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「奇跡」が始まる前に。
私は、「光」と「闇」といった二項対立の関係を真実とは思いません。
私は、「場」と「関係」の言葉をよく使用しますが、これらは決して、二元的な二項対立の概念ではありません。 「関係」とは、「場」が背景にあり、「場」とは、「関係」が繰り広げられている場であり、位置(次元)の事です。
言葉を変えると、「場」は本来、「関係」を超えて含んだ状態の総称なのです。
そこには常に「方向性」が潜在しており、人間は、誰にでもそれが解るのです。
よって、本来は、これらの概念に、対立はないのです。 「9次元存在」が表現する「光」と「闇」にも、本来的に、対立的な関係は存在しないのです。
「光」とは、光量子「場」のことであり、「闇」とは、光の強弱の相対「関係」に過ぎないのです。
前置きが長くなりました。
私が「人生の暗黒期」に喘いでいた頃、パワハラ上司を通した、お試しがありました。 私は、その上司の事が大嫌いでしたが、その上司に逆らって、争いを増長させることを、望みませんでした。
「臆病」だからとか、「自暴自棄」だからとか、その当時は、私自身もそう思い込んでいました。
そう、全く自分の事を信じていなかったのです。
「目に見えない存在の思う壺にハマりたくない」と思ってはいましたが、全面的に信じた訳ではなかったのです。
ですが私には、「心の奥底の強烈な歯止め」があって、他者を傷つけながら物事を進める、暴力的な所作を許せなかったのです。
それは、女性に対しても同様でした。 私も人の紹介で結婚し、外見上は人並みに家庭を築きましたが、どうにも性格がかみ合わず離婚に至りました。
性的なコンプレックスも増大し、女性恐怖の症状もピークに達します。
女性への暴力行為がマスメディア等で報道される度に、等身大の女性を知る機会を、更に逸していったのです。
私は女性を、同じ人間なのに、神聖視しすぎていたのです。
こんな状況ですから、「心の葛藤」は、募るばかりです。
パワハラ上司からの執拗な嫌がらせと、女性に対するコンプレックス、更には、田舎の独身寮住まいによる孤独な生活が重なって、いつしか「心の葛藤」は、ピークに達します。
「心の中の、強烈な歯止め」のためか、社会性を逸脱する行為をかろうじて回避して来た私ですが、次第に「心霊的な体験」をする様になります。
ある時は、目覚めの間際に金縛りにあうことが続いたり。 ある時は、悍ましい性的な悪夢を見たり。
ある時は、目覚めの直前に、部屋中に生木が爆ぜるような破砕音が響き渡る(現実と虚実の聞き分けが難しい程の)、猛烈なラップ現象を体験したり。。。
そしてその極めつけは、出張の帰り道で、車窓から目撃した、とある風景です。
それは、真っ赤な夕焼け空を背景に、輝く金星の真下の鉄塔のシルエットにぶら下がる様に、鋭い三日月が、まるでギロチンの様な姿で、私に語り掛けてきたのです。
そう、まるで「死刑宣告」の様にです。
そして更に、とある変電所の上空に、空が真っ黒に染まる程の激烈なカラスの大軍を目撃するに至っては、もう「万事休す」である事を悟ったのです。
ですが、ここが不思議なのですが、その場に「恐怖の感情」が、なかったのです。
と言いますか、「感情を逸らしている自分」と言うのが、正確な表現かも知れません。
こんなに強烈な「現実の風景」と「心象風景」の共鳴体験にも関わらず、「恐怖の感情」が湧かなかったのです。
そう、そこには、冷徹に自分の現実と感情を観察する「もう一人の自分」がいる感覚なのです。
さて、今だからこそ呑気に言えますが、ここから感じ取れるのは、いったい何なのでしょうか。
その当時は、「もうすぐ死ぬのかな」と言った「絶望的な感覚」でしたが、それにしては、 あまりに感情が動かないのです。
怖いと思うのですが、麻痺しているとでもいうか、冷徹とでも言うか、極めて冷静なのです。
私は、パワハラ上司に対する辛抱が、限界に達するまで、感情から来る相手への対抗的な行動を、「自らのプライドに掛けて」、徹底的に放棄したのです。
「自らのプライドに掛けて」とは、なんだか奇妙に聞こえるかも知れませんが、ひとつは、あのような卑劣な人間に自分が翻弄される事に、我慢がならなかったのです。
今から考えると、自己信頼が皆無なのに、「プライドに賭けて」とは、随分と矛盾した話です。
めちゃくちゃですよね。。。
ですが、ある意味、そこを乗り越えた事で、変化が生まれ始めたのです。
そうとしか思えないのです。
そこから「怒涛のような奇跡(人生の反転)」が、始まったからです。
さてさて、ここまで書いて来て、結局は「自分のプライド」を優先させただけではないかと思われた事でしょう。
でも、「自分のプライド」だけで、ここまで耐えられるものではない事も、お解りだろうと思います。
次回は、この辺りから書いてみたいと思います。