人に優しくなれないのであれば、どうして学ぶ必要があるのだろうか?

小さい頃の世界は単純だった。私にとって勉強というのは人間的・倫理的に修養し成長するための手段であり、社会的な成功へ近づく手段でもあり、またそれによって実際に社会に対して還元をするための手段でもあるという、万能薬であった。

勉強をすることで、人は倫理的に優れた存在になり、倫理的に優れた存在として社会に貢献をし、その結果人生として報われるという勧善懲悪でシンプルな世界観がそこにあった。

実際の世の中はどうなのだろう。

言うまでもない。倫理的に卓越していることと社会的に成功し、社会的に意味のある仕事をできていることはまた別の問題である。社会的に成功している人間の少ない数がクズだ。

これはまあ、そうだろうと思う。別に大した話ではない。

とはいえ。勉強をすることで人は倫理的に成長できるという命題についてはどうだったのか。
私は、人生を進めるにつれて、その信念に対して裏切られ、失望を繰り返している。

勉強をしてきたはずなのにどうしてその結果がああなってしまうのだろう。

「学ぶ」という言葉に踊らされて狂う人がいる。「学んだ」結果、そこで得た独特の世界観を信奉し、他者との対話ができなくなり、他者への攻撃が始まり、世界はどんどん分断していく。学ぶというより、目覚めるというのかもしれない。

彼ら彼女らは真面目な人間だったはずだ。世界をよくしたいという考えを、他人に対して良い人間になりたいと思っていたはずだ。それでも「学ぶ」という概念の正義に巻き込まれて、彼らは戦争を始めてしまうのだ。

人に優しくなれないのであれば、どうして学ぶ必要があるのだろうか? 他者の気持ちを、感覚では分からない異質な存在の思考を、筋道をたどって納得することで、共感できずとも、理解し、その結果お互いに私たちは優しくなれる、そういうことではなかったのだろうか。

あるいは耳障りの悪いことでも、それが社会の必要であると信じる人たちがいるのであれば、なぜその人たちがそう考えているのか筋道を辿って考えた結果、渋々であっても時には折り合いをつけて、世の中を前に進めていくためではなかったのだろうか。

私は「わからないことがわかるようになる」というのが学びだと思っていた。それは、自分の考え方ではない他者の考え方を取り入れるということにもつながるものだったはずだ。決して、他人の持っていない武器を手に入れて、他人を見下す道具にするためではなかったはずだ。

考え方の違いを強調して、世の中をバラバラにしてしまうためではなかったはずだ。



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