ね同意で、特に面長を気にする人にたいしてこういった撮り方をするのはひどくコンプレックスを刺激してしまう可能性があるから、相手の要求と機材の特性を理解した上で慎重になるべきだと
おれの哲学は 表現の奥 空気遠近法のその彼方 薄いグレーになって ゆらゆらと揺れている
ただひとひらの薄こおり それがいわゆる写真です それをみるとき思うのは 止まった時間の溶けるさま もろく 切ない薄こおり それがいわゆる写真です
個人主義も行き過ぎるとどうなのかねと思う
「SNSから学ぶことなどほとんどない」と思っていた方がうまくいくような気がしている。 それは受信する情報の質が保証されないということもそうだけど、「パッシブに情報を浴びる」というSNS特有の姿勢が、学びの姿勢とは異なるから。 いまやウェブを介してほとんどの情報にアクセスすることができる。下手な塾に行くよりはYouTubeで学ぶ方が効率が良いとさえ言われる。recommendは個人の好みを学習し、精度を増す。 情報発信のテクノロジ
そもそもミニマリズムとはスタイルを目指すものではなく成り立ちの問題なのであるが、これが話をややこしくしていそうではある
最近、「雲のない空に何か一つだけ主題を配して撮る」とか「壁や建築物をきわめて平面的に撮る」とか「幾何学的なアプローチで画面を整理して撮る」とかいったことをひっくるめて「ミニマルフォト」と言う人が多いと思う。 しかし、「見栄えのよい写真」のための「ミニマリズム」は、ある意味で装飾のためにミニマリズムのテクニックを使っているのであって、「装飾を遠ざける」ミニマリズムの本質から離れた行いではないか? 画面をミニマルにすること自体が目的になると、それは装飾のスタイルとしての「ミニ
カメラを買ったあなたがいます。 たぶん、綺麗な写真が撮りたいとか、毎日の記録を残したいとか、そういう理由で買ったんだろうと思います。 カメラを買ったあなたは有名なフォトスポットに行くかもしれませんが、おそらく「何を撮りたいんだかわからない写真」とか、「誰かのインスタにあった写真の焼き増し(あるいは劣化コピー)」のようなものをぶら下げて、その目で見た感動をイマイチ写真に残せないまま帰ります。 最初はみんなそうなんです。 上手く撮れない理由は 「カメラのことをよく知らない
その画面は、静けさを湛えている。 その画面は、こころの糸をぴんと張る。 そしてその画面は、微妙にゆらいでいる。
こんにちは、むらいです。 この記事では、先日リリースされたVSCO Montageをご紹介します。 こいつです。ざっくりいうと写真やら動画やらを重ねて並べてコラージュして、イカしたビジュアルを作れるツールです。 詳しい使い方は公式のチュートリアルを確認してもらうとして、 作品の構成を考えるところに焦点を当ててお話してみようと思います。 素材を用意しよう素材がなくては始まりません。 写真、動画、グラフィック。いろいろと用意してみましょう。 お好きなものを使われるのがよろ
floating things https://www.murainobutomo.com/floating-things 世の中、とにかく「あいまい」だし「不安定」だなと思う。 ついこの間まであったビルが無くなっていた。あそこにはどんなお店があったっけ。 久しぶりに帰った地元。変わっていないようで、変わっている。お隣のおばあちゃんは亡くなってしまったらしい。 その形を、ふるまいを、関係を、一定に保ち続けるものは一つだってない。 幾年かの時間をかけて街の構造が変わって
あなたの写真をスペシャルなものにするために、色作りは欠かせない工程です。 今日、lightroomなど現像ソフトのハウツーは多くの書籍やブログや記事で紹介されています。 しかし、多くはパラメータの説明と操作方法について触れるのみで、 ソフト操作以前の設計段階、つまり自分の出したい色がどのように成り立っているのか分析して、どのようにソフトで再現するのか見当をつける手法はあまり共有されていないのが現状だと思います。 ですので、今回は色作りのゴールを設定し、その達成の手法を考
SNSでは写真がものすごい早さで消費されてるってのはもう言われ尽くしてるんだけど、アップしている当人も自分の写真をそういうスピードで消費してる感じがあって、これがより写真の刹那的なところを際立たせてるって考えると結構おもしろい振舞い方かもしれん 従来のプリントまでを一纏めにする写真には「過去あった瞬間を永遠のものにする」というはたらきがあったのだけど、単にデータ、情報としてのみ存在する写真の場合、写真それ自体がタイムライン上で「過去のもの」になって流れていってしまうというか
写真はSNSによってその刹那性を増長させる
*このnoteは深夜帯のツイートをつぎはぎして備忘録としたものです 読みにくかったらごめんなさい。 ストリートスナップの主語はどこにあるのか?みたいなとこある 共感とはまた違うステージの話だと思う、鑑賞者は写真の主語になり得るか?という話 写真の主語がどこにあるのか?「私が」立ち合い見て撮ったものとしての写真か?「彼が」営むことが写った写真か?実際は混じり気があるのだけど、その色相がどちらに寄っているのか 「語り部」として撮るのか、「傍観者」として撮るのかということに
街を歩いてたら、写真としてのイメージが景色にダブる瞬間があって、それっていい傾向だと思ってたんだけど結局カメラに見せられてるというか、撮れるようにしか見てないってことなんだよな。 ニュートラルじゃないし、観察できてない。 それで、そこから抜け出すリハビリの手法もわかんないからなおさらシャッター押せなくなるし。つら。 枚数撮るトレーニングは最初の段階にいいんだけど、ちょっとミスると「撮るために撮る」ようになって、次第に「撮るために見る」になってしまう(自分が今そう)。 それ