稽古7回目でした。

こんにちは。Mr.daydreamerの上野です。

今回更新が遅くなってしまい、申し訳ありません。

ついに、9月最後の稽古が終わってしまいました。時間が過ぎるのが早いなと実感しています。

この稽古は、創作の転換点になる稽古だったと私は考えています。

この後の本題で詳細は記載していきますが、演出と役者の間にあった作品イメージの差を確認できる時間でした。この稽古では、結果的にずっと役者と話していました。もし、この役者との対話の時間を外から見たら、無駄な時間に見えるのかもしれないし、ただケンカしているだけのようにも見えるのかもしれません。

しかし、この対話の時間が創作を進めていくために必要なものだと思っています。今までの創作においても、演出と役者の対話で稽古が終わることがありました。そして、この対話の時間を経て創作が前進していったことも事実です。

私の作品を創作する上で、役者に作品の内容や演出的な要求をすんなりと理解してもらえたことはありません。これは、違う人間が集まって創作をする「演劇」としての特性であると言えます。だからこそ、対話の時間が不可欠になるのです。

この稽古の様子を録音したデータがあるのでそれを公開したいところですが、これは稽古場レポートなので、その一部をピックアップする形になるかと思います。 

本題

9月29日。7回目の稽古。

今回の稽古では、前回の稽古でやっていた箇所の続きの創作を行っていきました。脚本のページではP.5~P.8にあたります。まずは、動きの指定を特にせずに、該当箇所を演じてもらいました。

演じ終わった役者の反応から、役者がしっくり来ていないことは理解できました。しかし、私にはその理由が分かりませんでした。そのため、ひとまず演出の視点として演技プランの指定を行いました。

このシーンは、女1が女2を問い詰めるセリフが中心となっています。そのためか、女1が女2に対して強い口調でセリフを発していました。

私の作品解釈のなかに、この強い口調で話すというイメージがなかったので、この点を修正してもらうようお願いしました。これは、強い口調で相手を問い詰めるという行為には、相手を(自分の思う)正しさに押し込もうという意思や、相手を現状から引き揚げようという意思を持っているということが考えられます。

これは女1が現状を諦めていないという意思の表明になってしまうと思われます。私にとって、これは彼女たちの現状からは乖離した心境であろうと思うのです。なぜならば、彼女たちの日常は、すでに限界を迎えているからです。女1にとって、「楽しく暮らす」という漠然と押した目的が呪いになっていると言えます。そのため、彼女の口から明確に「楽しく暮らす」ということがどういうことか説明されることはありません。彼女は、変えられない日常に疲弊するなかで、呪いのようにそれを口にしていると考えることができます。

そのため、役者への演技プランとして、淡々と演じ続けてほしいとお願いをしました。これには役者も納得してもらえました。

その後、役者からあるセリフに関する質問が来ました。それは以下の箇所です。

P.7
⼥1 「昔の人みたいに生きるの、私は嫌だから。」

このセリフが、役者にとって違和感になっているとのことでした。役者が役作りをする上で、このセリフがどうしても引っかかってくるそうです。

このセリフは、役者の脚本の読み解きにおいて、回収されない伏線になっているとのことでした。全部が曖昧に配置されている脚本において、このセリフは脚本世界を理解するためのキーになりうるセリフであるに関わらず、「昔の人」というのがどういう人たちを指していて、それと対比して「楽しく生きる」とはどういうことなのかを理解させることもなく、流れていくとのことです。

また、役者から率直な意見も聴けました。

今回の脚本は、今までの私の脚本と違って、脚本にのせる情報量を意図的に少なくしていました。私の脚本は、思想的な要素が強いことが多いと思っているのですが、その情報量を減らしても伝えられるようになりたいとの思いがありました。そのため、今回は実験的な創作にしたいとも思っていたこともあり、情報量を減らして書いてみました。また、書く言葉もなるべく日常用語に近い、理解しやすい言葉を選んだつもりです。

これに対して役者の印象としては、主に以下の2点があがってきました。

1. 情報を削りすぎていて、観客に伝わらないのではないか?
2. 言葉がチープすぎて、薄っぺらい脚本に感じる。

※他にもいくつか意見が出ましたが、それについては後半で述べようと思います。

この2つの意見は、的を射ている指摘であると言えます。1に関しては、脚本を書いた私自身は、この脚本を演劇として立ち上げることで補完できる部分であると思っていました。

また、2に関しては観客を置き去りにしないためにも、理解が及びやすい言葉(チープな言葉)を用いることで、作品と観客の間の心理的な壁を一つクリアにしておきたいとも思っていました。

しかし、役者の側からすれば、判断材料は脚本だけであり、その懸念は当然のことだと思います。また私の脚本力の拙さが露呈した点でもあるのですが、私の脚本にはト書きがほとんどなく、そのため作品の完成イメージが掴みにくいという問題もあるかと思います。これに関しては、創作の過程でト書きにあたる部分を考えていこうという私の意識が反映している可能性もあります。

役者も自身が表現者である以上、作品が「面白いか」という点は重視される部分であると言えます。自身が面白いと思えないものを、信用して表現できないことは当然のことです。

そのため、創作の場では「何が面白いのか?」ということを、メンバー全体で共有しなければなりません。全体で一致した「面白さ」というゴールに向けて動くことで、そのためにはどうするべきか?が分かってくるのです。演出や脚本に、圧倒的な面白さと信頼があればこの過程は不要かもしれませんが、少なくとも私はそこまでの実力や才能は持ち合わせていないので、この過程が必要不可欠になってきます。

今回、「何が面白いのか?」という部分の共有が難しかった理由としては、私の「会話劇」と役者の「会話劇」の定義が違ったことにありました。おそらく、私の定義がズレていると思われますが、私の会話劇の定義は「会話を主体にした劇」という程度でした。それに対して役者の定義としては「会話によって登場人物たちの背景を含め、会話から様々なものを想起させる劇」というものでした。

この考え方の違いが、役者が抱えていた問題と繋がっていたと言えます。私が脚本で描ききれていない部分を演出で表現すればいいと考えていたのに対して、役者は脚本でどこまで表現されているかを重視していたということです。この違いは、とても大きなものです。端的に言えば、「脚本に書かれていることが全てか、そうではないか」という違いになります。

今回の稽古で、役者が脚本の内容を指摘してきたのは、会話によって全てが表現されるならば、脚本に書かれていることが面白くなければならないからです。その観点からすると、この脚本は実に面白くないでしょう。重要であろう要素は明確に描かれることなく、会話の内容もチープであるからです。

しかし私は、この作品を立ち上げていく中で、表現したいテーマがあります。今回の作品に限ったことではないテーマですが、私は演劇で「自由の概念」を問いたいのです。自由と関連して「孤独」を問う作品もいくつか創作してきたつもりですが、私にとって「自由の概念」の問題は興味が尽きません。「自由の概念」の話をすると、noteが倍近い分量になるので詳細は避けますが、様々な選択を自分の意志で可能になった近代以降、何かを信仰し、拠りどころとするものをつくるということが失われました。それは、精神的な支柱を失うということです。そして、現代においては選択の自由があると言っても、外的な要因(貧困など)によって選択の自由を失っている人々も多くいると言えます。そうした人々にとって、選択することすら許されず、精神的な支柱も失った現代は、非常に生きづらいであろうことは想像に難くありません。今回の脚本は、そうした状況を抽象化して描いたつもりです。抽象化しすぎたのかもしれませんが、そこは演出で補えるのではないかと考えています。

今回の稽古では、役者と演出の間にあった「会話劇」の考え方を確認したことで、区切りがつきました。

今回の稽古場レポートは以上となります。



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