当事者意識を失った私たち
今日は選挙の投票日でした。
私も投票してきたのですが、
メディアが言うには投票率のなんとも少ないことで。
特に20,30代の投票率はやはり低いようでした。
本日はいつものような逃避行のようではなく、
少しだけ現実的なことを書いてみようかと思います。
タイトルからしても取っ付きにくいとは思われうるでしょうが、
何卒お付き合いくださいませ。
さて、話は選挙に戻り、
どうして若者の投票率はこんなにも低いのか。
リテラシーの低さ、関心の薄れなど、
挙げれば様々に言えるでしょうが、
私がここで提起したいのは、タイトルにもあるように、
当事者意識というものが欠けてしまっているのではないでしょうか。
どういうことか。
投票しない者は、
いえ、一部の投票した者でさえ、
選挙のことなど、
自分とは関係のない、
遠い世界のことであると思っているのではないかと、
私は見ています。
かく言う私も、
たかが一票入れただけであって、
そのように思ってしまうことを否定できません。
我が国の選挙であるにもかかわらず、
何がどうであろうとも、
自分の人生には関係のないことであると、
そう思ってしまうのです。
我ながらこのような感覚は、
単に政治に対する興味の薄れであるとしてしまうには、
あまりに奇妙に思えるのです。
だったら何だというのか。
ここでようやく、
当事者意識という言葉が登場します。
当事者意識が欠けている。
つまり、自分の人生を生きているという、
現実の自分自身に対する感覚が鈍くなっているのだと、
私はそう考えています。
今や私たちは、
退屈というものを知りません。
流れてくる情報のまにまに、
気が付けば一日は終わっているのですから。
そのほとんどが、考えてみれば、
自分とは全く関係のないことです。
誰かがこぼした失言、
知らない人同士の不貞行為、
誰がどうだの、
思い返せばどうでもいいことばかり。
それらは、自分のことではないのです。
しかし、私たちは、
それらを体に流し入れては、
気づかぬうちにその波に溺れています。
何かの炎上を見ては、
それだけでは飽き足らず、
また別の火事現場へと足を運ぶ。
私たちは人生の大半を、
そんなことに身を任せる余り、
いつしか自分が生きている世界を、
考えなくなってしまったようにも思えます。
自分の身の回りに起こることよりも、
知らない誰かのことを知っている。
大切にしたいと思った家族や友人よりも、
会ったこともない人の顔を眺めている時間の方が多い。
そうしたことが、
途方もなく積み重なることで、
私たちの当事者意識というものは、
欠けてしまう、というよりも、
溢れんばかりの情報の波に、
流されてしまったのではないかとも思われます。
皆様はどうでしょうか。
自分の世界の事よりも、
知らない世界の方に意識が行ってしまっている。
むしろそっちの世界に生きている。
言ってしまえばネットの中毒症状のようなものです。
あまり薬物と変わりがありません。
選挙の話から大きく逸れてはしまいましたが、
こうして私たちは、
自分の生きる世界に目を向けなくなり、
むしろこの現実の方を、
遠い世界のことのように眺めている。
そうして失くしてしまった当事者意識が、
投票率にも表れているのではないか。
そんな一つの推論を立ててみました。
これは選挙に限らず、
この時代に生きる者であれば考えなくてはならないことであると
私は考えています。
皆様は、どうお考えでしょうか。