反社会的な欲望との距離感
ごめん本当になんで? pic.twitter.com/UFiZP0IrgV
— 悪玉菌 (@vli5q) December 4, 2024
FFさんのnoteを読んで考えたこと。これは対話というよりは、触媒として私が考えてる全然違う自分語りだけど。
反社会的な欲望を持つ人に対してどう向き合うのか?
自分の中に反社会的な欲望はあるのか?
ロリコンや、人の死ぬ瞬間を見たいという欲望は悪趣味とされる。
それは第一に自分に危険が及ぶ可能性がある他者の欲望であり、かつ、第二に(一般的に)自分の共感の範囲外であるからである。
人間には、しかし自分の欲望を制御することはできない。ロリコンの性欲は自然に発生するものだからだ。
トマスは、徳を身につけるのは、技術を身につけるのと似ていると言っています。たとえば子どもがピアノを習うとき、最初は上手く弾けないからいやいや練習するけれど、ある程度弾けるようになると、だんだん楽しくなってくる。節制もそれと同じだというわけです。トマスの定義では「徳=善い習慣」なんです。
トマス・アクィナスの言う通り、ある程度の欲望はよい習慣を身につけることでコントロールできるのかもしれないが、依存症の問題など、基本的にはコントロールできない欲望があるということも事実である。
こうした性犯罪の一部は「依存症(アディクション)」であると考えられている。すべてではないにしろ、「やめたいのに、やめられない」たぐいの行為、まさに痴漢、盗撮、下着窃盗などの多くが、依存症のメカニズムで説明でき、治療にあたっても依存症の治療モデルが活用できる。
私は自分の身の回りに、実行はしていないけど快楽殺人の欲望を持っている人間がいたら嫌だ。ロリコンは、自分が直接的な被害者になることは今の時点でないけれど、もし娘がいたりしたらやはり嫌悪感を抱くだろう。
一方で、「他人に迷惑をかける欲望」を抱いているという点において考えると、例えば私自身もできれば働かず、何もせず、何もしないで100億円欲しい。この欲望が実現すれば、私は人から100億円分の価値を対価なく搾取するという点で他人に迷惑をかけているとも言えるだろう。しかしこうした欲望がそこまで非難されず、むしろ笑える冗談になるのはそれが広く共感されるからである。
同様に、女性のいない場所で男性間において性的に暴力的な欲望が冗談の種になることがあるのも、それが男性同士では共感されるからだろう。
欲望が社会的に受け入れられるかどうかを決めるのは、欲望自体の加害性・反社会性だけでなく、共感の範囲と強さもまた重要である。
共感できない欲望を見るとき、人は、嘲笑したり、別の原因を倫理的に求めたりする。例えば、「あなたが情けない人間だからロリコンになるのだ」というような主張。認知的不協和を解消するために、嫌悪感を持つ存在の発生の原因を徳性の欠如という物語の中に回収する。
これらの行為は欲望を病気の症状と考えた時の治療としては適切ではない。
冒頭のツイートに戻って人の自殺する時の動画は、私は人並みの関心だなと思う。タイムラインに流れていたら「マジか」みたいな感じで気になって再生しちゃうけど自分から検索したりはしないくらい。
でもショッキングな映像自体に関心があるのは人としてすごく普通なことだと思う。そうでなければ、ゾンビ映画やホラー映画、スプラッタ映画は存在しない。進撃の巨人にしたところでアニメーションではあるけれどグロいシーンがあるわけだし。
相手が「自殺の動画見ないと頑張れないんだよね」と言ってきたときの私の反応は確実に相手との関係性次第だ。例えば初対面の自己紹介でそんなこと言われたら避けるだろうし、既に信頼関係のある人であればホラー映画とかとかから想像しながら自分なりに受容的なコミュニケーションを模索したい。
「伝える」という行為はそれ自体が、情報伝達だけでなく、話し手と聞き手の関係性について「こういう情報を伝えるだけの距離感ですよね」ということを示すものでもあるので、時と場合次第では同じ「自殺を見たい」という欲望の告白でも、むしろ、「それを言ってもいいと思ってくれるくらい私のことを信頼してくれているのだな」という感想になる。
冒頭のマシュマロについて言えば、コミュニケーションの受け手が匿名のマシュマロ送信者に対してどこまでの距離感を想定しているかということもファクターの一部だと思うので、同じ回答主でも親友に同じことを言われた場合の反応は異なるのかもしれない。
私が思うのは実際には、普遍的な正義などなく、あるのは共感の範囲だけだと言うことだ。私は自分や息子がロリコンならロリコンに同情的になるだろうし、娘がいたらロリコンに批判的になるだろう。
少なくとも確かなことはSNSの誕生により、石器時代から変わらない我々の生理的なコミュニケーション感覚が想定するコミュニケーション範囲とと、実際に可能なコミュニケーション範囲にはかなりのギャップが存在しているということだ。我々は推しに対して親密な感情を抱くが、推しから見たファンはファンという存在である。推しとファンにとどまらない、本来は存在しなかったコミュニケーション関係が、不毛に感情的摩擦を発生させている。