「村上春樹はキモいと今までずっと言えなかった」という呟きの炎上に対する個人的な感想の呟き

藤井セイラさんという編集者/エッセイストの方がされた下記の呟きが炎上しています。


当該ツイート

このツイートに対して、ともすれば感情的とも見えるような激しい批判のコメントが文芸関係者から噴出しています。例えば下記のようなツイートです。これは著名な書評家の豊崎由美さんによるものです。

これを見ると、少なくない数の人々は「村上春樹ファンの読書家が、村上春樹を批判されて怒っている」という図式だと理解をするかもしれません。それは、まるで、藤井セイラさんの言及、つまり「村上春樹を批判しづらい空気が文芸の世界には存在する」ということを翻って証明しているようにも見えるかもしれません。事実そのような反応が、この豊崎さんの投稿に対してもありました。

しかし、その理解は誤解です。今回の件は村上春樹ファンがキモいと自分の作家をdisられて、怒っているわけではない。もちろん一般に知的に低級なレイヤーであることでしられるハルキストなんぞや、フェミニズムが単に嫌いで何にでも火をつけたがる男性専用車主義者なんかはそういう風な炎上のさせ方をさせているのかもしれませんが、そういう通り魔的な人たちだけによる炎上ではありません。
 
恐らくですが、元々の藤井セイラさんの投稿を批判している人の中で、いわゆる文芸関係者というものであればそのほとんどが、「村上春樹はキモい」と言われたことには怒っていないはずです。むしろ彼らのほとんどは「村上春樹を批判しづらい空気があった」という言明について、そしてそれが「編集者/エッセイスト」と肩書きのつく人間が投稿していることに、まず心の底から困惑し、理解ができず、そんなことがあるわけがないという混乱の中で、どう表現すればいいのか分からない怒りの感情を抱えているのだと思います。

もう少し露骨に言うと「村上春樹を批判しづらいようなレイヤーにいた人間が、エッセイスト/編集者を名乗るなよ」という選民思想で腹を立てているんです。もちろんみんなそんな人として恥ずかしいことは言えないので解釈云々の話のように批判するのでややこしい部分もあるのですが、基本的に、これは村上春樹の解釈云々の話ではなく「博士出てないやつが高学歴名乗るんじゃねえ」とか「東大早慶以外が大学名乗るんじゃねえ」とか、ある種の知的コミュニティに存在する独特の排他的な選民思想の話だと私なんかは思ってます。

それくらい、「村上春樹を批判しづらい空気があった」ということはおよそ文芸関係者という人たちの認識としてはあり得ないものなのです。

物事を単純化するために人々を「一般人=大衆」と「文芸関係者=選良」の二つに分けられるものとします。「文芸関係者」とは、優れた作家や一部の編集者から構成される狭い意味での分断よりもう少し広く、将来何らかの形で出版業に従事したいと考えている文学部の学部生まで含めるような概念としてもいいと思います。つまり、早稲田や慶應の文学部の1年生で、小説に関わる仕事を将来したいと考えていたり、自分で何らかの文芸的な創作活動に手を出していたりするような人間です。

村上春樹という作家は非常に有名で国民的な作家でありながら、それが故に非常に特殊な作家でもあります。そして、その一つの要素として、彼は「一般人」と「文芸関係者」において、表面的な意味での評価のされ方が全く違う作家だということです。

言い換えます。村上春樹という作家は一般人においては「日本を代表する優れた作家」というイメージを持たれている作家だと思います。一方で、文芸関係者においてはエクスキューズなしで「村上春樹を好き」というのは「自分は小説をあまり読んだことがない人です」と告白するようなものなのです。少なくない読書人は「村上春樹が好きです」と言っている人を見ると、「好きな漫画はワンピースという自称漫画好き」を見るのと同じような気持ちになるはずです。(もちろん村上春樹を好きな読書人=文芸関係者もたくさんいるのですが、彼ら彼女らは「まあでも結局村上春樹好きなんですよね」とか「いやまあ色々言いたいこともあるんですが、なんだかんだ私もハルキストなんですよね……」とか実に恥ずかしそうに、エクスキューズをつけてしゃべった経験がきっとあると思います。)

村上春樹という作家は、まず私のイメージとしては、大学の文学部の新歓コンパでうぶな新入生が「私、村上春樹の小説が好きなんです」というと2年生が「いやいや、村上春樹なんてライトノベルみたいなものだから、小説が好きならあんなもの読んでちゃダメだよ。」と言ってくるような作家なのです。それでその2年生も大学院生からは「村上春樹がライトノベルというのもまた読みが浅いんだよな……まあもちろん批判すべき作家ではあるんだけどそういう単純なものではなくて……」と心の中でマウントを取られるような作家なのです。それで大学院を卒業して、「いやあやっぱ村上春樹は気持ち悪いなあ」とか言いながら、とはいえなんだかんだ村上春樹の新作は読んでしまう、俺はやっぱり村上春樹なんかのことを好きなんだろうか、いやいやしかしそんなことあってはならない…….。とかそういうめんどくさい自意識を少し引きずってしまうような、そういう作家なのです。

以上においては個人の感覚ベースで村上春樹という作家のイメージについて書きましたが、これはある程度ファクトとしても証明できるものです。何のことはない、wikipediaを見ればいいのです。村上春樹についてはたくさんの著名人からの批判があったことがすぐにわかります。

例えばフェミニストからの評価は1990年代段階で以下のようなものがあったということです。

上野千鶴子は、鼎談集『男流文学論』(小倉千加子・富岡多恵子共著、筑摩書房、1992年1月)において『ノルウェイの森』を論評し、次のように述べている。「はっきり言って、ほんと、下手だもの、この小説。ディーテールには短篇小説的な面白さがときどきあるわけよ。だけど全体としてそれをこういうふうに九百枚に伸ばせるような力量が何もない。」[87]
小倉千加子は、上記鼎談集において「こういう小説を書いて、村上春樹自身は救済されるんですかね」「やっぱりこの人はサクセスを求めているだけなんです。それが見えすいているでしょう。」と述べている[88]。
富岡多恵子は、上記鼎談集において近松門左衛門の「情をこめる」という言葉を引用し、『ノルウェイの森』について「ことばに情がこもってない」と評する。それは「情をこめるようなことば遣いを現代というのがさせない」からかもしれないと述べている[89]。

さらに現代日本において最も権威ある批評家と言っていいであろう蓮實重彦ですらこのように評価している有り様です。

蓮實重彦は、「『村上春樹の小説は、結婚詐欺の小説である』ということであります。最新作を読んでいなくてもそのくらいはわかる」と述べている[100]

そもそも村上春樹その人自体の人生を辿っても、1980年代の時点で国内での批判の多さに耐えかねて海外に移住しているような状況だったのです。もちろん、村上春樹に肯定的な評価というのも数多くなされてきたのは事実ですが、こと村上春樹においては「批判しにくい空気があった作家」という評価は全く当てはまらないでしょう。仮にそういう空気があるコミュニティがあるとすれば、それははっきり言って、蓮實重彦も金井美恵子も豊崎由美も知らないコミュニティか、村上春樹(つまり日本で最もポピュラーな純文学作家)についてwikipedia程度の知識もないコミュニティということです。間違っても早慶MARCH以上の文学部や、出版業界でそんなことがあるのでしょうか。経済学部や法学部の間違いじゃないでしょうか。文芸部にいるような高校生だってそれくらいのことは知っているでしょう。。。そういうような感想を多くの「文芸関係者」はきっと実感として共有できるはずです。いや、もちろん「蓮實重彦なんて出鱈目だ」というような文芸関係者ももちろんいるわけですが、それはある程度逆張りとして成り立つものなわけなので。

なので、「村上春樹はキモいと思っていたが、それを言いづらい空気があった」という表現を「編集者/エッセイスト」という肩書きの人物が表現しているのはかなり異常というか、理解し難いことなのです。「一般人」や「文学部の1年生」がいうなら、別にどうということはありません。そうだよね。小説あんまり読まない人でも村上春樹くらいは知ってるし、経済学部とかで自分小説好きだと思っている人に限って、村上春樹のことめっちゃ勧めてきたりするよね。分かる分かる。大体この「あるある」は文学部の1年生で必ず通過するようなものだったりするわけです。なので本好きの高校生の女の子なんかが「村上春樹キモいって言いづらい空気があって……」というのは非常に分かる。でも基本的にはその後どこかでみんな「村上春樹キモいよね」って会話を話すか聞くかで必ず通ってきてるはずなわけで。しかし今回は、「編集者/エッセイスト」という肩書きの人物が表現している。一体どういうことなんだ、これは、と。

そうすると考えられるのは「この人は編集者/エッセイストではない一般人である」か「この人は村上春樹を批判しにくい空気があった と一般人に対して嘘をついてインプレッションを集めようとする編集者/エッセイスト」の二択になってくるわけです。とはいえ、別に編集者/エッセイストレベルでなくても、流石に文学部を卒業していれば村上春樹を批判しやすい空気くらいどこにでもあっただろうと思うので、後者に違いないということを多くの人間が思うわけです。

まあ実際のところどちらが正解なのかはよく分かりません。村上春樹を批判しにくい空気を持った東京大学文学部のコミュニティも、出版社のコミュニティも全くなかったと証明することは悪魔の証明になるでしょう。蓮實重彦にしたって大抵の文学部の人間は名前を知っているわけでちゃんと読んだことはなかったりするわけなので、そんなものは権威になんてならないのかもしれません。ただ私は村上春樹を好きでありながら、そのことをこと「小説が好き」と名乗る人間に説明するときは何かしらのエクスキューズをつけてしまう人間です。そして相手にエクスキューズをつけられたことも何度となくありました。そしてそのことはどちらかというとありふれた出来事だったように認識しています。別に文学部にいたわけでもない学部卒の出版業界に縁のない人間ですら、そういう感覚がありました。私が弱い人間なのもありますが、村上春樹を好きというのはすごく勇気がいることなんです。翻訳いいよね、とか、短編にハズレがないよね、なんてところから初めていっても、「ノルウェイの森」が好きなんて言うのは……。「世界の終りとハードボイルドワンダーランドが一番すごいなって思うけど、好きかどうかでいうとノルウェイの森好きなんだよね……。」とか言ってしまうような気もします。そういう実感を持っていたので、藤井セイラさんの言及のしかたには、やはりかなりの違和感がありました。

村上春樹はキモいです。そんなことみんな知ってます。その上で「いや、村上春樹をちゃんと読んでればあれはキモくないんだ。」とか「村上春樹はキモいけどそれがいいんだ。」とか「とは言えあれはキモいからやっぱりダメだ。」とかそんな風に語り合う作家として、私はなんだかんだ言って村上春樹のことが好きなのです。でも、やっぱりちょっと恥ずかしいなあ。

※追記
私の場合では中学時代から、既に本好きの同級生なんかは村上春樹を腐して三島由紀夫あたりを持ち上げるような人間が「分かってるやつ」だという感覚があった気がします。大学に入ってからも、基本的に自分をハルキストと名乗る人間に会ったことはないですし、村上春樹は新海誠と同じようなイメージで語られることも少なくなかったです。村上春樹を好きな人間は人格から性犯罪者だというような言われ方をされたこともありました。もちろん村上春樹を批判しにくい場所はどこかにあったのかもしれない。しかし、もし、村上春樹が嫌いと言いづらい空間があったのなら、私のあの迫害され続けた隠れハルキスタンとしての生涯はなんだったのか、うぅ……。
※※再追記
私のこの文章の応答なのか、個人的に共感できることを書いているnoteがあったので紹介します。

文芸関係者なら誰も村上春樹のことを好きと公言はできないし、それは恥ずかしいことだと理解している・蓮實や柄谷が村上をダメだと言っていたことは一般人は知らないだろうが我々は皆知っている、そこに皆の村上観の齟齬があるという趣旨の文章を読んだ。こうした人々は自身のアイデンティティも含めて常に何かの「関係者」であって、まさに作家の仕事自体に匹敵する何かに思いを馳せることなど永久にないのだということがよくわかる。かの人々は文壇のゴシップがライフワークなのであって、何かについてシリアスになることなど一生涯無いのだ。価値の評定を自分の名においてできないのなら、最初から何も言わなければいい。それは誰にも何も与えないどころか、単に世界から奪うのみの言葉なのだから。

https://note.com/exhilarationism/n/n41ec84182c7f

そもそもSNSの炎上なんてものにはゴシップ以外存在するはずがないのです。

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