心の狭さの懺悔 ノルウェイの森の永沢さんに対する偏見
これは完全に偏見の文章なので、読んで気を悪くする人がめちゃくちゃいると思うので、申し訳ないが、そういえば私はノルウェイの森を読んで永沢さんに感銘を受ける人のその側面はだいぶ好きではない。
もちろん本の読み方は自由だとか、受け取り方は人それぞれだということは言っておかなくてはいけない。村上春樹のノルウェイの森を読んで永沢さんに感銘を受ける人が多いのは事実だし。
私は小説を読んで他の人の解釈を聞いて面白いとかそういう感覚はあまりわからない。角が立つのでリアルではそういうことは言わないが、基本的に、自分が理解している読み方を正しいと思ってそれ以外の解釈の仕方を許容したくない。違う受け止め方を見るとすぐムキになって「それは違うでしょ」っていいたくなる。言わないけど心の奥底でいいたくなる。なので私は自分以外の人の解釈を楽しめないし、読書会とかも小説でやるとイライラしてくる。なのでリアルではなくて一呼吸置けるネット上で感想をみたりして、一呼吸置きながらそれは確かにそうだよねと思ってちょうどいい。読書会ができる人はすごいと思う。私はそういう人たちのことをきちんと尊敬している。なぜなら意見の違いを面白がれるのは成熟している人格のなせるわざだと思うからである。
なので私はノルウェイの森を読んで永沢さんに感銘を受ける読み方が苦手である。
永沢のキャラクターは、主人公と一つの対比として描かれている。マッチョで優秀でホモソーシャルの頂点的な男性像だ。そしてその書き方は、私は、永沢というキャラクターをある程度相対化できる形で書かれていると思う。
永沢は結局のところハツミを自殺に追い込んでしまう人間であり、主人公が縁を切る人間である。永沢はそういう意味で成功者として描かれているわけでも、主人公の到達すべき理想として描かれているわけでもない。ただ彼の言葉と生き方が主人公にとっては印象的である、そういう存在として永沢は書かれていると思う。
ノルウェイの森の本質的な魅力は私はディスコミュニケーションのあり方、失われてしまった者への関わり方、そういう部分だと思っており、永沢はその一つの答えのアイデアではあるが、小説としてそれが正解の位置に置かれているわけではない、と私は思う。
永沢さんは現在の社会の強者としてのメンタリティを持つ象徴的な人間として描かれているので、彼の自己責任論的な発言は、社会のメッセージとして受け取りやすい部分がある。
ノルウェイの森を読む上で何か教訓を得ようと思って読むと永沢さんの発言に一番引っかかりやすいのではないか?という偏見がある。
私は教訓を得ようと思って本(というか小説)を読んでる人を見るとイライラしてきてしまうし、つまり、ノルウェイの森の場合、そういう簡単な自己責任論的な話を書きたいなら、別の書き方になるはずで、その作品のテーマはそういうことではなくない? 作品の価値を矮小化してない?とか、うだうだ考えてしまう。
ノルウェイの森読んで永沢さんが好きなやつなんて自分の成長のために名作読んでんだろボケ!とか思ってしまう。
もしノルウェイの森の読書会を私がしたら?
永沢さんが好きと言われた瞬間に、お前みたいな奴が小説読むんじゃねえ!一昨日来やがれ!と机を叩いてやってらんねえよ!と帰ってしまう気がする。
読書会で自分を解放すると「いやあそれは間違っていて(ニチャニチャ)」「いやぁその読み方違いますよね?(ニチャニチャ)」みたいに雑なマウントを始めたがる自分の姿が、容易に想像がつく。
実際はそんな勇気もないので読書会に参加したときは片隅で黙って呆れられながら「なんかある?」とやさしく聞かれて「アッイヤ……ミナサンスバラシイヨミデ……イロンナヨミカタガアッテステキデスネ……」とかぼそぼそ答えてる。そんな自分が嫌なので全然読書会とかはいかなくなった。
素が幼稚なので多様性とか人それぞれとか賛同できる理念に自分の魂が適合できてない。
私は飲み会が苦手で嫌いだけど、世の中のそういう人たちがどうして苦手で嫌いなのかはわからないけど、私の場合単純に素の性格が悪いからな気がする。
飲み会で始まる会話について基本的には「そんなことどーでもよくないですか?」「それってほんとですか?間違いじゃないですか?」みたいなまぜっかえしが反射的に脳内に出てくるので会話がワンテンポ遅れるのである。
基本的によくて「失礼ボケ」みたいなリアクションじゃないと難しい。
世間話でも「最近寒いよね」って言われても「いや寒くないですケド(笑)」みたいな人間性をまだ引きずってるのである。
「この店おいしかったよ」とかも「それって食べログいくつなんですか(笑)」みたいな人間性をまだ引きずっているのである。