「場の文明」の潮流と「関係の文明」の潮流としての、地球自体の生命表現の発露とは。
千賀一生氏の『ガイアの法則』は、スピ系を標榜する方々には、なじみ深い書籍だろうと思います。
私の場合、初版からは少々遅れてのデビューでしたが、夢中になって読んだスピ系書籍の一つです。
その説得力は半端ではなく、フィクションであると書かれてはいましたが、表現の仕方(体験物語の構成)はともかく、内容は本物だろうと思っていました。
特に2013年に発生した、「西回りスピンの文明エネルギー」との交差は、まさに2020年の東京オリンピック招致決定の年とも重なっており、日本に対するネガティブな影響を懸念した一人です。
その件も、以前の私のブログに何度か書いたことがあります。
残念ながら、その懸念は的中し、大きく拘った経済効果はコロナの影響もあって殆どなく、かえって日本の活力を疲弊させ、ネガティブな影響となったのは記憶に新しいところです。
これらの全てを、「因果関係の連鎖」で捉えようとすると、予測不能な事だらけですが、「大地の場との意味共鳴」で捉え直すことで、予測可能なこともあるのです。
まさに、これだけでも「地球自体の生命表現の発露」と言えそうですが、実は、これだけではないのです。
これは、「東回りスピンの文明の潮流」と「西回りスピンの文明の潮流」を「陰」と「陽」の構造で読み解くのみならず、「場」と「関係」の構造を沿える事で見えて来るのです。
それをブログに書いたのが、以下となります。
不思議なのは、それが目に見える次元で、つまり地理的な、あるいはそこで暮らす人々の気質として確認できるのです。
それが、「関係(一神教)の文化の潮流」の気質的な対立となっている「南北の分極」と、「場(多神教)の文化の潮流」の気質的な対立となっている「東西の分極」です。
別な表現を使えば、「南部と北部」あるいは、「関西と関東」などと言ったりします。
または、統一戦争における、「南軍と北軍(南北戦争)」、または「東軍と西軍(関ヶ原)」もそうですね。
これらの「場と関係」が、「二極構造」ではなく、「双対構造」として見えるのです。
また、これらの紛争が、「内政問題」か「内政干渉」かによって、現れ方が逆になるのも不思議なところです。
「内政干渉」の例としては、「東西ドイツ」と「南北朝鮮」の紛争が上げられます。
そして「関係の文明の潮流」と「場の文明の潮流」の交差によって、「文化的DNA」の交換が起こって見えるのです。
だからこそ、その霊的メッセージは、それぞれの「文化的な象徴性」の結合によって、「意味エネルギー」を持つのです。
否、正しくは、地球規模の「意識エネルギーの交差」が、「文化的象徴性の交差」として見えていると表現した方が、的を射てると思います。
それが、以前のブログの『人間の可能性について、チャットGPTと話してみました。』に書いた大雑把な論旨です。
それらが、日本独自のカタチとなって羽ばたこうとしているのです。
それが、オルタナティブな「文明規模の新たな合理性の発現」として感じられるのです。
それが、「科学(物質)文明」を超えて含んだカタチで、起ころうとして見えます。
この構造を「地球自体の生命表現の発露」以外に何と表現すれば良いのでしょうか。
私のブログは、過去の同じ体験の、幾度に渡る読み直しによって、スパイラルに深まって(高まって)行きます。
これらの「共鳴現象」を「引き寄せの法則」と呼ぼうが「意味共鳴の現象」と呼ぼうが、どちらでも構わないのですが、「関係の文化」と「場の文化」の、どちらの文化的背景の影響が強いかで無意識に選択されるものと思われます。
まあ、嫁との出会いも引き寄せですし、京都への誘いも引き寄せと言うことも出来ます。
これらは、願望実現のために意識的に考えたり行動したりした結果ではありませんので、法則を意識していても、何の役にも立ちませんが。。。
ちょっと意味深ですねえ。。。巷で言われる「引き寄せの法則」とは内容が正反対です。
そこにはどんな秘密があるのか。。。
さあ、もう、逡巡している暇があるなら、「スピリチュアルな冒険」の「清水の舞台」へと歩みを進めてみては如何でしょうか。