ゴシップが気になります
【相談】20歳女性
私は何かあったらすぐにツイッターやインスタで世論の反応を見てしまいます。
先日のWBCでは、準決勝まで快音がなかった村上選手についてマイナス反応があるんじゃないかと思って「村上 戦犯」と検索をしてみました。
また決勝戦で大谷選手が最後グローブを投げたことについてバッシングがあるんじゃないのかとか、他人が他人を攻撃するような発言を見ることを辞められないんです。
他人のゴシップが好きなわけではないんですがなんか気になってしまうんです。特に自分からゴシップを語ることはないんですが、世の中のゴシップを見ていたら時間があっという間に経ってしまって時間がもったいないんですよね。アドバイスください。
【ななにいに@メンタル兄貴の回答】
人間は社会的な動物ですから、本能的に人が何を言っているのか気になるものです。その本能を抑えることはできないでしょう。もともとは人間は狩猟民族だったので、情報を常に張り巡らせて察知できるようにしておかないと自分の生き死にに関わってしまったんですよね。
でも、現代で人間の生き死にに関わるように情報網を張り巡らせる必要はあるでしょうか。たしかに地震や感染症の情報が欲しいのは確かですが、デマも多く流れますし、あまり情報に過敏なりすぎるのも有益ではないような気がします。
今回の村上選手と大谷選手のあらさがしに関して言えば、あなたは他人を下げることで安心感を得たり優越感を感じたかったのだと思います。それも人間の本能ですので仕方のないことですが、有益なことではないのも確かです。
あなたは善い心を持っていると思います。それゆえに他人の悪口を自分から口に出さないのでしょう。
でも、あなたは他人が誰かの悪口を言っていることに関してそれを楽しいと思っていたりしませんか?できれば自分もその会話の中に入りたい、その会話をもっと詳しく聞きたいと思うことはありませんか?
あとはワイドショーなどで有名人のスキャンダルを追うことが楽しいと思ったりしていませんか?自分と関わりのない人の陰口だったら言ってもいいと思っていませんか?
小学生の時には間違いなく誰かの影口で傷つく人がいて、それに関して学年集会などが開かれることがあるでしょう。その時、先生たちが話すのは「自分がされて嫌なことはしないようにしましょう」ということだと思います。正論ではあるんですが、ゴシップを話したいという感情は人間の本能です。本能的行動や衝動を抑制するには不十分だと思います。
聖書では「自分のように隣人を愛しなさい」と書かれています。これこそが本物の愛であると書かれています。
裏を返せば、他人のゴシップが好きだったり、陰口をたたく人というのは、他人を愛することもできないということです。愛することができるようになるためには他人のゴシップを辞めなければいけません。
これは簡単に他人の悪口を匿名で書き込むことができる現代では非常に難しいことですし、訓練が必要になります。
まずは、自意識過剰な性格を治すことをはじめましょう。他人からどう見られているのかということを考えることを辞めるんです。たしかに客観的に自分を見ることは大切だという人がいるかもしれません。残念ながらあなたはそのレベルまで達していないと思われますのでその前の基礎を築くところから始めます。
自分の振る舞いに関しての軸を作ってください。自己啓発本でも聖書をはじめとする経典でもどこからか引っ張り出してきて、その指針に沿った生活をするようにしてください。家族や同僚からどう見られているのかというよりは、あなたなりのお天道様がどう見ているのかということを考えながら生活をしてください。それも十分客観的であると言えると思います。そのレベルの次に他人からどう見られているのかということを考えるべきです。
次に、他人のゴシップに関してですが、他人が噂話をしているときに何となく聞き耳を立ててしまうことは仕方ありません。本能なんですから。
究極言えばそれに関しては「すべてを愛する」「すべては神の御心」という二つのワードで解決します。
愛に関して言えばさっき書いた通りです。他人の悪口を言ったりする当事者にかんしてはその人に関して愛がないことは確かです。これはどうにもならないことなのですが、その人の長所を見つけて愛せるように努めることが必要です。ただ、自分が愛していると思っている人のゴシップや秘密を知りたくなってしまうこともあります。
これに関連するのはギリシャローマ神話のケパロスとプロクリスの話が有名です。ケパロスは現代風に言えばイケメンの夫です。プロクリスとはその妻です。お互いに愛し合っていました。しかしケパロスが狩りをする日に悲劇が起こりました。休憩しているときにアウラーというそよ風を起こす森の精霊とケパロスが話をしていました。「私の胸をあおぎにきてくれ。私を焦がす熱い思いを冷ましてくれ」とアウラーにケパロスは語っていました。
それをたまたま通りかかった知人が聞き、それをプロクリスに伝えました。プロクリスは嫉妬深い女です。自分の目で確かめるまでは信じないと思い、別の日にケパロスが狩りをしている森へ一人で出かけました。
その日もケパロスは「アウラー、私の胸をあおぎにきてくれ。私を焦がす熱い思いを冷ましてくれ」と言って涼しい風を送ってもらっていました。
ふと、茂みの中からうめくような声が聞こえました。ケパロスは休憩を切り上げて、そのうめき声が聞こえる方に槍を投げ込みました、獲物だと思ったからです。
プロクリスの叫び声が聞こえて、ケパロスはプロクリスの胸を槍で貫いてしまったことがわかりましあた。ケパロスの声を聴いたプロクリスが悲しみのあまりその場で嗚咽を漏らしまして悲しんでいたのです。
プロクリスは消えていく意識の中でケパロスに言いました「もしも私のことを愛しているなら私の最後の望みを聞いてください。私が死んだとしても、あの浮気相手のアウラーという女とは絶対に結婚しないでください!」。
ケパロスはプロクリスにアウラーはそよ風を起こすの精霊であって人間の女ではないことを伝えました。そのことを聞いたプロクリスは穏やかな表情でゆっくりと息を引き取ったのでした・・・。
過敏になると死にます!!!(笑)これは紀元前からの法則なんです。
よくキリスト教徒の人は「すべては神の御心による」と言います。洋画なんかでもよくつかわれるセリフです。結局村上選手がホームランを打てる打てない、このタイミングで打てる打てないなんて神が決めていることなんだから人間ごときが気にする必要なんてないのだよということです。
打率なんて3割打てたらいい方ですよね。それも各国の素晴らしいピッチャーばっかりです。まあ、打てないときもあるでしょう。実際あれだけ好調だった大谷、ヌートバーも決勝戦ではバッティングはイマイチでした。そういうもんだとおもいます。過去のWBCの生き返れ福留だったり、イチローの決勝打だったり、村上の準決勝の決勝打と決勝の同店ホームランだって神の御心によるものだと思うしかないのではないのでしょうか。
そもそもスポーツなんて興行なんですから、別に私たちが祝福されたりお金をもらったりすることでもないのですからゴシップを気にしてもしょうがないでしょう。
まあ、勝負の経過は気になりますが、仕事中に気になって経過を見たりしていた人は神経過敏ですし、どうにもならないことを何とかしようとして生きづらさを感じやすい人だと思います。
感情も健康的に生きたいですね。
ご相談、ご質問はななにいにtwitterまでお願いします。
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