ファイアパンチ
最初の記事は何について書こうかちょっと迷ったんだけど、一番鮮度が高い気持ちを勢いに任せて書き殴るのが楽しい気がしたので、直近で読み終わった素敵な漫画について語る。
ファイアパンチ/著者:藤本タツキ
ジャンプ+、全8巻完結
とにかくもうこれ、すっっっっっごい漫画。
正直、ジャンプ?これホントにジャンプコミックスなの???と疑ってしまった。
少年少女サイズのコミックスなことに、ちょっとした違和感を覚えてしまうような作品だ。
読んでみようと思ったきっかけは、大好きな漫画家さんがこちらの作品について感想を呟いていたから(この方の漫画についてもいつか語ろうと思っている)。8巻で完結なのも良いな、と思って手を伸ばした。
主人公はアグニという男。
彼の生きる世界には「祝福」と呼ばれるスーパー能力が存在していて、例えばそれは人の心のカケラが読めるとか、手から火を出せるとか、鉄を自在に操れるとか、そういったものを指す。
能力を持つ者は「祝福者」と呼ばれ、その力を自分の為に使ったり人の為に利用されたりする。
そしてアグニは「再生能力」の所持者で、体が何度でもすぐに再生、回復する祝福を持つ。
アグニの祝福力は尋常じゃない。例えば腕を切ってもすぐさま生えてくるし、頭を撃ち抜かれても途端に脳が再生する。いや、してしまう。だからアグニは死ぬことができない。
痛覚がなければ多少の救いもあるのに、最悪なことにちゃんと痛い。普通に痛いのに何度痛みを味わっても死ぬことができない。最悪だ。地獄だ。
アグニはある日「対象が死ぬまで決して消えない火」を操れる祝福者によって体を燃やされる。
絶対死なない体vs死ぬまで絶対消えない火。まさにこれは「矛盾」だ。アグニは生きながら、地獄の矛盾を背負うことになる。何度も言うがとんでもない地獄だ。
アグニは燃えていく苦しみを普通の人と同じように味わいながら生きる。生き続けた。最愛の人を殺された悲しみと殺した奴への復讐心を唯一の燃料にして、生き続ける。
そして「ファイアーマン」という男が誕生する。
三巻までまず読んで、まるで、思いつく限りの地獄を煮詰めてグチャグチャにしたような世界だな…と率直に思った。
「なにか考えてないと、燃えてる痛みを思い出してしまう」
アグニはだからいつも思考しているし、だけど燃えてて痛くて本当のところそれどころじゃないから、そんなに難しいことは考えられない。
…どうして著者はこんな地獄を描けるんだろう。描こうと思ったんだろう。一巻読み切りとかならまだ分かるんだけど、この地獄の絶頂みたいな世界はなんと8巻まで続くのだ。異常だ。ネジが何本かイッてないと到底描ききれない。
天才ってのはいつの世もやっぱりどこかしら異常なんだなぁ…途方に暮れるような気持ちになる。最高だな。
最初からこんなにもクライマックスの地獄なのに、どうしてかこの世界は淡々としている。「慟哭を丸め込んでぶん投げたよ!」とでも言わんような物語なのに、読んでいる私の感情は物語の中に没入していかない。キャラクター達はどこか達観していると言うか、簡単に言うと心のどっかが死んでいて、感情移入をさせてくれないんだ。
ファイアパンチは、読者の感情を挟ませてくれる余地があまりない。読んでいる自分と漫画の世界の「果てしない距離」を何度も何度も突きつけてくる。何度でも境界線を引いてくる。
「悲しいんですか?でもこれ漫画っていう娯楽なんすよね〜どんなに焦がれたってこの地獄にアンタは来れないんすわ」と言われてるみたいだ。
誰も救えないし、誰も倒せない。ページを捲ることしかこの手はできない。
それが悲しくて歯痒くてもどかしくてなんだか片思いしているみたいだと思う。だけど、境界線の冷たさと片思いの熱の温度差が、変な感じなのにどこか気持ち良くてクセになるから不思議だ。なんなんだ一体。たまらん。
一巻の終わりから登場する「トガタ」という映画狂のキャクター。
このトガタが、この人こそが、漫画の世界と私との間に境界線を何度も何度も執拗にこれでもかと引いてくる。
つまり私はただの読者であり、この物語の世界に行くことなどできなくて、本当のところ行きたいなんて微塵も思っていないし、アグニを応援したいくせにアグニが苦しめば苦しむほど「作品としての面白さ」を感じてしまう、ただの傍観者なんだと。
だけどこれだけ冷たい境界線を引いておいて、トガタは、こんなことも言う。
「なんでもありなんだ。面白ければなにしてもいいんだよ。映画は」
目を輝かせながら、夢を見る子どもみたいに、いつもクソだのファックだのアナルだの言ってるあのトガタが。
そっか、なんだ、トガタがそう言うなら良いんだ。私、読者という傍観者のままこの地獄を漫画として安心して楽しんで良いんじゃんか。
なんだか片思いを許された気分だ。ありがとうトガタ。
こんなにもアグニが好きなのに、幸せになってほしいと願うのに、アグニがもがき苦しみ続けるその様を私は「面白い」と思ってる。最高に面白い漫画だと思いながら見てる。最悪な傍観者で、悲しいまでに赤の他人だ。
だけどトガタはそれで良いって言う。面白けりゃなんでもいいんだよと言う。じゃあもう迷わず声を荒げて叫びたいじゃないですか。
ファイアパンチって最高に面白い漫画だ!って。
あ、そうそうこのメタファーな感じは、映画「ファニーゲームUSA」に少し通じるところもあるかもしれない。でも主人公が魅力的で好感を抱いてしまうぶんこっちの方が苦しいかも。
三巻まではこんな風に地獄とメタファーを強く感じさせられたんだけど、それでおしまいじゃないのがこの漫画のすごいところだ。
四巻からは怒涛の嘘と信仰のオンパレード。今度は世界の地獄じゃなくて、人間たちの織りなす地獄のスタートだ。
「人は信じたいものを信じたいように信じるんだ」
途中出てくるこのセリフにメチャクチャ共鳴した。
人間は何かを闇雲に信じている時が一番幸せだし生命力に溢れる。そこに正しさや理論は要らない。強く信じれば信じるほどそれは自分にとって「真実」になるからだ。
人間の思い込みの力というのは凄まじい。強く念じれば事実だって捻じ曲げられるし、自分のことだって本気で騙せる。科学も論理も敵わない。本気の信仰の前では、そんなもん何の役にも立たない。
それは怖いけど、どうしてか私は美しいとも思う。歪みあって癒着しあって溶け合った世界は、なんだか哀しくて憐れで、目が離せないくらい愛しいと感じる。
アグニは悪魔になって、神様になって、物語の最後には別人になった。燃えてて痛くて難しいこと考えられないから、思考や記憶が小川の水のように少しずつ流れて、変容していってしまうんだ。
アグニはなんだか水みたい。ファイアーなのに。
根を生やす木のようには決して生きられない。そりゃそうだよな木だったらすぐ燃えてしまう。水みたいに流れていかなきゃ火に対抗できないんだ。他にやり方がなかったんだ。切ない。
水のようなアグニの思考を、もうお願いだから誰も堰き止めないでくれと願った。流れたい方へ流れることを止めないでくれよ。楽な方へ行かせてくれよ。正しさの防波堤を差し入れるなよ。
傍観者の私はページを捲りながら思うのだ。
アグニに夢見させてやってくれ。好きなようにやらせてくれ。もう誰も「生きて」って言わないでくれ。
でも私の願いは叶わないわけです。何故なら遠く離れた場所から覗いてるだけの傍観者なので。
…苦しい。最後の最後まで指一本触れない片思いだ。苦し過ぎる。
最後に彼は自分のことを「アグニ」ではなく「サン」と名乗った。そしてもう一人生き続けている彼女は自分のことを「ルナ」と名乗った。きみたちの本当の名前を知っている人はもう、この世界のどこにもいない。
何千万年遠い宇宙のどこか、きみたちが太陽と月になったことを知ってるのは傍観者の私だけだ。
こんなに知ってるのに、頑張ったねもお疲れ様ももういいよも一つだって声は届かない。遥かに遥かに遠い。こんな傍観者の無責任で薄っぺらな声が届くわけがないんだなぁ。
読了してから数日、いろいろ考えてみたけどやっぱり私はアグニが一番好きだな。
きみが漫画の主人公で良かった。きみが実際にいたら苦しすぎて泣いちゃうよ。辛すぎておかしくなっちゃうよ。好きで、やっぱり私も「生きて」って、きっと言っちゃうよ。
そんなの嫌だから、やっぱり漫画で良かった。
チェンソーマンもこれから集めます!
メチャクチャ楽しみ!!!!!
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