なぜ村上春樹の作品は「キモい」のか?なぜあんなにセックスしなきゃいけないのか? それはコミュ障小説だからです。

なぜ村上春樹の作品は「キモい」と言われるのか? なぜ村上春樹の作品ではあんなに何度も主人公がセックスをするのか?

SNSで「キモい」と言われ、それによって炎上が頻繁に起こる村上春樹。村上春樹作品はキモいから読みたくないという人。いやいやキモいからこそ文学なんだという人。色々な人がいますが、果たして彼らは村上春樹をどれくらいきちんと読めているのでしょうか? 私はいつも疑問に思っています。村上春樹作品ってキモいんだろうか? キモいとしたらそれはなぜなんだろうか? セックスをたくさんするからキモいのかもしれないけどなんであんなにセックスをたくさんしなきゃいけないんだろうか? なんでキモいと言われるだけでファンがあんなにブチギレるのだろうか?

このことに対する正しい批評や解釈というのはおそらく、文学に詳しい人はいろいろな形でやっているのだと思いますが、私はどこにその答えが書いてあるのかわからりません。なのでここ数日村上春樹作品を少し読み返してみました。そこで出た、自分なりの答えをある程度扇情的に書いていきたいと思います。

ちなみに私は、そもそも村上春樹の作品を全部読んでいるような人間ではないし小説もあまり読まない人間です。なので、基本的には素人の戯言だと思って読み流していただければ幸いです。もし、ここにもっといい答えが書いてあるよという文章や解説を知っている人がいれば教えてもらえると嬉しいです。

さて、いかに私の現状の解釈を書いていこうと思います。私が先ほど述べた全ての疑問に対する答えは以下の一文にまとめることができるのです。

結論:コミュ障小説だから

村上春樹の作品が「キモい」のも、村上春樹作品で登場人物がたくさんセックスをするのも、私は村上春樹の小説がコミュ障小説だからだというふうに思いました。。コミュ障だからキモいんです。また、コミュ障がコミュニケーションを取るためにセックスに頼ってしまっているのです。

以下では私がどうしてこういう風に考えるのか、村上春樹作品の原点にして核となるものが詰まっているであろう「風の歌を聴け」をところどころ参考にしながら、説明していきます。

まず、村上春樹作品がコミュ障小説であるということを説明します。次に、村上春樹作品にとってコミュニケーションがどのようなものであるかということを説明します。さらにその文脈の中で、村上春樹作品においてセックスがどのようなものとして描かれたことがあるのかを説明します。そしてそれを踏まえた上で、村上春樹作品の「キモさ」とそういう批判に対するファンの過剰な拒否反応の原因を改めて説明してこのnoteを終わります。

村上春樹作品がコミュ障小説であるとはどういうことか

まず、このことを説明する前に、村上春樹の最初の作品である「風の歌を聴け」はどのような小説か簡単に紹介します。あらすじは以下の通りですがそんなに真剣に読まなくていいです。

1970年の夏、東京の大学に通う21歳の男性が、夏休みを過ごすために神戸の海辺の故郷に帰ってくる物語です。その春、彼が大学で付き合っていた女性が自殺してしまいます。夏休み中、彼は友人の「ねずみ」とともにJ'sバー(ジェイズ・バー)に頻繁に通い、ビールを飲みながら時間を過ごします。ある日、彼はバーの洗面所で床に横たわる女性を見つけ、彼女を自宅まで運びます。その女性は左の小指がなく、後に彼女が働くレコード店で偶然再会します。その後、彼女からの電話がきっかけで何度か一緒に過ごすようになります。一方で、「ねずみ」は何か女性問題を抱えているようですが、詳細は語られません。物語は、主人公と女性、そして「ねずみ」の関係を中心に展開し、孤独や喪失、そして人間関係のもろさを描いています。

https://mindmeister.jp/posts/kaisetu-Hear-the-Wind-Sing

私の理解としては「風の歌を聴け」と作品は、春に付き合っていた女の子が自殺をしてしまったことのショックで、もともと無口(コミュ障)だった主人公が更に無口(コミュ障)になってしまってバーに入り浸っている様子を書いた小説だという風なものです。物語は、その夏の光景を8年後の主人公が回想する形で語られますが、8年経っても主人公はまだトラウマを引きずっているのか相変わらずうまく言葉を使うことができないのです。

と言うのも、この作品は有名な「完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。」と言う言葉から始まり、その後、数ページに渡って「書くというのは難しいことなんだ」と延々語るシーンが出てきます。例えば以下のような文章がいきなり冒頭に何度も出てくるのです。そう、驚くべきことにこれは全てデビュー作の冒頭に書かれている文章なのです。

しかし、それでもやはり何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域はあまりに限られたものだったからだ。例えば象について何かがかけたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。そういうことだ。
8年間、僕はそうしたジレンマを抱き続けた。ー8年間。長い歳月だ。
※太字は引用者によるもの

しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈み込んでいく。
※太字は引用者によるもの

 もう一度文章について書く。これで最後だ。僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヶ月かけて一行も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙げ句それがみんな見当違いといったこともある。
※太字は引用者によるもの

以上のことから、先ほど私が述べた「8年経っても主人公はまだトラウマを引きずっているのか相変わらずうまく言葉を使うことができないのです。」という解釈は理解してもらえると思います。主人公はずっと書くことにおいてコミュ障だったのです。

そしてこの主人公の、「言葉がうまく使えない」という症状は、生まれつきのものとしても描かれています。というのも小説の中で、小さい頃の主人公が無口のあまり精神科に連れていかれたと書かれているのです。

小さい頃、僕はひどく無口な少年だった。両親は心配して、僕を知り合いの精神科医の家に連れていった。

ここで主人公は治療されて、一度は喋るようになったものの、成長してからもコミュ障なのは相変わらずです。例えば、成長してからの様子については、このように描かれています。

高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。

また、この小説の中で、主人公の無口さに拍車をかけた出来事が主人公のガールフレンドの自殺という事件です。この小説の中ではその事件については直接的に書かれていません。というのもこのことについて、ただでさえ無口な主人公は8年経っても、なお深いトラウマを抱えているので、直接的にガールフレンドの自殺について自分の感じたことを正直に言葉にすることは小説の地の文でもできないのです。これは具体的に根拠をこの部分だと引用することはしませんが、「風の歌を聴け 仏文科の女の子」と検索すると色々と識者の文章が出てくると思います。

さて、以上のことから村上春樹のデビュー作の主人公は(喋るのは愚か書くこともときに苦痛に感じるほどの、精神科に行かされるほどの極度の)「コミュ障」ということが論じることができたと思います。そして、この、コミュニケーション障害の文脈は、「風の歌を聴け」に止まらず、他の作品でも確認できるような、村上春樹作品の中で頻出し通底するテーマになっているのです。例えば、村上春樹の代表作にしてキモいと槍玉に挙げられがちな「ノルウェイの森」にもこういう言葉が出てくることからそれは確認できるのではないでしょうか。

「かまわないよ」と僕は言った。「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから。僕にもどう言えばいいのかわからないけどさ」
うまくしゃべることができないの」と直子は言った。「ここのところずっとそういうのがつづいてるのよ。何か言おうとしても、いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、もっと余計に混乱して見当違いになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとしていたのかわからなくなっちゃうの。(後略)」
※太字は引用者によるもの

ノルウェイの森

僕はそんな気持ちを直子に何度か話そうとした。彼女なら僕の考えていることをある程度正確にわかってくれるんじゃないかという気がしたからだ。しかしそれを表現するための言葉がみつからなかった。変なもんだな、と僕は思った。これじゃまるで彼女の言葉探し病が僕の方に移ってしまったみたいじゃないか。
※太字は引用者によるもの

ノルウェイの森

ここで表現されている「言葉探し病」はほとんど、風の歌を聴けの冒頭で主人公が言っているのと同じものです。村上春樹作品において「言葉探し病」=コミュ障さ は作品を横断するようなテーマになっているのです。

村上春樹作品にとってコミュニケーションがどのようなものであるか

さて、ここまでで随分と長くなってしまいましたが、次に、村上春樹作品にとってコミュニケーションがどのようなものとして描かれているのか、「風の歌を聴け」に戻って再確認していきます。

「風の歌を聴け」において、その無口さ故に、幼い頃に精神科に連れていかれた主人公は、そこで医師からこのようなことを言われるのです。

文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は「お腹が空いています。」と一言しゃべればいい。僕は君にクッキーをあげる。食べていいよ。(僕はクッキーをひとつつまんだ。)君が何も言わないとクッキーは無い。(医者は意地悪そうにクッキーの皿をテーブルの下に隠した。)ゼロだ。わかるね? 君はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア・ゲームだ。やってごらん。
僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃ消化不良だ。
消化不良……。
※太字は引用者によるもの

ちょっと深読みしてみると。この文章からは、村上春樹作品におけるコミュニケーションの特徴として、三つのものが読み取れるとも思うのです。それは太字にした三つの部分から読み取れるものです。

まず、「もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。」ということからはコミュニケーションは存在理由であるということを言っています。コミュニケーションをできないのであれば存在していないのと同じくらいそれは不毛な存在なのだということです。コミュニケーション不全の登場人物たちにとっても、コミュニケーションは存在理由と言ってもいいくらいに切実なものであるのです。

また、「そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア・ゲームだ。やってごらん。」という台詞からは、コミュニケーションには喋ることや書くこといった「言語」によるものだけでなく、ジェスチャーゲームのような「非言語」のコミュニケーションもあるということが分かります。

詳しくは、後述しますが、ここで、「非言語」のコミュニケーションの典型例でありまた最も親密なものを想像して欲しいです。分かりますか? そう、セックスです。このコミュニケーションの文脈で村上春樹作品に頻出する「セックス」が出てくると言ってもいいのです。

しかし、言語のコミュニケーションが「完璧な文章は存在しない」ように不完全なものであるのと同じように、そして、むしろそれ以上に、残念ながら非言語のコミュニケーションはまた「それじゃ消化不良だ。」という言葉の通り失敗しやすいものとしても描かれています。

まとめると、村上春樹作品におけるコミュニケーションはこのような特徴を持つのです。
①コミュニケーションは存在理由であるほど切実なものである
②コミュニケーションは言語的なものではなく非言語的なコミュニケーションも含まれる(後述するがこれにはセックスが含まれる)
③(言語的なコミュニケーションに困難を抱えているからといって)非言語的なコミュニケーションは失敗しやすい脆弱なものである

村上春樹作品におけるコミュニケーションの文脈の中でセックスとは何か

そして、ここで登場した「セックス」のポイントについて、コミュニケーションの文脈から、「風の歌を聴け」のなかに非常に重要な記述があるのです。それは以下の記述です。

僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。

レーゾン・デートゥルとはフランス語で「存在理由」という意味の言葉です。この彼女の言葉を、コミュニケーション=存在理由という、先ほどの説明と合わせるとどうなるか。A=B B=Cなら、A=Cと言ったように、ペニス=コミュニケーションという解が導き出せるのです。

ここで、村上春樹作品における、セックスの役割がはっきりしてきます。これは存在理由としてのコミュニケーションに関わるものなのです。

しかし、セックスはコミュニケーションではあるが、それは言葉のコミュニケーションの不在を補うことができないものでもあります。補えないので、後述しますが、セックスによるコミュニケーションは最終的には失敗をするものとして「風の歌を聴け」では描かれています。

それを踏まえると、セックスの過剰がかえって言葉の不足を示唆するような効果を村上春樹作品では持っているのです。つまり、結局のところ、村上春樹作品においてセックスの過剰もまた、主人公がコミュ障であることを示唆するものであるのです。

「風の歌を聞け」ではセックスに頼ったコミュニケーションはどう失敗するのか

先ほどの引用文を再掲します。

僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼んだ。

実はこの、僕のペニスのことを「レーゾン・デートゥル」と呼ぶことによって、一旦はコミュニケーションの手段として、言葉の不在を補うものとして肯定してくれていた、この「三番目に寝た女の子」こそが、主人公のガールフレンドであった仏文科の女の子であり、突然自殺をしてしまうことで主人公に絶望をもたらすその人なのです。

三人目の相手は大学の図書館で知り合った仏文科の女子学生だったが、彼女は翌年の春休みにテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ。

そして僕は彼女と寝ておきながら、セックスをしておきながら、それにもかかわらずコミュニケーションが取れていないのでした。それはまず、彼女が死んだ理由がわからないという描写を通じて表現されています。

なぜ彼女が死んだのかは誰にもわからない。彼女自身にわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う。

さらに示唆深いのは、生前の彼女との会話のシーンです。それは断片的なものでありながら、暗にその会話が何らかの形で彼女の死に影響をもたらしていると(あるいはそういう性質のものであったと主人公が受け止めていることを)示唆するようなシーンとして描かれています。

「ねえ、私を愛してる?」
「もちろん。」
「結婚したい?」
「今、すぐに?」
「いつか・・・・・・もっと先によ。」
「もちろん結婚したい。」
「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」
「言い忘れてたんだ。」
「・・・・・・子供は何人欲しい?」
「3人。」
「男?女?」
「女が2人に男が1人。」
彼女はコーヒーで口の中のパンを嚥み下してからじっと僕の顔を見た。

「嘘つき!」

と彼女は言った。
しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。

ここで彼女=三番目に寝た女の子が、僕=主人公の言葉を信じられなかったことで、彼女は自殺をしてしまったのかもしれないという印象を残す文章です。つまり、ペニスだけでは、彼女は主人公が子どもを欲しいと思っているほど自分のことを愛していると信じることができなかったということを示しています。

ちなみに、ここで書かれている「僕はひとつしか嘘をつかなかった。」という台詞がどのことを言っているのかは、一般的に解釈が分かれている場所です。私は自分の読み方としては、「言い忘れてたんだ。」が嘘だったのだと考えています。これは、他にも似たようなシーンがあったという理由で、退けられることが多い少数説ですが、機会があればまた別のnoteでそう思う根拠を書くことにします。

閑話休題。大事なのは、言葉で主人公が「愛している」「結婚したい」「子供も3人欲しい」ということを説得的に伝えることに失敗をしたことで、セックスをしていたにも関わらず、彼女は自殺をすることになってしまったということです。驚くべきことに主人公と彼女がどれくらいセックスをしていたかについては小説の中で記載があります。

当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日の間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。

7ー8ヶ月の間に54回のセックスですから、週に2回程度はセックスをしていた計算になります。多いかどうかは別として少ない数では無いでしょう。それでも主人公は彼女とのコミュニケーションに失敗してしまったのです。結局のところ、ペニスは存在理由として機能しなかったということに他ならないのでは無いでしょうか。むしろセックスがこれだけあっても、なお、愛しているという言葉を信じさせることができないほどのコミュニケーション不全であるということが、浮き彫りになってくる構図になっているのです。

ここまでの議論のまとめと、村上春樹作品の「キモさ」とその批判に対するファンの過剰な拒否反応の原因について

さて、長くなってしまったのでここまでの文章をまとめます。村上春樹作品は基本的にコミュ障小説です。そして村上春樹作品においてコミュニケーションは存在理由ともいうべき切実なものです。そしてセックスもまたコミュニケーションではありながら、それは失敗することによって言葉によるコミュニケーションの不在を明らかにするものでもあります。

以上に述べたのは村上春樹作品全体の分析ではなくて、あくまでも「風の歌を聴け」という一作品の分析ではあります。ただ、これがデビュー作として村上春樹作品の原点かつ核であり、ノルウェイの森に繋がっていくような重要なテーマを内包しているために、この作品について分析をして答えることは、世間一般に流布する「村上春樹作品」のイメージに対してもある程度の解答になっているのではないか? と私としては考えています。

さてこれを踏まえてみるとやはり村上春樹作品に頻発するキモさとはどのようなものなのでしょうか。村上春樹作品はなぜセックスがあれほど出て、キモいのか?

まず第一に、そしてこれはよく指摘されることでもありますが、セックスが頻出すること。だがこれは上で述べた通り、村上春樹作品でコミュニケーション不全を描くためのある種の必然的な意味も持っているために頻出するとも言えるでしょう。

そしてここからは非常に暴論ではありますが、あえて扇情的に書かせて下さい。村上春樹作品がキモい理由として、より深層心理的なことを考えると、「コミュ障だからキモい」という説が浮かび上がってきます。そう、キモいという言葉は、典型的には、女子学生が、スクールカーストの下位にいるコミュ障の男子学生に対して使うことの多い言葉でした。コミュ障であればキモいのは、これはもう当然なことなのです。

そして、さらにここから考えると、村上春樹作品をキモいと指摘されたファンがなぜややもするとヒステリックに反応してしまうのかということも、自ずと浮かび上がってくるのでは無いでしょうか。村上春樹作品に共感してしまった自分が「コミュ障」として「キモい」と言われているような気分になるのです。なんとなく、学生時代の教室のトラウマを思い出すような気持ちになるのかもしれません。



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