サイゼで喜ぶ彼女
今年Twitterである投稿が話題になった。
男性のイラストレーターが「サイゼで喜ぶ彼女」と題するツイートで、自分の架空の恋人がサイゼリアのテーブルの向かいに座って嬉しそうに食事している様を描いたイラストを投稿した。
「炎上」したのは描く技術についての批評ではなく、主に二つの論争があった。
まず、描かれている女性の胸が大きいということだ。
イラストの女性の胸の膨らみは平均的な女性よりちょっと大きいと思えなくもないが、そうだとしても微妙だ。
胸が大きいことが問題なのは、詳しくコメントをチェックしたわけではないが、一つはイラストの女性は投稿者の理想像を描いたものに違いなく、女性側が「男性が求める理想像を押し付けられた」という反感を抱いたらしい。
そして、もう一つのほうが論争の中心と言えるもので、簡単にまとめると、「サイゼでデートを済ますのは女性を安く見ている」ということらしい。
個人的意見を言わせていただくと、最初はくだらないと思わざるを得なかった。
しかし、この話題を取り上げようと思ったのは、この論争の論点を掘り下げて読者にわかりやすくお伝えしようと思ったからだ。
まず、胸に関する論争だが、第一に投稿者がどういう意図でそのようなイラストを描いたかが問題なのではないか。
なぜなら、女性側が「男性が求める理想像を押し付けられた」と感じている以上、問題にしているのはイラストを描いた投稿者の意図だと思うからだ。
一つの仮説は、イラストの女性は投稿者が純粋に自分が理想とする恋人像を描いたということだ。
しかし、もしかしたら彼は本当はもっと胸の大きい女性が好みだが、Twitterというなかば公共の場で投稿するにあたり、多少遠慮して小さめに描いた可能性もある。
そうなると、イラストは彼の純粋な理想とは言えないことになる。
もう一つの仮説は、イラストの女性は投稿者が想像した一般の男性が理想とする恋人像を描いたということだ。
要するに、自分の好みはいったん捨てておいて、世の男性の受けをねらって描いたということだ。
そして、一つ目の仮説と二つ目の仮説の両方を含めて描いたという仮説もまた立てられるわけだ。
しかし、それは本人に聞いてみないとわからないし、そこまで深く意識しないで描いたのかもしれない。
そうなると深層心理の領域になってしまう。
話がそれるが、僕なんかはなぜこんな微妙な描き方をしているイラストが話題になって、もっと過激な描き方をしているイラストのほうは今まで話題にならなかったのだろうかという疑問を抱いた。
なぜなら、僕は女性の胸やお尻をもっと極端にデフォルメして、男性の性的興奮を刺激することを目的として描いているイラストレーターが多く存在することを知っているからだ。
話を戻すと、投稿者がどういう意図で描いたのかは他人に簡単に推し測れるものではないということだ。
しかし、僕はさっきの仮説を考えた時、なぜか自分がプロのミュージシャンを目指していた過去のことを思い出してしまったのだ。
なぜなら、これには音楽だけではなく、様々なジャンルのクリエイターが職業としてやっていく上で必ずといっていいほど直面する問題が含まれているからだ。
音楽をやっている人はプロ、アマチュア問わずもちろん音楽が人一倍好きでやっているわけだが、どんな人でも当然自分の好みの音楽がある。
特定のミュージシャンだったり、ジャンルだったり、年代だったり様々だが、その好きな音楽というのは自分が理想とする音楽だ。
しかし、職業としてミュージシャンをやっていく上で、自分が理想とする音楽と世間が求めている音楽の間にギャップがあるということがしばしばあるらしい。
職業として収入を得て生活していくためには当然自分の音楽が売れなければいけないわけだ。
だから、人によって差はあると思うが、ある段階である程度自分の理想を捨てて世間のニーズに合わせなければいけない状況に直面するらしい。
僕は今まで色々なミュージシャンの曲を聴いてはその点を想像していたのだが、やはり他人には簡単に判断できるものではない。
しかし、音楽をたくさん聴いてきたなかで勘が備わってきて何となくわかるような気がしてきた。
それは個人によっても、曲単位でも、アルバム単位でも違ったりする。
話を戻すと、胸に関する論争の一つの問題点はこういうことではないだろうか。
ネットのような不特定多数の人の目に触れる恐れのある場所では、世間一般の様々な考えを持った幅広い人間に対する配慮が必要だ。
ネットで活動している人は今回の騒動で一つの教訓を教えられたのではないだろうか。
ただ、個人的にはイラストの女性が作者か一般男性の理想像を描いたものだとしても取るに足りないと思う。
男性のほうも女性の理想像を押し付けられたと思うことはしょっちゅうあるのだ。
サイゼに関する論争だが、ご存じのようにサイゼリアは安さを売りの一つにしている店で、彼女を連れていく店としては安い店の代名詞のようになっている感もある。
「彼女を連れていく」と言ったのは、知り合ってそんなに長くない彼女を牛丼屋やラーメン屋には連れて行かないというのが一般的だからで、サイゼリアは彼女を連れていっても差し支えない「おしゃれ」と「安い」という二つの要素が備わっているために、特に若者には人気のレストランだという万人周知の事実に基づいている。
余談だが、僕はサイゼリアが安いのは材料やサービスに手を抜いているわけではなく、イタリア料理というのはレシピの関係から安くできるからで、サイゼリアはイタリア人でも褒めるほど質という面で劣っていないことを知っているのだ。
一般論として、安い店に自分の彼女を連れていったから女の価値を低く見ているというのは、一概には言えないと思う。
そもそも男性が女性に奢らなければいけないという習慣自体疑問だという議論もあるが、この記事ではあくまで男性が勘定を払う場合について話を進めていく。
この論争でもっとも重要なのは、男性のほうの女性に対する気持ちだと思う。
連れて行く店の値段はもちろん男性の経済力が大きく関係する。
仮に二人の男性の恋人に対する愛情の度合いが同じだと仮定しても、経済力が大きく違えば一方の男性の連れていく店は値段的に劣ってしまうと考えるのが自然だ。
もちろん愛情や経済力の度合いが連れていく店の値段にそのまま反映されるわけではないが、議論上の話だ。
経済的にそれほど余裕のない男性にとってサイゼリアはそれほど安いという感覚はないから、彼女を連れていっても差し支えないのではないだろうか。
しかし、いかにも経済的に余裕があるように見える男性が彼女をサイゼリアに連れていったら、女性のほうは自分の価値を低く見られていると受け取ってしまうのは仕方ないのかもしれない。
「女を安く見ている」というのはほとんどが女性の側から出た意見に違いないだろうから、彼女たちが問題にしているのは相手の男性の自分に対する気持ちのはずだ。
相手の気持ちは連れて行く店の値段だけで単純に測れるものではないというのは普通に考えればわかると思う。
連れて行く店だけで相手の気持ちを判断するというのはあまりに一面的だからだ。
しかし、もう一つ重要なのは、これとは裏腹の女性のほうの男性に対する気持ちではないか。
相手の男性へ何を求めているかによって女性のほうの受け取り方は変わってくると思うからだ。
彼氏に愛情を注いでもらうことを求めているのだとしたら、店だけではなく、相手の表情や会話の内容や雰囲気なんかで察するしかないのではないか。
しかし、女性によっては男性が注いでくれる愛情だけでは自尊心を満たすことができずに、貢いでもらうことでしか自尊心を満たすことができない女性もいるようなのだ。
男性の側から出た意見のなかに「初デートをサイゼにした時の反応で金目狙いの女を排除できる」というものがあったようだが、そういう男性は過去にそういう女性と付き合った経験があったから、そういう知恵を身につけたのだろう。
ただ、ここで「初デート」というもう一つの論点が加わる。
初めてのデートで安い店に連れて行かれるのは、なおさら「女を安く見ている」ように感じるという意見が女性の側にあったようなのだ。
それは初めてのデートというのは男性が奢る場合、多少奮発するのが当たり前という固定観念から来ているのではないか。
これも状況によって変わってくることで、一概には言えないことだ。
貢いでもらうことを期待する女性の心理がはっきりわかるわけではないが、個人的には、そういう女性は恋愛経験が浅いか、そういう恋愛に憧れるような年頃か、真剣に恋愛しようとさえしていないかだと思う。
単に損得勘定だけで付き合っているのだとすれば「男の価値を低く見ている」ということで、まさに「ブーメラン」になってしまうだろう。
そういう男女の関係の成り行きはある程度想像してみればわかることだ。
経済的に余裕のある男性がさっき書いたような女性と付き合って、しきりに高い店に連れていってあげたり、プレゼントを買ってあげたり、旅行に連れていってあげたりする関係だ。
ここで書きたいのは貢いでもらうことを期待する女性の話なので、女性のほうの男性に対する愛情は薄いものと仮定する。
もし男性のほうの女性に対する愛情が薄いなら、そんな関係は長く続くはずはないと考えるのが自然だ。
なぜなら、男性のほうにそんな女性にそれほどお金を費やしてまで交際を続けていく理由がないからだ。
もし男性のほうの女性に対する愛情が深いなら、さっき書いた関係よりは長続きすると考えるのが自然だ。
しかし、そんな関係だってあまり長続きするはずはないと思う。
いずれ男性のほうが相手の薄情さに気づいてしまうだろうから。
僕の経験から言って、自分の気持ちに二股をかけている場合もあるので、相手の女性が思っている以上に自分に好意を抱いていると思わないほうがいい。
女性のほうも傷つきたくないから、相手を信じる気持ちと疑う気持ちを常に持ちながら付き合っている。
そういう女性に別れ際、「あなたのことなんか好きでもなんでもなかったのよ」と言われても、それは彼女が経験から身につけた自分の身を守る知恵なのだから、女性のほうを非難するだけでは男として野暮だ。
男性のほうも自分の身を守る知恵を身につけなければいけないことは、僕自身、身を持って知ったのだ。
だから、男性のほうは相手が実際以上に自分に惚れていると自惚れないようにしておけば、いざという時、それほど傷つかずにすむと思う。
言い換えれば、女性側と同じく、信じる気持ちと疑う気持ちを同時に持ちながら付き合うということだ。
さっきの話とは逆のケースにも触れておく。
世の中には経済的に恵まれた女性もいるのが現実だ。
そういう女性は普段から値段の張る店に行き慣れている。
もしそういう女性に惚れてしまっても、彼女のほうには悪気はないが、経済的格差のために彼女を満足させることができないのであれば、僕だったら諦める。
男女の関係を長く続けるには、お互い「釣り合う」ということが大事な要素というのが僕の持論だ。
しかし、ここまで触れてきたような男女の関係は議論上書いたことで、「良い恋愛」「健全な恋愛」をしたいと思っているなら、駆け引きのような恋愛をする必要はないと思う。
どんな恋愛だってお互いの愛情や真剣さの度合いに大きな差があるなら長続きするはずはないというのが僕の持論だ。
この論争のもっとも肝心な点である男性のほうの気持ちについてだが、「サイゼでデートを済ますのは女性を安く見ている」という言葉通り、男性のほうが女性をただ「都合のいい女」と思っているとしたら良い恋愛とは言えないと思う。
どういう恋愛をしようが個人の自由だ。
恋愛の仕方は十人十色である以上、どうしても一般論ではなく個人的意見が多くなってしまう。
しかし、良い思い出で終わらせるか悪い思い出で終わらせるかは自分の責任に拠るところが大きいのは確かだ。
「あんな人と付き合わなければよかった」と後悔しても、半分はそういう相手を選んだ自分自身の責任なのだから。
あっという間に終わってしまった恋愛でも真剣に愛し合ったのならそれでいいと思うし、だらしのない相手でも一緒にいる時間が楽しかったならそれでいいと思う。
最初のほうで知り合ってそんなに経っていない彼女を牛丼屋やラーメン屋には普通連れて行かないという話をしたが、僕は街でカップルを見るとこう思ってしまうのだ。
いかにも一緒にいる時間が楽しくて浮ついているようなカップルほど二人の関係はそんなに長く続かないだろうと思ってしまうのだ。
逆に、一緒にいても喋るのは一言二言だけだったり、お互い白けているように見えるカップルは、二人の関係は盤石かもしれないと思ってしまうのだ。
それと同じように、牛丼屋やラーメン屋で人目もはばからずに食事しているカップルを見ると、「この二人の関係はかたいな」と微笑ましく思ってしまうのだ。
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