稽古5回目でした。
こんにちは。Mr.daydreamerの上野です。
稽古も5回目となり、本格的に脚本の立ち上げを進めています。脚本の立ち上げ作業のスピードとしては、順調に進んでいるのではないかと思います。
今回の稽古は、沢見が仕事で遅れて参加することになっていたため、稽古序盤は藤田と稽古場見学の方の2人でワークをしました。そして、そのワークを踏まえて、稽古終盤でシーンの立ち上げを行いました。
少し脱線しますが、Mr.daydreamerでは稽古期間中にワークをすることが多々あります。初対面の俳優がいる現場で、互いの緊張をとくために稽古開始時期にワークを行うのは割とポピュラーではないかと思います。もちろん私たちも、そうした目的でワークを行うこともあります。しかし、ワークを行う基本的な目的は、さまざまな表現方法を試すことです。これを基本的なことだと思われるかもしれませんが、あえて明記しておくことにしました。
今回行ったワークは、上記で述べた目的からは逸れるものになります。私は、上記の目的と同等に重視している目的として、「演出として役者に求める身体性を共有する」というものがあります。
たとえば、役者に「身体の中身が空っぽになったみたいに歩いて」と指示したとします。ですが、こんな抽象的な表現では役者は、「具体的にどう動いたらいいの?」と混乱することになります。その混乱を避けるために、「2人1組になって、片方が風船になりきって、もう片方がそれを息だけで動かす」というワークを考えたりします(もちろん、思ったような効果が得られないこともあるので、数種類のワークを用意して稽古に臨むようにする必要があります。)。こうしたワークをしておくと、「身体の中身が空っぽになったみたいに歩いて」を「あの風船のワークみたいに歩いてみて」と言ったら伝わるようになったりします。
私は、役者の身体性に大きな関心があります。もっと厳密に言うと、「心と身体の関係性と、その関係性の身体的表出方法」となるのかもしれません。つまり私の作品にとって、役者と身体を動かすイメージを共有することは必要不可欠なのです。だからこそワークによって、求める身体性を共有するようになったと言えます。
結局、今回の稽古では、稽古中盤までワークをすることになりました。その詳細に関しては、本題で述べていきます。
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本題
9月14日。5回目の稽古。
今回の稽古では、沢見が途中参加であったため、それまで身体の切り替えをスムーズに行ってもらうためのワークを行いました。
ワークは大まかに分けて2つ行いました。
A. 日常の再現(同じ動作をループ + スローと通常速度を切り替え)
B. 全身ジャンケン →(普通の)あっち向いてホイ
行ったのは、上記の2つです。
Aのワークは、前回の稽古で課題となった、全身を意識して動かすことと、無意識に動かすことの切り替えを意識づけようとの狙いで行いました。この切り替えに苦手意識を持っていたように見受けられたのが藤田だったので、沢見が参加するまでの時間にやってしまおうということで最初に行いました。
Bのワークは、アクティブな状態で、意識的な身体と無意識的な身体の切り替えを行うことを目的としていました。こちらはゲーム感覚でできるワークなので、演劇経験が少ない方でもやりやすいワークだと思います。
ワークを始めるにあたり、前回の稽古で要求した部分の擦り合わせを藤田と行いました。前回、うまくいかなかった理由として、私の要求の言葉の選び方に問題があったことも分かりました。私は、「意識」「無意識」という言葉を選んでいましたが、「マニュアル(操作)」「セミオート(操作)」という言葉の方がイメージしやすかったとのことです。確かに、「意識」「無意識」は曖昧な部分が多いため、身体を動かす操作方法としての「マニュアル」と「セミオート」という言葉を選ぶことで、全部意識的に動かすことと、無意識なままで動かすということを差別化しやすくなるかと思います。こうした、言葉の選び方も稽古の中で細かく修正していきます。
まずは、Aのワークを行いました。ワークを始めるにあたって、自分の身体に無意識に行っていることを書き出してもらいました。書き出してもらった内容は以下の通りです。
(※誰の書いた内容かは、プライベートな内容になるので伏せさせていただきます。)
まばたき・爪いじる・掻く・首まわす・洗い始め(体)
SNSを開く(携帯を開く)・もたれかかる / 動作:まばたき・飲みくだす・息・見る・読む
この中で、それぞれが互いに共感していたのが「体の洗い始め」でした。2人とも体の洗い始めを決めているらしく、そのためいつも無意識にそこから洗い始めるようになっているとのことでした。
今回のワークでは、この「体の洗い始め」を基本動作に指定することにしました。これは、同じ動作を2人で行ってもらうことになるので、2人が一番共感したものを選びました。
ワークの基本的な流れとしては、いつも無意識で行っている動作を反復します。今回は「体の洗い始め」なので、それぞれが体の洗い始めだと思っている動作を繰り返してもらうことになります。この繰り返しの重要な点としては、体の洗い始めが終わった時点で、一旦行動をリセットすることです。リセットの方法として、今回は手を下ろすという行動を選択しました。
いつも無意識に行っていることを繰り返すだけでなく、リセットを挟むことで日頃の無意識を、一時的に、意識的に行わなければならない状態を作ります。その上で、長い時間繰り返すことで再び無意識に行うことができるようになります。そうして何度も繰り返している中で、演出が合図(軽い拍手)を出したらスローで行ってもらいます。スローにすることで、先ほど一度意識にあげたことを、さらに意識させられるようになります。そして、再び合図を出すと、普段通りのスピードに戻ってもらいます。
この一連を長い時間繰り返していきます。
何度も繰り返していくことで、「意識」と「無意識」を行き来することになります。また、繰り返すことでスローも無意識な状態で行ってしまうことを避けるために、2人がスローにしたときに同じ速度で動くことを心がけてもらいました。ここで、2人が同じテーマの行為にしておくことで、スローで互いの速度を意識したときに余計な情報も受け取ることをなるべく減らすようにしています。
その甲斐あってか、ワークをした感想としてスローをとても意識的な行為として認識していたことが分かりました。互いの動きのスロー速度を意識すると、スローのたびに速度が違うため、必然的に行為も意識的になるようです。また、スローのときに、自分の手を何回動かしたのか考えていたという感想からも、このワークが効果的であったと考えられます。
さらに興味深かったのは、スローへの切り替わりの瞬間に、呼吸が変わったという感想でした。この、呼吸の変化は作品の立ち上げにおいても使えるのではないか?と考えました。彼女たちの「日常⇄非日常」の切り替わりの瞬間に「呼吸」を提示することで、切り替わりのタイミングを表現できるのではないか?ということです。
次に、Bのワークを行いました。Bのワークでは、それぞれに全身を使った「グー」「チョキ」「パー」を作ってもらいます。そして、この全身を使った「グー」「チョキ」「パー」でジャンケンをしてもらいます。そして、勝った方が負けた方に「普通のあっち向いてホイ」をします。
このワークから、沢見が参加しました。
このワークでは、アクティブ(流動的)な状況の中で身体の状態を切り替えることを目的としています。全身を使わなければならないところから、部分的に身体を使うことに切り替えるのですが、ゲーム感覚なので簡単にできます。こうしたゲーム感覚でやれることを、演技の中に応用していくことは私の経験上とても有効な手段だと思っています。
……ワークはここまでとして、次に前回の稽古と同じシーンの立ち上げを行っていきました。
前回と違うシーンをやって、なるべく脚本全体を均等に立ち上げていくべきではないか?と考える人もいると思います。シーン毎に力の入り方のばらつきが出ないか、稽古不足のシーンがあったら不安、など理由はさまざまでしょう。しかし、作品全体を平等に立ち上げてもメリハリのない作品になると私は思っています。つまり、どこを切り取っても面白いという演劇は、全体を総合的に観たときに印象に残らないのです。人間の記憶力では、作品全体を覚えておくことは難しいでしょう。だからこそ、お客さんは一番印象に残った部分を作品全体の感想として覚えています。皆さんも、好きな映画や演劇作品を思い浮かべると、印象的なシーンが思い出されるでしょう。冒頭の音楽やセリフから順番に、作品全部を思い出していく人は少ないと思います。
そのため私の稽古では、重要だと思ういくつかの部分を、いったん満足する形になるまで立ち上げます。そして他のシーンでは、それらを引き立たせるためにはどうするべきか?という視点から立ち上げるので、それほど多くの時間や労力を必要としません。
今回の作品では、P.3〜P.5における日常と非日常の切り替わりを、序盤の要所として捉えています。ここをどのように表現するかによって、その後のシーン作りの方向性も決まるため、特に力を入れている状況です。
まずは、前回やったことを思い出すためにも、指定する状態を変えずにやってみました。ワークをしたこともあってか、前回よりも動きの精度が上がっていました。しかし、前回指定した状態では、変化が繊細なものになってしまい、初見では分かりづらいだろうと考えました。
ここで一度、変化の度合いを大きくするために、以下のルールを設定し直しました。
日常:身体は人間的であるが、行動は脚本で指示されている内容に限る。
非日常:身体は機械的(ロボット的)であるが、行動は脚本に指示されていないことでも良いとする。(むしろ、脚本に書かれていない行動を取り続けることを推奨する。)
このルールだと、役者も求められていることをイメージしやすいのか、わりとすんなりと表現できていました。ただ、このルールで最初にやったときに、役者の非日常時における行動が控えめであるように感じたので、その後は、むしろ多く動き回ってもらいました。
このことによって、切り替わりはとても分かりやすくなったのですが、その状態のままで最後のシーンまで場面が展開されることを考えたとき、観ていて疲れるだろうと考えました。ルール変更前の状態であれば、最後のシーンまで継続しても大丈夫であろうと思われたのですが、ルール変更後の状態では視覚的な情報量が多くなりすぎており、その後のシーンで展開される会話のような状態の邪魔になることが予想されました。
……余談ですが、私は観ていて疲れる作品(その疲労が心地よいと思えるもの)が好きなのですが、私の好みで作品を作ったとき、お客さんにはちょっとしんどい作品になることが多かったので、最近は気をつけるように頑張っています。
ここまで試してきて、一度全く違うルールを設定してみることにしました。それは、創作の方向性が固まってきてしまっていたので、方向転換しておかないと試せることが減ると考えたからです。
新しく設定したルールは以下の通りです。
日常:互いの顔を、常に見続けながら行動する。
非日常:顔を背けることを許される
このように設定したことには、2つの理由があります。
1つ目は、日常は決められたことの繰り返しであるということから、身体状況を「決められたこと」として分かりやすく制限したことです。また、「顔」という局所的な固定であれば、顔以外の演技への干渉も少ないことと、「顔を見ながら話す」という状態では、「付随して余計な行動が減る」ということにも繋がるからです。
2つ目は、彼女たちのセリフから、日々を楽しく暮らすということに強迫的にこだわっているように見受けられるからです。その結果として、「顔を見て話す」というコミュニケーションで是とされることを、過剰にやってしまっているという状況を作り出してみようと考えたからです。
このルールでやってみたところ、とても刺激的なシーンが出来上がりました。シーンにおいて、何気なく交わされる会話だと思っていたものに、逆説的にその後に起こることへの予想が促され、彼女たちの日常が限界に達していることが理解しやすくなります。また、役者から「ケンカしてるみたいだった」との感想が出ており、更に日常の限界が垣間見えるようになることも考えられます。
次の稽古でも、この方向性を試していこうと思います。