令和ロマンは何を終わらせたのか?
令和ロマンが勝ち、M1は終わった。20回という歴史を経てその長く短い時代は、もう二度とやってこない。
そもそもM1とは何であったか。M1は島田紳助の始めた漫才の大会である。彼は2011年に暴力団関係者との交際を理由に、芸能界を引退しているために、現在その姿をほとんど見ることはない。冴え渡るトークのセンスで時代を圧巻する栄光と、「喜び組」の噂ように古い芸能界の権力者然とした闇を併せ持った存在で、今の時代に適合できず、しようともしなかった存在である。
その彼が始めたM1は、元々「夢を諦めさせるための区切り」という役割を期待されていたという話もある。
そして、その当初の期待に沿ってか、あるいは反してかは分からないが、M1がその後芸人の「夢の舞台」であり、「人生救ってもらった」と語るオードリーのように芸人の人生を変える場所として数々のスターを生み出してきた装置であることは言うまでもない。M1は夢の場所であった。
そしてそこでは、特に松本人志を始めとする権威ある(そして時に時代に合わないと揶揄される)審査員たちが大きな存在感を持ち、彼らの権力の場としても機能していた。中田敦彦がYouTubeで松本人志の審査員としての存在感に異議を唱えながらも、当の芸人たちからその発言は冷ややかに見られた通り、無論その権力のあり方はトップダウンのものというよりも下から上へ、上から下へと循環する、吉本を中心とする芸人世界そのものという一つのエコシステムだっただろう。この吉本の権力の背景には、松本人志や島田紳助を始めとするテレビスターに寄るテレビという存在があったことは言うまでもない。
そして、M1が夢をめぐる舞台であるための条件として欠かせなかったのが、「運」の存在である。ドラマの背景には不確実性が存在する。一歩何かが違っていたら……その空想が、我々の想像を刺激する。その点においても「トップバッター」という存在が、M1の一つのポイントであったことは間違いない。
第20回大会はこれら全ての転換点であったと言えよう。
第一に松本人志の不在による審査員の権力性の解体。新しく投入された審査員である、若林のような存在はむしろそのあり方を権力とは離れたところに求めているタイプの芸人である。彼らの審査基準は「妥当かどうか」「的確なコメントかどうか」という視点で見られても、やはり松本人志らのようなあり方とは比較術もない。「若林に審査されたい」というような芸人の声に対してまっすぐに権力然として振る舞うような旧態依然の芸人ではないわけである。
第二に、その中で登場した令和ロマンという芸人のキャラクター。いや、登場ではなくて君臨である。彼らの特徴は、芸歴の浅い若手であり、慶応大学出身という学歴エリートであり、かつ実家が大金持ちというケムリの資産エリートな側面であり、くるまの分析家というこれまたエリート的な側面である。彼らの唯一の可愛げは前回大会の決勝初進出という経験不足とトップバッターというくじ運の悪さにあった。今回の令和ロマンには一切のドラマ性がない。彼らのバックグラウンドには苦労がないからである。
しかし、彼らは今回「2連覇への挑戦」というドラマを背負っていたではないか? これが今回の彼らのドラマ性ではないか? こういう指摘もあるだろう。しかし、むしろここでドラマ性を担ってのは、「M1」それ自体の物語というドラマ性である。今回の令和ロマンを軸とする物語で(結果的に)注目されていたのは、M1という舞台装置が20年を経て時代に揉まれた後に、令和ロマンに勝つことができるのかというストーリーであった。
物語のその構造は、笑神籤が、トップバッターに令和ロマンを選んだ時に決定されてしまった。「トップバッターで2連覇」という事態こそが焦点になった時に、M1はM1であり続けるために、必ず令和ロマンを負かさなくてはならなかったのだ。夢の舞台であったはずのM1が、金と頭脳のあるエリートが本気でハックしようとすれば、トップバッターだろうがなんだろうが優勝できてしまう大会ということを示されてしまえば、そこにあるのはただのどうしようもない現実である。賢くて金のあるやつが頑張れば勝つ仕組み。これを資本主義と人は呼ぶ。
M1が転換点を迎えたのではない。令和ロマンが勝てば、M1を支えるアイデンティティの諸前提が崩れるかどうか、そういう場所にM1は既に追い込まれていた。
そして、令和ロマンは勝ち、M1は終わった。
![](https://assets.st-note.com/img/1734942518-2HXyB85GCtrhRjbkmgQL6Fu4.jpg?width=1200)
紳助の「いつまでもM1が夢の入口でありますように」という言葉は結果的に最後の抵抗であった。そこにはもう松本人志もいなければ、一発逆転というドラマもなかった。そして、今後M1で優勝したところで、どのみちトップバッターで2連覇してしまった令和ロマンには勝てないのだ。ここはもう夢の入口にはならない。その扉は令和ロマンが閉ざしてしまった。
お笑いは人の集合的な無意識を反映する。稀代の天才、令和ロマンがその掴みで「終わらせよう」と発した事実は、まさにその通りの宣言として読むことしか、もはやできない。
※追記
とはいえ夢の舞台としてのM1が終わったのが良いことなのか悪いことなのかという観点で考えると、昔のようにテレビに出ないと売れないという時代じゃないので、シンプルにM1が夢の入口として機能する意義は減っている。その中で、ネタを純粋に見る大会というよりも、芸人という「貧しくて苦労してる人たち」の一発逆転リアリティショーとしての側面で人間ドラマにフォーカスされていた、M1のあり方が、ネタを見る大会として健全だったのかどうかという観点から、M1が終了し、M1を芸人が茶化せるようになり、M1にリソースを取られすぎない状況に転換していくことはポジティブな側面も大きいと思われる。