言葉と応答とズレ

会話が苦手だ。特に初対面の人との会話が苦手だ。私は、ストレートに質問攻めをしてしまうからである。会話をうまくずらしていくことが難しい。

Aですか?と聞かれたら Aです/Aではないです の2択で答えたくなる。なぜですかと聞かれたら〜だから。と答えたくなるし、どういうことですかと聞かれたらこういうことですと答えたくなる。現代文の記述の模範解答のようだ。

これは緊張しているからで、リラックスした関係性の相手とは自然に会話がズレていく。Aの話をしていたと思ったらいつの間にかBの話になっている。そしてそれがCの話になっていく。

私はズレていく会話が好きだ。ディベートのように論点ごとについて議論していくよりも、いつの間にか違う会話をしているような会話の方がクリエイティブだと思う。

昔、学校のワークショップで哲学対話というものをしたことがある。

哲学対話とは、哲学的なテーマについて、参加者同士が輪になって問いを出し合い、一緒に考えを深めていく対話のあり方です。専門的な知識は必要とせず、日常の中で感じる哲学的な問いを、みんなで対話して深めていく活動です。

哲学対話では、次のようなルールが守られることがあります。
何を言ってもいい
人の言うことに対して否定的な態度をとらない
発言せず、ただ聞いているだけでもいい
お互いに問いかけるようにする
知識ではなく、自分の経験にそくして話す
話がまとまらなくてもいい
意見が変わってもいい
分からなくなってもいい

梶谷教授がまとめた5つのルールは素晴らしいですね。特に話がまとまらなくてもいい、意見が変わってもいい、分からなくなってもいいという3つのルールは本当に素晴らしいと思う。

また、少し似た連想で、東浩紀のいう「誤配」という概念を思い出す。

誤配とは「間違った宛先に届き、間違って理解されること」。『存在論的、郵便的』から続く彼の哲学の中心概念です。普通はネガティブな意味をもつことの多い「誤配」ですが、ポジティブにその可能性を捉えています。

最近冗談で、「ゲンロンカフェは、TEDでは3分でしゃべっていることを3時間かけてしゃべる」といっています。TEDは、まさに誤配のない、準備が整った、明確な目的をもったプレゼンテーションです。他方でゲンロンカフェは無駄話の空間です。3時間の会話は、TEDの観点からしたらほとんどが無駄でしょう。けれども、そんな無駄な情報に見えるものが、観客に思わぬ思いつきを与え、次のイノベーションにつながるかもしれない。哲学はつねに一見無駄話に思われるところにあります。ぼくはそのような誤配=出来事のために、ゲンロンカフェを運営しています。だから、無駄話といっても、ほんとうのただの無駄話になってはいけないんですね。そこはバランスが重要で、このバランス感覚こそが、誤配を生み出すといえるかもしれません。(東浩紀『哲学の誤配』p92-93)

会話でないところで言えばnoteのコメントで考えてもいい。記事の著者の意図とは別のところで、それを触媒として考えたことほど、話してみたいことだったりするし、それは実際クリエイティブなことだったりする。基本的には人の文章を読んで生まれるのは「賛成」とか「反対」みたいなディベート的な応答よりも、「それでいうとちょっと関係ないけど」から始まる連想で、Aに対してAと答える閉じた会話より連想から始まるズレた自分語りも批判も賞賛も面白いことがある。

むしろAに対してAと答えずにどう会話をつなげていくか? ということが私はやりたいことだ。「前の人のコメントに対して関係ありそうで全然関係ないことを言う即興ゲーム」の動画とかを芸人がやっているものがあれば見てみたい。

こんな事を考えながら、会話って文字起こしするとどうなんだろう?とおもって、オードリーのラジオの文字起こしをみてみたら、これを見る限り、基本的には若林のエピソードトークの中で、語り口にのぞく些末な若林の自意識を春日が逃さずにいじり続け、それに対して若林がキレ返すというフォーマットがある。

これはエピソードトークという論点から、若林の自意識という論点を連続的に行ったり来たりする感じが、論点が閉じてない面白さだと思う。とか。

言葉が発される以上、ディベートや、講演会や、国会答弁のような、ルールがある会話でない限り、そこには、誤解・曲解することへの可能性は常に開かれている。

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