「意識エネルギー」の現実に寄り添う。
「意識エネルギー」に対する理解を実生活に取り入れ始めると、いろいろと面白いことが起こって来ます。
ですが、気付いたから信じるのか、信じたから気付くのかは、非常に微妙なところがあります。
私はどうだったかと振り返ると、これまた微妙なのです。
平原綾香のジュピターの歌詞にある「愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない。」を信じた過去を振り返えると、スピリチュアルな信仰とまでは言い難いけれど、人生を賭けて、信じてみたことには変わりはありません。
これが「信仰的行為」だったのか、単なる「自暴自棄の行為」なのかも微妙なのです。
今から振り返ると、確率的にはあり得ない、奇跡は起こったのであり、今でも人生を継続して居る自分は、確かに存在して居ます。
「人生の暗黒期」の最晩期の「変性意識」に入った一瞬に、ネガティブな意識存在が伝えて来た、「まだ繋がるとは思わなかった。」や「おまえはついている。」と言った程度の理解では、まったく納得が行かないのです。
こんなに手の込んだ奇跡(イルカを擁する絶海の孤島の、たった1日の接点での、過去のニアミスを推測させる嫁との出会い)の演出に、この程度の理解では、仮にも「科学精神」を生業とする私自身を納得させることは到底出来ない相談なのです。
「意識エネルギーとはいったい何なのか」を、人生をかけて探究することは、私のライフワークと成っているのです。
さて、先日会社近くにある「牛頭天王」ゆかりの神社を昼休みに探索して居て、偶然ある「銀杏の木」に出会いました。
そこは、稼穡稲荷(かしょくいなり)と呼ばれる、京都の伏見稲荷から意識エネルギーを勧請した小さの神社の敷地です。
樹齢500年を超える素晴らしい「銀杏の木」が、「存在としての風格」をその佇まいを通して発して居ました。
この様な、存在から(意識エネルギーから)の呼ばれ方は久しぶり(約15年ぶり)です。
それは、東京の青梅市近くのとある神社での出来事で、古来からある、丘の上の神様を先にお参りしろと、お賽銭を隠されて促された思い出を彷彿とさせます。
この度も、土地神様への初参りを、巨大な「意識エネルギー」を発する、御神木の神様を先にお参りしろと、促された気がしてなりませんでした。
ここの神社は、「六行会」とも関係しており、何らかの「人知を超えたエネルギー」が感じられて、とっても楽しみな体験でした。