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ハイデガーの「野の道」と「目立たぬもの」とは。2
ハイデガーは、私の「大先輩」だと何度も述べて来ましたが、これらの発言は、決して根拠がない戯言として述べている訳ではありません。
それは、過去の私の体験と符合する部分が非常に多く、これが「人間の意識進化の一つのモデル」として、有望だと考えるからでもあるのです。
さて、私の場合もそうですが、『ハイデガーの「野の道」と「目立たぬもの」』の理解に至るには、【放下】と言う言葉の意味を理解する必要があります。
これを一つ一つ読み解くために、以下の轟孝夫氏の著作【ハイデガーの哲学『存在と時間』から後期の思索まで】からの抜粋を借用させて頂き、述べてみたいと思います。
【ものへの放下】
ハイデガーは「技術」 の本質を「駆り立て-組織」と規定した。この「駆り立て-組織」 は「人間」を、挑発する「開示」 へと向かわせる。しかしわれわれ「人間」は、「駆り立て-組織」の要求になすすべもなく従うしかないのだろうか。そうではないとすれば、われわれにはどのような可能性があるのだろうか。
ハイデガーは一九五五年に故郷メスキルヒで行った講演「放下」(『演説と生涯のその他の証ハイデガー全集第16巻』所収)において、技術時代において単に「技術」に追随するのではない、「技術」に対するしかるべき態度を「放下(Gelassenheit)」として主題化している。以下ではこの講演に即して、「放下」がいかなる態度なのかを見ていきたい。
ハイデガーはこの講演で、技術的な装置や機械がわれわれにとって不可欠なものとなっている今日の状況において、「ただやみくもに技術的世界に逆らうのは愚かなことであり」、「技術的世界を悪魔の仕業と非難しょうとするのも近視眼的である」と述べている。
ここからもわかるように、彼は「技術」の全面的な拒否を推奨しているわけではないし、そうしたことが可能だとも考えていない。
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私は、「人生の暗黒期」に同様の体験をしています。
当時、ソフトウェアのエンジニアとして仕事をしていた私は、上司から強烈なパワハラを受けていました。
そこに至る経緯はいろいろとあったのですが、私は技術者として、「駆り立て-組織」に対して精一杯の努力を惜しまず、「滅私奉公」に努めていました。
当時はまだまだこの四文字熟語が美徳とされており、入社時に配られた本の中には、これが企業人の心得として書かれていました。
その挙句の果てが、客先の会社にほったらかしにされ、数カ月に渡り「孤軍奮闘」を強いられた顛末なのです。結局は、装置の「請負」とは名ばかりの、「偽装請負」だったのです。
上司にはこの状況を逐次報告していましたが、口ばかりで対応がなく、状況をこじらせて行ったのです。
バブル崩壊の後で、多くの「組織」が弱体化していたのもありますが、客先からクレームがついて、やっとこさっとこ重い腰を上げたのですが時すでに遅しです。。。
しかし、この状況を誰が防止し得たのか。
上司に経験が乏しく、この状況を誰も防止し得なかったのです。
「駆り立て-組織」は、上司にも同等に「駆り立て」を行ったのです。
さて、ではどうなったのかと言いますと、ここから1年近くにわたり、不採算な作業を強いられることとなりました。
会社は契約に縛られており、がんじがらめだったのです。
主題から逸れますのでこれ以上は書きませんが、公平に見ると、「駆り立て-組織」は、人間という「存在者」に対して十分な役割を果たせていないし、「資本主義」自体が、既にそれを助長する構造(次元水平の政治的構造)しか持ち合わせていないのです。
では「共産主義」なのかと問われますと、「政治と科学」と呼ばれる「次元水平的(唯物的)な力の対抗軸」しか持ち合わせておらず、歴史的に見ても結果は明らかです。
またこれらも、「欧米文化圏」と、「極東文化圏」では、症状の出方が違っていて、双方それぞれが「唯物的な科学主義」と、「伝統的自文化の全否定」として、現れています。
これをヌーソロジーの言葉で表現すると、『「人間の内面」の盲目的信仰』と『「人間の外面」の全否定』となり、同じものの「表(関係)と裏(場)」である事が良くわかります。
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しかしハイデガーは他方で、「技術的対象はわれわれにつねに改良することを求めてくる」ため、われわれは「技術的対象にあまりにがんじがらめになり、技術的対象の奴隷になってしまう」 ことにも注意を促す。
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まさに、「滅私奉公」は、その典型だったのです。
「啓蒙思想の時代」には、それでも十分に機能していたと思いますが、それは貧しかった過去のもので、既に時代遅れと化していました。
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ハイデガーはここで、「技術」の全面的な拒否でもなく、かといって「技術」に対する単なる追従でもないような第三の可能性を提示する。
「われわれはたしかに技術的対象を使用しながら、しかし同時に、その適切な使用にもかかわらず、技術的対象をいつでも手放すという仕方で技術的対象から自由になることができます」。
この態度についてハイデガは、さらに次のように説明する。
「われわれは技術的対象をそれらがそう受け止められるべき仕方で、その使用においても受け止めることができます。
しかしわれわれは同時にこうした対象を、われわれのもっとも内奥の本来的な部分には関わってこないものとしてそのままにしておくこともできます。
われわれは技術的対象の不可避の使用に対しては『然り』と言うことができ、また同時にわれわれは技術的対象がわれわれを独占的に酷使し、そのようにしてわれわれの本質を歪めてかき乱し、ついには荒廃させることをそれら技術的対象に拒むという意味で『杏』 と言うことができます。」
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しかし私には、これが出来なかったのです。
組織の中の一員として、どうすることも出来なかったのです。
この時点では、『「技術」に対する単なる追従でもないような第三の可能性』など、全く知らなかったのです。
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ハイデガはここで述べられているような、「技術的世界に対して同時に『然り』と『否』とを言う態度」をものへの放下(Gelassenheit zu den Dingen)」と名づけている。
この「ものへの放下」は、いかにも中途半端で煮え切らない態度に見えるかもしれない。
しかしわれわれがこうした「ものへの放下」という態度を取るためには、少なくとも、ある事物について技術的な「開示」だけではなく、それとは異なるより根源的な「開示」の可能性があることを知る必要がある。
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『根源的な「開示」の可能性』とは何なのか。。。私はそのことを知りませんでしたが、持ち前の忍耐強さと消極性のお陰もあって、そこに居続けることを図らずもがな選択したのです。
この状況は、ある意味で、「ついていた」とも言えるのですが。。。
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このことを認識しているからこそ、われわれは事物に対する技術的な関わりを絶対視せず、そこから距離を取ることができるのだ。
しかしそのためには、われわれはいずれにせよ、「技術の本質」が事物のある特殊な開示のあり方に存することを認識する必要がある。
つまり今日、われわれはつねに「駆り立て-組織」によって「技術的開示」を引き受けるよう要請されており、この要請から逃れられないことを意識することが、そうした「技術的開示」をある局面にむいて拒否することの前提となるということだ。
このことは、単にある特定の技術的対象(たとえば原子力技術)の使用を拒否することとはまったく次元の異なる話である。
こうした場合、われわれは「技術の本質」としての「駆り立て-組織」を相対化できていないにもかかわらず、技術の問題を克服したと思い込むことにより、かえって「駆り立て-組織」を温存してしまうのである。
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おそらくここだけ見ると、何のことを指すのか分かり難いと思いますが、『単にある特定の技術的対象(たとえば原子力技術)の使用を拒否すること』は、次元水平的態度、つまりは「関係の意識」による政治的、対抗的な態度ということで、ハイデガーはこの態度を否定するのです。
『こうした場合、われわれは「技術の本質」としての「駆り立て-組織」を相対化できていないにもかかわらず、技術の問題を克服したと思い込む』とは、「相対意識の鳥籠」を認知できていないにも関わらず、これを克服したと思い込む態度だと指摘するのです。
『つまり今日、われわれはつねに「駆り立て-組織」によって「技術的開示」を引き受けるよう要請されており、この要請から逃れられないことを意識することが、そうした「技術的開示」をある局面にむいて拒否することの前提となる』とは、「ある局面」、つまりは、「目に見えない存在の影響力」の思う壺を拒絶する態度となると言うことです。
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したがって、まずは「技術の本質」の所在を把握すること、すなわち「駆り立て-組織」による「技術的開示」の無理強いの避けがたきを冷静に見極めること、そのことこそが、必要なときにはあえてそうした無理強いを拒むという、技術的対象に対する自由をわれわれに与えるのだ。
このような姿勢こそか、「技術的世界に対して同時に『然り』と『否』とを言う態度」の意味するところなのである。
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この【(「関係の意識」からの)自由】こそが、「資本主義(自由主義)」の「パンドラの箱」の底に残された、「最後の希望」なのです。
この「技術的世界に対して同時に『然り』と『否』とを言う態度」こそが、量子力学で言う「不確定」な態度であり、人間の「関係の意識」のストレスが、素粒子(3次元意識の基底)に向かって根源化された時に発現される「場の意識」、つまりは次元垂直な、高次元へと開かれた態度となるのです。
つまりはこれにより、「意識の(高次元への)方向性」としての、「意識進化の必要条件」が揃うのです。
これらは、人間の「自己意識の本質」が、「空間構造」であるとの理解から来ているのです。
この理解に少しでも近付きたいと思われた方は、以下の過去ブログをご覧下さい。
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なおここで「放下」という訳語について説明しておくと、その原語"Gelassenheit"は形容詞"gelassen"から派生した名詞である。
この"gelassen"は元来、中世の神秘主義の用語として「神に身を委ねた」という意味であったが、今日では一般化されて「平静である」とか「落ち着いた」という意味で用いられている。仏教の禅宗で一切の執着を捨て去ることを「放下」というので、そうした連関から神秘主義と深い関係をもつ"Gelassenheit"という語に「放下」という訳語が当てられるわけである。
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つまりは、そういう事なのです。
私はこれを、知らず知らずの内に体現していたのです。
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では次回も、『ハイデガーの「野の道」と「目立たぬもの」とは。』のつづきで、「意識進化の必要条件」に対する、「意識進化の十分条件」について、書きたいと思います。