【分析】村上春樹「風の歌を聴け」の解説・解釈 「嘘つき」の謎とはなんなのか?(僕はひとつしか嘘をつかなかった とはなにか?)
村上春樹のデビュー作である「風の歌を聴け」は難解なことで知られる小説です。例えばyahoo知恵袋にこんなような質問がありました。
以下に私が書く文章は、このような質問に対する私なりの回答です。この小説を丁寧に読んでいくと一貫したテーマと、あるルールに従って書かれていることが理解できると私は考えています。
先に結論を述べるとこの小説のテーマは、大体ある歌のサビと同じものだと私は考えています。これです。
そう、村上春樹のデビュー作は、ざっくり言ってしまうとSIAM SHADEの「1/3の純情な感情」のような小説なのです。そしてこの小説はある一貫した縛りプレイと言ってもいい厳格なルールの中で書かれている。
どういうことか?
それはこのnoteでこれから説明していきます。
そして、私はこう考えることで、以下のような謎に答えを出すことができると思っています。
○この小説のタイトルはなぜ「風の歌を聴け」なのか?
○この小説の元々のタイトルであった「ハッピー・バースデイ、そして ホワイト・クリスマス。」とはどういう意味か?
○なぜこの小説は「「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」」という有名な文章から始まる必要があったのか?
○この小説の中で「嘘つき!」と「僕は・君たちが・好きだ」という箇所がなぜ太字になっているのか?
○なぜ、この小説はこのように断片的に、ストーリーも分かりづらいように、書かれなくてはいけなかったのか?
この小説を読み解く上で、解釈の分かれやすい重要なシーンがあります。私はこのnoteの中でそのシーンについて考えていきたいのです。
まず前提としてのざっくりとした「風の歌を聴け」の解説
と、その前に先行研究をおさらいさせてください。まず前提として、「風の歌を聴け」がどのような小説であるか目線を揃えておきたいのです。
○この話が、仏文科の女の子の自殺という事件を巧妙に隠しながら描かれている小説であること
○鼠は僕の影(いわば分身的な存在)であり、小指のない女の子は仏文科の女の子に対応する存在であること
○小指のない女の子は鼠の子どもを孕っていたこと。また、仏文科の女の子についても僕の子どもを孕っていて、中絶していた可能性があるということ
これはどちらかというとアカデミックな議論の中で積み上げられた解釈なので、概ね正しいものと言えると思います。例えば19日間の<物語>から<小説>へという論文のp5から、研究史として紹介されています。どういう根拠でそういうふうに読むことができるのかについては、以下の記事なんかも参考になるかもしれません。
と、目線が揃ったところで先ほど述べた、解釈の分かれやすい重要なシーンについての説明に入ります。それは『「嘘つき」の謎』というべきものです。
「嘘つき」の謎とはなんなのか?
「風の歌を聴け」には以上のような一節があります。
この一節の中で、どれが語り手のついた嘘だったのか。私はここが、この小説を読む上で重要になってくるポイントだと考えています。
しかし、ここには解釈が必要になってきます。以下の5つの選択肢のうち、どれが主人公のついた嘘だったか小説の中では明らかにされないからです。一度皆さんも一緒に考えてください。
①「もちろん。」
②「もちろん結婚したい。」
③「言い忘れてたんだ。」
④「3人。」
⑤「女が2人に男が1人。」
この中のどれが嘘なんだろう?
結論から言います。「言い忘れてたんだ。」私はこれが正解だと思っています。それが分かると、この小説が冒頭で述べた通り「壊れるほど愛しても1/3も伝わらない」という小説だということがことが分かってくるはずです。
ただ、公正を記すために申し上げておくと、これは少数意見の解釈です。実際、何の気のなしにインターネット上の解説を見ていると、自分と同じ解釈をしている人がなんと見つからなかったのです。
※追記、一人見つかりました。この方は概ね私に近い解釈をしているものだと思います。
この点についての既存説
まず、インターネット上で見つかった既存の議論のおさらいから。「言い忘れてたんだ。」を嘘だとしないのは概ね以下のような理由によるものです。
と、概ね「その他の場面にも語り手による同じような言葉があった」ことで、この「言い忘れていたんだ」説は排除されています。
逆に、正解とされているのはどこなのでしょうか。
しかしこれは反論として十分でしょうか? もしかしたら小指のない女の子との対話という他の場面でも、全く同じ嘘を主人公はついていたのではないでしょうか?
実は僕はそう思って読んでいます。「主人公には肝心なことを言わない」癖があり、そのことの原因を人に説明するときに「言い忘れていたんだ」と過失であるように嘘をつく癖があるのではないか、と。
なぜ私が、「言い忘れていたんだ」こそが主人公のつくたった一つの嘘であるのか、これを以下で説明していきます。
なぜ「言い忘れていたんだ」が嘘であるのか
まず、もう一度前後の文章を読んでいただきたいのです。
ここで注目したいのは「僕はひとつしか嘘をつかなかった。」という文章です。この文章の意味をもう少し考えてみたいのです。
まずここで間違いなく起こっている事態としては、彼女は語り手のことを「嘘つき」だと思っていて、それが「彼女を愛していない」ということなのだと考えているということです。そしてそれ故に、彼女は僕によって傷ついてしまっているということです。
①語り手は「嘘つき」である
②それは彼女のことを語り手が愛していないからである
③それ故に彼女は僕によって傷つけられている
ということです。
言うまでもなくこの小説を通じて彼女=仏文科の女の子 が自殺してしまったことにこの小説の語り手は深く傷ついています。そしてそのことに対して何らかの後ろめたさを感じている可能性が十分にあります。
であるのならば、ここで語り手が言いたかったことは彼女の言う通り「彼女を愛していなかった」ことに対する後ろめたさなのでしょうか?
①「もちろん。」
②「もちろん結婚したい。」
③「言い忘れてたんだ。」
④「3人。」
⑤「女が2人に男が1人。」
この5つのセリフのうち、③「言い忘れてたんだ。」以外の4つのセリフは結局のところ「彼女を愛している」ということを言っているセリフだと読むことができます。もちろん、現代の価値観においては子どもを持つ=愛しているでもなければ結婚したい=愛しているでもありませんが、概ね、方向性としては「子供が欲しい」「結婚したい」という言葉と「愛している」というのは近いベクトルを持っているものです。
もし、彼女に対して「愛している」という嘘をついたのなら、わざわざ「ひとつしか」と言及して問題をややこしくする必要などどこにもないのです。もちろん文体的になんかこっちの言い方の方がかっこいいというのは確かなのですが、それにしてもあまりにも中身がありません。
そもそも、彼女は「嘘つき」であると僕に言ったのに対して、僕は「彼女は間違っている」と答えているのです。
この「嘘つき」というのは「私のことなんか愛していないでしょ。」ということを言おうとしています。
なのでそれに対する反論としての「彼女は間違っている」というその後の語り手の言葉は、言葉を文字通りに捉えた意味での「僕は嘘つきではない」ということか、彼女の真意までを捉えた「僕は彼女を愛している」という主張に続くと考えるのが自然です。
ところが、主人公は「僕はひとつしか嘘をつかなかった。」と続ける。つまり「嘘つきではない」とは言っていないということなのです。
つまり僕は「嘘つき」ではあるが一方で彼女を愛していた。それがここで語り手の言いたいことだと考えら得るのではないでしょうか。
であれば、ここで語り手が「しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。」という言葉で表現している絶望というのは「愛しているのに伝わらない」というコミュニケーションの問題に他ならないのです。
想定される反論に対する検討
ここで反論が来るかもしれないので、まず、語り手である僕が彼女のことを「愛していた」「結婚したい」「子供3人ほしい」「女が2人男が1人」ことが嘘ではないかどうかを検討しましょう。
考えられる根拠は幾つかあります。
まず、そもそも語り手は、仏文科の女の子の死にこれほどまでに傷ついているのですから、彼女のことを愛していたと考えるのはそんなに不自然なことではない。この「風の歌を聴け」という小説は、仏文科の女の子の死という事件を巧妙に隠しながら、その事件のトラウマを背景として描かれる小説なのです。トラウマを抱えるのは愛していたからだと考えるのはそこまでおかしなことではない。
その様は、例えば語り手が小指のない女の子に対して振る舞う場面からも読み取れます。子どもを堕ろしたと推察される、小指のない女の子に対して、語り手は、行動ベースではかなり丁寧に寄り添うのです。つまり彼女が寝ているところを起きるまでそばを離れない。これは、語り手が仏文科の女の子の死がトラウマになっているので、小指のない女の子と仏文科の女の子を重ねる形で優しさを発露させているのです。
また、ある哲学者の方は文章の分析からこのように議論を展開させています。これはかなり説得的な議論であると思います。(なおこの方は最終的には嘘の箇所を私とは別のところに求めてはいらっしゃいますが。)
「結婚したい」という発言についても、もしこれが嘘であれば、その後の発言を嘘にしてしまうようにも見えるので、嘘ではないと考えるのが自然です。「子供が3人ほしい」についても同様です。
また、上記の発言が「女が2人男が1人」という発言が嘘だったとしても、はっきり言ってなんでそんなところで嘘をつく必然性があったのかあまりよく分からないでしょう。物語の切実さの割に、嘘の意図があまりにも見えてきません。
後半の発言をまとめる形で「子供がほしい」ということが嘘ではないか?という説もありますが、であればやはり、わざわざ「一つしか嘘をつかなかった」と書く意味がわかりません。その場合、一つという風に限定しにくいと思います。
無論、子どもという論点については重要なポイントがあるのも事実です。冒頭の方で記載した通り、この自殺をした仏文科の女の子は、語り手たる僕の子どもを妊娠していたようにも見えるからです。とはいえ、そこについて嘘をついていたのであれば「しかし彼女は間違っている」という風に語るのはあまりにも開き直りすぎてはいないでしょうか。もし、彼がここにおいて嘘をついていたのであれば、「しかし彼女は間違っている」などと到底言えるはずもありません。彼女の嘘つきという糾弾を真摯に受け止めていたと思います。
だとすると、なぜ「言い忘れていたんだ」と語り手は嘘をついているのか? そもそもなぜ「私が尋ねるまでそんなこと一言だって言わなかった。」のか?
しかし、ここで疑問が浮かんでいることでしょう。
第一に、仮に愛していたなら、なぜ語り手は「私が尋ねるまでそんなこと一言だって言わなかった。」と言われるように、自分から「愛している」と彼女に言っていなかったのでしょうか?
第二に、なぜ「言い忘れていたんだ」なんて語り手は嘘をつく必要があったんでしょうか? そこで本当に言うべきだったことは何だったのでしょうか?
第三に、こういう風な疑問も浮かびます。そもそもなぜ語り手は、もっとシンプルに、こう書かなかったのでしょうか?
以上の三つの疑問に対して、私なりの回答をすると以下のようになります。
第一に、語り手が「愛している」と自分から言っていなかったのは、語り手には「肝心なことを言うことができない」というある種の病的な症状があるため。
第二に、「肝心なことを言うことができない」ということ自体が語り手にとって肝心なことであるが故に、語り手はそのことについても言及することができないため。本当に言うべきなのは「僕は肝心なことを言うことができないんだ。」ということだった。
第三に、「彼女を愛していた」という事実も肝心なことではあるし、主人公にとって彼女の死はあまりにもトラウマであるために8年経った時点でもうまく語ることができないため。
そうなのです。この小説は「語り手には「肝心なことを言うことができない」というある種の病的な症状があり、それを小説の地の文自体にもルールとして適用している小説」という風に読むとかなり色々なことがすっきりと見えてくるのです。
この「肝心なことを言うことができない」というのはコミュニケーション不全ということです。なぜこのようなルールが適用されるのか。それは、この「風の歌を聴け」という小説自体が徹底してコミュニケーションの不全についてテーマにしている小説だからです。
「風の歌を聴け」がコミュニケーションの不全をテーマにしているとはどういうことなのか
このことについては以下の記事の中でも解説しています。なので記述内容はかなり重なる部分があることをご承知ください。
まずこの作品は、有名な「完璧な文章などといったものは存在しない、完璧な絶望が存在しないようにね。」と言う言葉から始まり、その後、数ページに渡って「書くというのは難しいことなんだ」と延々語るシーンが出てくる小説なのです。
以上のことから、語り手が書くという側面においてコミュニケーションの限界を感じているという事実が作品にとって重要であるということがわかります。
そしてこの主人公の、「言葉がうまく使えない」という症状は、生まれつきのものとしても描かれています。というのも小説の中で、小さい頃の主人公が無口のあまり精神科に連れていかれたと書かれているのです。
ここで主人公は治療されて、一度は喋るようになったものの、成長してからもコミュ障なのは相変わらずです。例えば、成長してからの様子については、このように描かれています。
以上のことから村上春樹のデビュー作の主人公は(喋るのは愚か書くこともときに苦痛に感じるほどの、精神科に行かされるほどの極度の)コミュニケーション不全のキャラクターであるということを論じられたと思います。
その上で、この小説の中で、コミュニケーションは以下のように重要な側面を持つものとしても描かれているのです。
これは「風の歌を聴け」において、その無口さ故に、幼い頃に精神科に連れていかれた主人公が医師からコミュニケーションについて語られるシーンです。
ちょっと深読みしてみると。この文章からは、この作品におけるコミュニケーションの特徴として、三つのものが読み取れるとも思うのです。それは太字にした三つの部分から読み取れるものです。
まず、「もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。」ということからはコミュニケーションは存在理由であるということを言っています。コミュニケーションをできないのであれば存在していないのと同じくらいそれは不毛な存在なのだということです。コミュニケーション不全の登場人物たちにとっても、コミュニケーションは存在理由と言ってもいいくらいに切実なものであるのです。
また、「そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア・ゲームだ。やってごらん。」という台詞からは、コミュニケーションには喋ることや書くこといった「言語」によるものだけでなく、ジェスチャーゲームのような「非言語」のコミュニケーションもあるということが分かります。
ちなみに、ここで、「非言語」のコミュニケーションの典型例でありまた最も親密なものを想像して欲しいです。分かりますか? そう、セックスです。このコミュニケーションの文脈で村上春樹作品に頻出する「セックス」が出てくると言ってもいいのです。
しかし、言語のコミュニケーションが「完璧な文章は存在しない」ように不完全なものであるのと同じように、そして、むしろそれ以上に、残念ながら非言語のコミュニケーションはまた「それじゃ消化不良だ。」という言葉の通り失敗しやすいものとしても描かれています。
まとめると、「風の歌を聴け」におけるコミュニケーションはこのような特徴を持つのです。
①コミュニケーションは存在理由であるほど切実なものである
②コミュニケーションは言語的なものではなく非言語的なコミュニケーションも含まれる(後述するがこれにはセックスが含まれる)
③(言語的なコミュニケーションに困難を抱えているからといって)非言語的なコミュニケーションは失敗しやすい脆弱なものである
コミュニケーションと存在理由 主人公が抱える絶望とは
そしてこの小説の中で「存在理由」として語られるもう一つのものがあります。
それは以下の記述です。
レーゾン・デートゥルとはフランス語で「存在理由」という意味の言葉です。この彼女の言葉を、コミュニケーション=存在理由という、先ほどの説明と合わせるとどうなるか。A=B B=Cなら、A=Cと言ったように、ペニス=コミュニケーションという解が導き出せるのです。
しかし、ペニスによって為されるセックスはコミュニケーションではありつつも、言葉のコミュニケーションの不在を補うことができないものでもありました。
つまり、僕は彼女と寝ておきながら、セックスをしておきながら、それにもかかわらずコミュニケーションが取れていないのです。それが故に彼女は死んでしまったのかもしれません。コミュニケーションの不全のあり方は、例えば彼女が死んだ理由がわからないという描写を通じて表現されています。
さらにこの文脈で「嘘つき」のシーンを読み返すと、どうなるか。
こうしてみると、一度は非言語的なコミュニケーションたるセックス=ペニスを存在理由として肯定してくれた彼女も、結局は言語的なコミュニケーションの失敗によって語り手の元を去ってしまったのだということが見えてきます。ことここにおいて主人公のコミュニケーションに対する絶望は非常に深いものとなったことでしょう。
この小説では「肝心なことを言うことができない」というルールが適用されていると考えることができる理由
こうして、この小説の中での「コミュニケーション」というテーマの重要性を踏まえてみると、
①「もちろん。」
②「もちろん結婚したい。」
③「言い忘れてたんだ。」
④「3人。」
⑤「女が2人に男が1人。」
という五つの選択肢のうち、「言い忘れてたんだ。」だけがコミュニケーションのあり方に言及している言葉であるということから、何となくここに注目してみたくなる気もしないでしょうか。それ以外のセリフについては基本的には彼女のことをどう思っているかという話をしているのですが、「言い忘れてたんだ。」と言うセリフだけ語り手のコミュニケーションのあり方についてのコメントなのです。
また、なぜこの小説において、「肝心なことをいうことができない」というルールが適用されていると考えることができるのかということについてもコミュニケーションというテーマの重要性を踏まえて考えてみれば答えは容易に出るかと思います。
先ほどわたしは三つの論点を提示しました。
第一に、語り手には「肝心なことを言うことができない」というある種の病的な症状があるということ。
第二に、「肝心なことを言うことができない」ということ自体が語り手にとって肝心なことであるが故に、語り手はそのことについても言及することができないということ。
第三に、「彼女を愛していた」という事実も肝心なことではありトラウマなので語ることができないということ。
第一の根拠としては、先ほども引用したこの文章が挙げられます。
さらに、第二のポイントについては、この小説において、コミュニケーションというものが「存在理由」と言えるほど肝心なものであることを考えると、理解できるかと思います。
もしかしたら、ここは私のかなり深読みかもしれません。ですが、このように考える主人公にとって誰かに対して「僕は語ることができないんだ」と表明することは、非常に恐ろしいことだとはいえないでしょうか。コミュニケーション=伝達こそが相手に対する自分の存在理由なのです。それができないということは、相手に対する自分の存在理由を消してしまうことにつながるものであるとも言えるのです。
言い換えます。自分の愛する人に対して、「僕はあなたを愛していると自分からいうことができないんだ」と表明する。これは語り手にとって、とても難しいことなのです。なぜなら、それを言葉で説明しても、コミュニケーション能力に乏しい語り手は、相手にそれを信じてもらうことが難しいからです。そして、このことが信じてもらえないと、結局のところ、「愛していないから言ってくれないんだわ。」という風に受け止められてしまって、それで関係は切れてしまうのです。そのことを避けるためには、あくまで「言い忘れてた」という苦しい言い訳をするしかないんです。
ですから主人公は、このことに対して突っ込まれると、「言い忘れてた」とくるし言い訳をする癖がついているのだと思います。
第三のポイントについては、先行研究で論じられている通り、この小説自体が、自殺で亡くなった仏文科の女の子についてほとんど言及を避けている構造を持っていることからも明らかだとはいえないでしょうか。肝心なことを言えないというルールが小説全体にも適用されているのです。そもそも彼女のことを「愛していた」がうまく書けないが故にこの小説は書かれていると言ってもいいくらいなのです。
このように考えることで解決できる謎について
さて、ここまでで、「風の歌を聴け」がコミュニケーション不全をテーマにした小説であるが故に、地の文に至るまで「肝心なことを言うことが出来ない」と言うルールが適用されその結果、「言い忘れていたんだ。」こそが主人公のついた一つだけの嘘であると言うことを論じてきました。
ここからは冒頭に提示した以下の謎についてもこの観点からの回答を検討してみます。
○なぜこの小説は「「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望というようなものが存在しないようにね。」」という有名な文章から始まる必要があったのか?
○なぜ、この小説はこのように断片的に、ストーリーも分かりづらいように、書かれなくてはいけなかったのか?
○この小説の中で「嘘つき!」と「僕は・君たちが・好きだ」という箇所がなぜ太字になっているのか?
○この小説のタイトルはなぜ「風の歌を聴け」なのか?
○この小説の元々のタイトルであった「ハッピー・バースデイ、そして ホワイト・クリスマス。」とはどういう意味か?
まず、小説の冒頭については、これは語り手が自分を慰めて、励ます言葉なのです。語ることの困難さの中で苦しみ切った語り手は、このような言葉で自分の背中を押さなければ語り始めることが出来なかったのです。
そして、この小説が断片的に書かれている理由も「肝心なことを語ることが出来ない」と言うルールが適用されているという風に理解をすることが出来ます。
また、「嘘つき」と「僕は・君たちが・好きだ」の二箇所が太字になっている理由は、まさにこのセリフが時空間を超えて対応するものだからなのです。これは「嘘つき」という言葉に対して本当は伝えなくてはならなかった、「本当に愛しているんだよ」と言う愛の言葉の言いかえなのです。
それでも、「肝心なことを言うことが出来ない」というルールが適用されるので、このセリフはラジオのパーソナリティによって発せられることになりました。なぜラジオなのか? これもコミュニケーションという観点から考えるとなかなか示唆深いように思われます。
ラジオというのはコミュニケーションのあり方として考えると、非常に特殊なものなのです。特にこの小説がインターネットがない時代に書かれたということを考えるとラジオであることの必然性が理解しやすいです。
どういうことか。ラジオは、普通の会話とは違い、目の前に相手がいる、ないし、手紙のように一対一のコミュニケーションというわけではありません。それでもテレビとは違い、しばしば生放送という点で時間を共有しており、またリスナーからのメールが届くという点でも、一対不特定多数でありながら双方向的なコミュニケーションの場でもあるのです。つまり、不完全ながらコミュニケーションの場でもあるのです。
このような場であればこそ、「僕は・君たちが・好きだ」という言葉を小説として語り手は書くことが出来たのです。
また最後にこの小説のタイトルについても、「風の歌を聴け」があくまでコミュニケーションの不全をテーマにした小説だということを考えると理解しやすいものになってきます。
まず、元々のタイトルであった「ハッピー・バースデイ、そして ホワイト・クリスマス。」とはどういう意味か。これをコミュニケーションの観点から捉えると面白いことに気づきます。実はこの言葉は、意味を伝える言葉ではなく、好意を伝える行為としての言葉なのです。
であるからこそ、この言葉は、言葉による意味伝達としてのコミュニケーションが機能しづらい時でも、相手を祝うという行為として相手に好意を伝えられる可能性がある言葉として、非常に意味深いものなのです。
伝えたいのが「僕は君が好きだ」ということだとする。しかしそれを直接いうことは出来ない。であれば、その代わりに、ハグをしたり、プレゼントを送ったりして気持ちを伝えることができる。そういうことを言葉でするなら「お誕生日おめでとう」ということはできる。こういうことなのではないでしょうか。
また、若干こじつけ感もありますが、「風の歌を聴け」という意味についてもコミュニケーションという観点から分析してみましょう。どうなるか。
実は、気付かれると思いますが「歌」というのも言葉と行為が重なるようなコミュニケーション手段なのです。そして、「聴け」というのもいうまでもなくこれはコミュニケーションにかかる言葉です。
「風」の正体については色々な人が論じていますのでここでは言及しませんが、基本的には仏文科の女の子の自殺の描写に風という文言が出てくることから彼女のことだと考えてもいいと思います。
この小説の中で散々書かれていた通り、語り手との彼女とのコミュニケーションとして、言葉を発する、言葉を通じてコミュニケーションをするということに失敗はしました。それを踏まえて「風の歌を聴け」とは何か。
「言葉」を「語る」ことは不完全で失敗をしても、「歌」を「聴く」ことならできるし、まずはそこから始めて行かなくてはいけない。そのようにして不可能な中でも常にベストを尽くして他者とコミュニケーションを試みて存在理由を求めていかなくてはいけない。つまり、このタイトルは困難な中でもコミュニケーションを諦めてはいけないというメッセージのようにも読めるのではないかと私は思っています。
終わりに
以上、「風の歌を聴け」という小説をコミュニケーションという言葉をキーワードにして分析してきました。疲れたので、もし読んだ方はいいね、コメントしてくれると嬉しいです。異論反論でももちろん、OKです。15000字にもなろうとしているので、この辺りで一旦このnoteを終えることにします。