山川 岩魚

大自然の中で遊ぶのが大好きな中年男性です。仕事は医療関係です。大自然、家族、仕事にまつわるエッセイを書きたいと思っています。

山川 岩魚

大自然の中で遊ぶのが大好きな中年男性です。仕事は医療関係です。大自然、家族、仕事にまつわるエッセイを書きたいと思っています。

最近の記事

Sさんのこと

 30年前に書いた講演会のための原稿を読み直してみようと思ったのは、当時同じ職場で働いていた方から手紙をいただいたのがきっかけである。懐かしく思いながら手紙を読み進むうちに、当時のさまざまな記憶が鮮やかに蘇ってきた。中でもひときわ鮮明だったのが、Sさんにまつわる経験であった。  小さな町の病院で私がSさんを初めて診察したのは、30年前の秋のこと。がん末期と診断された彼女は自宅で過ごしたいと自ら希望した。今でこそ、在宅医療という選択肢が世の中に知られるようになってきたが、介護

    • ほうれん草の根っ子

       ほうれん草の根っ子を見ると学生時代に通っていた食堂をいつも思い出す。葉と根の間の淡いピンク色が記憶の扉をそっと開けてくれる。  大学進学を機に自宅を離れて見知らぬ町に一人で住むことになった学生は、衣食住の困難に初めて直面することになる。とりわけ食は死活問題である。安い・おいしい・ボリュームがあるという三拍子揃った食堂を住居近くに見つけられれば運がよい。  40年近く前の話になる。私が医学生だった当時、医学部の前には食堂が二軒並んであった。一つはチェーン店の半田屋食堂、も

      • 直立二足歩行

         不妊治療をやっていた次女に昨年秋、待望の女児が生まれた。私にとっては初孫になる。どちらから言うわけでもないのだが、いつの間にか月に1回くらいの頻度で私の家に孫を見せに来るようになった。今年1月から一線を退いて週の半分は自宅にいることになった私は、孫と過ごす時間が多くなった。  30数年前に自分の子供(孫の母)が生まれた時期は仕事が忙しすぎて、子供たちがどんな風に過ごしていたのか、どのようにして成長していったのか余り記憶に残っていないというのが正直なところである。平日の帰宅

        • 五官で感じる

           目が覚めて、深い森の中に駐めた車の窓から外を見ると真っ青な空が広がる快晴だった。森を流れる川の河原に駐めた車から降りてキャンピングチェアに座り、森の梢から顔を出したばかりの太陽を見ていた。  北海道は誰も使う人がいない自然河川の河原が無数にあり、わざわざ人工的に作られたキャンプ場に行かなくても、キャンプをするところはいくらでもある。昨日は誰もいない行きつけの河原で車中泊をしたのであった。  近くの森で名も知らない鳥たちが快活な声でさえずっている。夕方、うるさく飛び回って

          私にとって文章を書くとは

           あらかじめ何の意味も与えられず、自分の意思とはまったく無関係に、まるでこの世界に放り込まれるかのようにして始まる私たちの人生。能力も家族も生まれてくる時代も、自分で選べるものは何一つない。将来どんな病気にかかるのか、どんな歴史の中で生きることになるのか、誰もわからない。そんな圧倒的な不条理の中で、人生を生きる意味や理由を探しあぐねて何度躓いたことであろうか、どれだけ彷徨したことであろうか。  しかし、考えてみれば毎日こうして生きているという事実だけは確かにあり、人や事物と

          私にとって文章を書くとは

          夜空の流れ星に人の出会いの不思議を想う

           使われなくなった広大な牧場の一角に車を駐めて、妻と二人で夜空を見つめていた。最初はキャンピングチェアの背もたれに寄りかかって見上げていたが、首が疲れるので途中から地面にゴロッと仰向けに寝そべった。こりゃ、楽だ!  雲一つない快晴の夜空に大小さまざまな星が水平線近くまで散りばめられている。街の灯りといえば、はるか遠くに見えるだけで、星の輝きを邪魔する人工的な光はどこにもない。夜空を一瞬、細い筆でさっと書き下ろしたように光が流れた。 「あ、流れた!」 「今、流れたね!!」

          夜空の流れ星に人の出会いの不思議を想う

          初めて自転車を買ってもらった日

           2歳になる娘が祖父母に自転車を買ってもらった。黄色、赤、緑に塗装され、後輪には補助輪もついた立派な自転車である。16インチで2歳の子供がまたがるにはまだ少し大き目かもしれない。ハンドルの左側にはチリンチリンと鳴るベルがついている。  暖かな陽気の日、娘は買ってもらったばっかりの自転車に喜々としてまたがって、祖父母と私と妻の5人で近くの公園に出かけた。  人もいないのにチリンチリン、チリンチリンとベルを鳴らして楽しんでいる。ハンドルを右に切ってはこちらを向き、左に切っては

          初めて自転車を買ってもらった日

          三石川のある橋の上で 〜16年前より今は幸せなんだろうか

           林道をバイクで走っていると、三石川の支流に架かるある橋に出た。雲一つない初夏の清々しい天気に誘われて、私はバイクを停めて舗装された道路の上にゴロッと横になった。  ピラシュケ沢を釣り上ったり、バイクで林道を走ったりと、一日中体を動かした心地よい疲れが暖かな陽の光とともに眠気を誘い、私はリュックを枕にしていつの間にかまどろんでいた。  少しばかり西の空に傾きかけた陽の光に誘われるようにして、蜻蛉が羽音も立てずにここかしこにひらひらと飛び始めた。うたた寝をすると風邪を引くかなと

          三石川のある橋の上で 〜16年前より今は幸せなんだろうか

          マタニティフォト

           妊娠8ヶ月になる次女が、マタニティフォトを予約したから一緒に写真を取りに行こうと私と妻を誘ってくれた。マタニティフォトというのは、妊娠記念として、外目で見てもわかるくらいお腹が大きくなった妊婦の写真を撮るというもので、最近流行っているらしい。 閑静な住宅街にある一軒家を改造したスタジオは、いくつかある部屋がいろいろな趣向を凝らされていて、大きなスクリーンの前でみんなが並んで撮影する従来の写真館とはずいぶんとイメージが違っていた。 次女はこの日のために買っておいたピンクの

          マタニティフォト

          ブランコ

           黒沢明の映画に「生きる」というのがある。 定年間近の官吏が、自分の体ががんに侵され余命いくばくもないことを悟る。 残された時間を何に使うか。 酒か。 女か。 彼が最後に思いついたのは住民のために公園を作ろうということだった。かつては事なかれ主義の権化であった彼が先頭に立ち苦心惨憺、ついに公園が完成する。 その公園で夜一人、ブランコをこいでいる姿が忘れられない名場面であった。  生後7ヶ月になる娘を連れて正月に妻の実家に帰省した時のことである。 義父がプレゼントがあ

          幼な子の親孝行

          「子供は5歳までの可愛さで充分に一生分の親孝行を済ませてしまっている。」という言葉がさる作家の著作の中に出てくる。 私にも1歳半になる娘がいる。 私が夜遅く仕事で疲れきった頭で玄関のドアを開けると、まだ寝ないで起きていてドアのカチッという音を聞きつけて「おとうちゃん」と言いながら駆け寄ってくる。 どたどたという大きな足音がいかにも幼い。 靴を脱いだ私の太もものあたりに抱きつき、顔を見上げてにこっとする。 抱き上げてやると顔をくちゃくちゃにして笑っている。 浴室のドア

          幼な子の親孝行

          一人で髪が洗えるようになったよ

          「お父さん、一人で髪が洗えるようになったよ。」 私が風呂場で服を脱いでいると娘がそんなことを言いにきた。 「どれ、一緒に入って見せてよ。」 泡の立つ子供用のシャンプーを手の平につけてやりながら、私は湯船の中から娘を見ていた。彼女は母が髪を洗う仕草を器用にまねてシャンプーを泡立てた。 「うまいでしょう。」 「うん、ずいぶんうまくなったね。」 髪がひとわたり泡立つと今度は自分で洗面器にお湯を汲んで頭にかけた。お湯は頭のてっぺんにかからず、後ろの方をかするようにして流れ去

          一人で髪が洗えるようになったよ

          腹部エコー検査

          「人間ドックで精密検査が必要と言われたのですね。」 「そうなんです、膵臓が要精査と書かれてまして。よろしくお願いします。」  病院では消化器内科医として週に2回、腹部エコー検査を担当してきた。いろいろな患者さんが検査を受けに来るが、きょうは人間ドックで異常を指摘された人であった。照明を落とした部屋で検査が始まる。 「お腹にエコーゼリーを塗ります。」  私はそう声を掛けながら、人肌くらいに温めたエコーゼリーを塗って検査を始めた。探触子を細かく動かしながら、肝臓、胆嚢と順番

          腹部エコー検査

          林道を歩きながら

           東京から北の大地・北海道に移住したのは昨年の春のことだった。朝から晩まで緊張を強いられる仕事はやり甲斐を感じる一方で、東京での生活に心が日ごとにささくれ立っていくのは覆いようのない実感でもあった。移り住んだ町は人口一万五千人の小さな町で、都会のようにこれといって遊ぶものもなく、休みの日には家族そろって山や川などの自然に親しむことが多くなった。文字通り雲一つない秋晴れの一日、家族4人で近くの山に散策にでかけた。車で林道をどこまでも行くと右に折れる小道があり、さらに少し行くとゲ

          林道を歩きながら

          杣おじさんの毛針

           前日、宿の主人に詳しく教えてもらった5万分の1地図を妻と二人でのぞき込みながら車一台がやっと通れるくらいの細い林道を運転していた。西の又沢林道というこの林道は幹線林道から分かれて同名の沢に寄り添うようにして走っていた。気持ちは急くのだが道路のあちこちに鋭い岩の破片がころがっており、パンクが怖くて思うようにスピードが出せない。 「しばらく行くと、道がヘアピン状に折れ曲がっている。その少し手前に車を停めるスペースがあるから、そこで降りて反対側の草むらを捜すと沢に下りる踏み分け

          杣おじさんの毛針

          Yさんの顔

           Yさんはがんの末期患者だった。ある時、彼の主治医である友人から「君は渓流釣りが好きだったよな。大の釣り好きのYさんにそのことを話したらぜひ会いたいと言っていたよ。一度顔を出してやってくれ。」と頼まれた。面識のない患者さんに趣味の話をしに行くのは気が引けたが、時間の取れたある日の午後、思い切って行ってみた。  個室のドアを開けると、Yさんはベッドに横たわって苦しそうに息をしていた。これでは話はできないだろうと思ってドアの方に向き直ろうとした瞬間、Yさんは目を覚ました。 「釣り