良い小説や絵がどのように評価されるのか

私は、ゴッホについて詳しくない。だが、彼が優れた絵描きであることを知っている。それは、私が彼の絵を見て感動したからではない。絵に詳しいであろう人たちが、ゴッホを優れた絵描きだと言っているからである。

「ゴッホより普通にラッセンが好き」という芸人のギャグがあるけれど、絵心のない私にとっては、ゴッホの絵はすごい人がすごいと言っている絵であり、ラッセンの絵は私が見てすぐに綺麗だなと思う絵である。

しかし、こんな私でも、後になって「もう一回見返してみたいな」と思ったり、「あれどんな絵だったっけ」と考え直したりする絵、つまり、不思議と印象に残ってしまった絵は、ラッセンよりも断然ゴッホの絵だったりする。もちろん私は、絵について素人なのでそれは漠然とした感覚だけれども。

優れた鑑賞者たちの推薦だけでなく、私自身の中にもやはりその感覚があるからこそ、私は、ゴッホのことを優れた画家なんだろうと思うことができる。もし絵についてもっと考えればゴッホの絵の魅力について、もっと分かるような気がするのだ。

そう、世の中にはラッセンの絵のように一度見ていきなり楽しいコンテンツだけではなく、ゴッホの絵のように、噛めば噛むほど美味しいコンテンツが存在するのだ。そして「人生を豊かにする」という言葉を使うなら、それはラッセンの絵より、やはりゴッホの絵のような気がする。

しかし、自分自身の目でゴッホの絵を見つけ出すのは難しい。というのもゴッホの絵が、実は良い絵だということに気づくためには、最初の「ラッセンの絵より変な絵だな」という感覚に耐えながら、「これはもしかしたらラッセンの絵より良い絵なのかもしれない」と考え続けてじっくりと見なければいけないからである。

そう、私は、既に絵に詳しい人たちが「ゴッホは優れた絵を描くんだよ」と言ってくれているので、ゴッホの絵をじっくりと見て、その結果良い絵だと気づくことができる。でも、そういう風にゴッホの絵を私に紹介してくれる人がいなければ、私は、ゴッホに気づかないままラッセンの絵だけを見ているだろう。

では、私の目に届く場所でゴッホの絵のことをいい絵だよと言ってくれた人は、ゴッホの絵を自分の力で見つけたのだろうか? つまり誰に言われずともその絵を見た瞬間に良い絵だと思ったのだろうか?

おそらくそうではない。彼らもまた、誰かにゴッホの絵がいい絵だと言われて、それでゴッホの絵をじっくりと見て、ゴッホの絵の魅力に気がついたのだ。

なぜそういう風に言えるのか? なぜならばゴッホは、実際のところ、生きている間は見つけられていなかったのだ。彼の絵が世の中に知られたのは、彼の死によって生まれた「自死を選んだ孤高の画家」というストーリー性と、彼の絵をよく見ていた友人たちによる精力的な紹介によるものだった。

そう、一番最初に彼の絵の魅力に気がついていたのは彼の友人たちである。つまり彼らこそが最初にゴッホの絵をじっくりと見た人たちだ。彼らがじっくりとゴッホの絵を見ていたのは、おそらく、彼が友人だったからである。見た瞬間に彼の絵をすごいと思ったわけではない。

最初に友人がじっくりと見てそのコンテンツの魅力に気が付き、彼らの紹介によってコンテンツが拡散する。ラッセンの絵と違い、ゴッホの絵が世の中に評価されるためには、こういうプロセスが必要なのだ。

それを実感する体験があった。ここ数日、私のFFさんのnoteの記事が軽くバズり、それについて書いた私の記事もバズったほどではないにしても、ビュー数が伸びた。これは、もちろん書かれた記事の内容に依る部分もあるだろうけれど、「紹介」というプロセス、そしてその基盤にある「人間関係」が存在する。

時田桜さんの記事が伸びたきっかけは以下のツイートによる紹介である。

また、私の記事がビュー数を伸ばしたのは時田桜さんが以下のようなツイートをして私の記事を紹介してくれたからである。

この背景にはうっすらとした人間関係が存在していることを指摘しておかなくてはならない。まず私と時田桜さんはリアルでも面識がある。そして、私は山下素童さんとゴールデン街で会ったことがある(素童さんは私のことを認識していないと思うが)。また、私と時田桜さんで一緒にゴールデン街に行ったこともあるので、もしかしたら時田桜さんと山下素童さんもうっすらとした人間関係があるのではないと勝手に思っている(これは完全に私の憶測だけれども)。少なくとも元々FFくらいの関係ではあるのではないか。

そして、私は時田桜さんから、時田桜さんは山下素童さんから紹介されることで、おそらくだが通常の5-10倍程度のリアクションを受け取っている。これが「紹介」の威力である。

ここまで私が述べてきたことをまとめてると、コンテンツには自分自身の力で気がつくのは難しい性質のものもある。それらが「紹介」と合わせると、コンテンツは評価されやすくなる。そしてその「紹介」の基盤にあるのは、そのコンテンツをじっくりと見ようと思わせた人間関係があるのではないか? という仮説を私としては持っている。

一点留意。私は、便宜上私の記事のことを事例として挙げているがこれは私はゴッホのように優れた記事を書いていると言いたいわけではない。たとえ私のように優れてないコンテンツでも紹介されれば伸びるくらい紹介には効果があるということを示す意味で例に挙げている。真に優れたコンテンツが紹介と組み合わさったときは、況や、である。

さて、ここまで私が述べてきたことに対してこう思う人もいるのではないだろうか?「人間関係があってコンテンツを紹介するというのは、単なるコミュニティ内での馴れ合いであり、内輪ウケに過ぎない」と。

実際にコミュニティの中で馴れ合っているということは創作活動においてはよくあることだろう。例えば、文学フリマという同人界隈のイベントについてこのように批判する文章を読んだことがある。

一見、活発に紙幣が飛び交って何冊も同人誌が売れて「完売しました!」のポストがSNSで踊っても、しかしそのほとんどは(横のブースで本を出したりしてる)同じコミュニティの友人・知り合い同士で挨拶がてらにお義理に買ったり互いに購入し合ってるだけなんじゃないか。自分が相手に買ってもらいたいから、褒めてもらいたいからしゃあなしに相手のものを買ってやってる、何の広がりもない循環。

そんな循環の中で買われた本だから、もちろんSNSでは褒めてもらえる。知ってる人から。おざなりな言葉で。「俺はちゃんと褒めたんだからお前も俺のことをちゃんと褒めろよ」あるいは「この人は買ってくれたしポジティブに言及してくれたから私も褒めとかないとな」という強制コミュニケーションとして。

これに似た経験を直接したことは少ないが、なんとなく想像できる部分はある。これは私の友人の話だが、彼が出版関係者やらエッセイストやらの文化人が集まるバーに行ったとき、みんな自分の話しかせず誰も彼の話に興味を持たなかったのに常連同士は褒めあっていたらしい。彼は後にそこにいたある人の文章を私にも紹介してくれたが、私には、その文章の良さはあまり分からなかった。

とはいえ、コミュニティの中で評価をし合うことの是非自体がこのエピソードからすぐに分かるわけではない。むしろ優れた評価をし合うコミュニティというものも存在するはずだからだ、問題はコミュニティ内で人間関係の中で評価をし合うことではなく、それが悪いコミュニティだということである。

例えばアカデミアはその例の一つだろう。数学の超難問「ABC予想」を証明したとする京都大数理解析研究所の望月新一教授という人のことを私は時々考えることがある。というのも、彼が本当にその問題を証明しているのかどうかは分からないらしい。証明したという人もいるし証明していないという人もいる。重要なのは、私にはそれを確かめる術がないということだ。望月教授の論文を文系学部卒の数3さら修めていない私が読んだところで、その証明が正しかろうが間違っていようが何も分からないことには変わりがないからである。彼の証明が正しいと私がもしこれから知ることがあるとすれば、それは、彼の証明を正しく読めるような優れた数学者がそう言っているからという理由に過ぎない。

無論アカデミアは単なる人間関係とは異なり査読制度のような公平性のための仕組みが存在している。一方でアカデミアが様々な作法や暗黙知を参入障壁としており、その基盤にあるものがゆるやかな人間関係であることもまた間違いはない。じっくりと読むためには人間関係が必要なのである。

そしてこの「人間関係に基づく評価」がなされる傾向は、自然科学よりも人文知の方があるだろう。それは、自然科学が実験により再現性を確認することと結びつきやすい学問である一方で、人文知に対してはその評価がそういった外的な基準では成し得ないからである。

それではこのような前提を踏まえた上で未来予測をしてみたい。これからのコンテンツのあり方はどうなるのかということだ。言うまでもなく生成AIについて考えてみる必要がある。

生成AIにより、コンテンツ自体の生産性ははるかに改善する。少なくとも世の中に流通するコンテンツの総量は爆増するだろう。そうでなくても、インターネットの誕生は、今まで単純にコンテンツを消費していた多くの人間がコンテンツ生成をし始めることに繋がった。例えばYouTuberのような存在である。

そのことはむしろコンテンツを作成する人よりも、コンテンツに対して審美眼を持って評価する人、つまりコンテンツをおすすめする人の影響力が増していくことを意味する。

このコンテンツのオススメをテクノロジーで代替することは果たして可能なのだろうか。例えば単純にYouTubeであれば、レコメンドシステムはあるわけで、そうしたものの延長線上で評価をすることは可能なのかもしれない。しかしAIのようなテクノロジーで、ラッセンの絵ではなくゴッホの絵を、つまり、じっくりと見て初めて面白いと感じられる絵を評価することはできるのだろうか?

これは私には想像を超えた話である。もしかしたらテクノロジーはそういった形での評価も可能なのかもしれない。しかし、もしそれが不可能であるとした場合、ゴッホの絵を見つけ出して評価し続けるための、その絵をじっくりと見てくれるコミュニティの重要性は増していくだろう。

というのもラッセンの絵を見つける方法は、テクノロジーが代替できるので、これは今後もどんどん広がっていくからである。そしてそれゆえに放っておけば、一人の人間がラッセンの絵に触れる時間は増え続けていくことになってしまう。

それ故に、ゴッホの絵を見つけ出して伝えていくために、コミュニティの重要性は高まっているのだ。

更に重要になることとして、コミュニティの質をどう担保し続けていくか? ラッセンの絵の磁場にコミュニティが飲み込まれないようにするにはどうする必要があるのか? このことについても考えていく必要がある。

例えば東浩紀の下記のツイートについては、私は勝手にそういう問題意識のなかに捉えて読んでしまっている。

(とはいえ私は人間関係という言葉を広い意味で使いすぎている。ここで私が言おうとしているのは、芥川賞のような審査員のいる賞も含まれる話だからだ。審査員のいる賞においては、賞の主催者が信頼に基づいて審査員を選び、この審査員が選んだということで賞にハクがつき、その賞を取ったのであれば良いものなのだろうと読者がつく。この一連のプロセスも、私は、人間関係と呼んでみたい。)

この話は、今後、芥川賞のブランド力を高めるべきという話だとか、テレビがなぜYouTubeの方に近づいていってしまっているのかという話とか、M1という大会の価値をそこから救うという意義を令和ロマンの2連覇は成し遂げたという話とか、私の中ではかなり色々繋がる話なのだけど、疲れたのでここで文章を終える。

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