アメリカンザリガニ
先日、小学生くらいの男の子が3人、自転車を漕ぎながら、僕の横を通り過ぎた。
「あそこの川で、めっちゃ釣れるねん、アメリカンザリガニ」
「こないだ、お前、めっちゃ釣ってたなあ」
「アメリカンザリガニ、うち、めっちゃおるで」
「今度、一緒にいこうや」
「誰がいちばんでっかいアメリカンザリガニ釣れるか勝負やな」
非常に微笑ましい会話で颯爽と駆け抜ける。
アメリカンザリガニか。
僕の頃は『アメリカザリガニ』と呼んでいたけど。
時代と共に変化したのかと思い、だけどやっぱり気になって、後ほど調べたら『アメリカンザリガニ』ではなく『アメリカザリガニ』だった。
しかし、そんな世間の常識などお構いなしにパッションでやりとりする彼らの姿を思いだし、その会話以上の微笑ましさを感じるのだった。
こういう出来事があるたびに、やっさんを思い出す。
だから僕にとって『その会話以上の微笑ましさ』を感じるんだと思う。
「ここら辺の駐車場、げっきょくばっかりで停められんなあ」
「そこのドンキーホーテーを曲がってすぐよ」
「いま、みなとでは噂になって流行っているらしいよ」
僕はそこに嬉々としてツッコミをいれる。
やっさんは少し耳を紅くしてハニカム。
もう、数えきれないほど、こんなやりとりがあり、懐かしく愛おしい。
僕がチョコレートピエロを引退した後、しばらくしてウシチョコどんな感じ? と、やっさんに聞いたら
「俺の言い間違いを、誰もツッコんでくれないから寂しい」
それを一番に言ってきた。
ウシチョコのメンバーはみんな個性が突出していてボケ属性で、僕は一般的に『ボケ』と思われがちだが、実はツッコミ属性なのだ(多分)。
常識的なものに囚われがちな僕。
そんなものより視覚的、聴覚的、感覚的に捉えるやっさん。
シンヤマンにチョコレート作りを誘われた時も
「うん、いいよ」
僕は、やっさんのそんな部分に憧れ、惹かれ、嫉妬するのだ。
2013年の暮れ。
シンヤマンの自宅でチョコレート作りをしていた頃。
夜の尾道を自転車で駆け抜けながら、やっさんが僕に言う。
「同じ立場である俺たちが、2人でシンヤを支えて行こう」
言い間違えが無い事が逆に気になって「そうだね」と軽い返事しかできなかったが、嬉しかった。認められている気がして、同志と思ってもらえて。
この3人でウシチョコを立ち上げる事ができて、よかった、ほんとに。
そう感じた、何気ない自転車の帰り道だった。
残念ながら、僕は、ウシチョコを離れ、いまだに迷惑をかけているのだが。
一生をかけて恩返しをしていきたい。
そう思える相手がいる人生は、恵まれていると言える、なんつって。
ごめんなさい、ありがとう、これからもよろしく。
今年の春に僕はギックリ腰を経験し、ツライ思いをし、腰を労わるように過ごしているのだが。
当時から腰を痛めていたやっさんのことを思い出し「共通の話題が増えた」と思って嬉しかったのも、なんか書いてたら、僕はやっさんの事が異常に好きなんだなと知り笑ってしまった。
(読んでいる人が)ひいてしまいそうなので、もう手遅れだろうけど、今回はここまで。
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