分析はクソ 欲望せよ
自己分析とかいう言葉があるが、基本的にしない方が良い。意味がないといいたいわけではなく、むしろ有害だと言いたい。自己分析をした結果、導き出される自己像は、理性的な存在だが、自分自身の抱える欲求とは常に非合理なものである。つまるところ、やればやるほど自分自身のことは分からなくなる。
これは批判ではなく反省である。自分の悪い思考パターンがある。以下のようなものである。
理性的に考えなきゃいけないという自分の中での縛りがあって物事を多角的に分析しようとして正解を見つけようとするんだけど、その過程で自分の気持ちを見失いがち。
現状分析からこうするべきだ正解はって考えるんだけど自分の中でこうするべきだと無意識でのこうしたいこうしたくないが一致しなくてうまく行動できずにイライラしてる。
なぜこうなるかというと、いくつかのポイントがある。
まず、定性的な現状分析が好きなのである。これは性みたいなもので、私は分析が好きだ。ここがこうだからこうなるんだね、と考えたり、それってこっち側から見たからそう見えるけどあっち側から見てみたら?とか考えるのが大好きだ。なのでnoteも自然とコンテンツに対する分析のnoteになっていく。
そして、間違えたくないという気持ちも強い。なぜなら間違えると、傷つくからである。自分が傷つくのが人一倍嫌なのだ。なので余計にしっかり分析をすることで間違いではない正解を選びたいなと思ってしまう。
しかしそんな感じで自分の思考自体も絶えず分析の対象にしてしまうので「この思考はこういう観点から自分を正当化しようとしているのでは?」とか「この思考はこういう自己顕示欲があるのではないか?」とか色々考えて、自分の本当の思考がどれなのかよくわかんなくなるのである。
その結果、行動を現状分析から導き出した正解というべき論で実行しようとするのだが、分析の過程で抑圧した自分の欲求が行方不明になり、やる気が出ず、自己嫌悪する。そして状況を打破するためまた分析を始めるスパイラルに陥る。
この現状を打破するためには、分析の過程ではなく欲求を言語化しなくてはいけない。故にnoteを書き、様々なものに自分の価値判断を表明していくことで、自分の欲求に、自覚的になりたいのだ。
しかしこのnoteをメタ的に捉えるとこれもまた自分の思考パターンの分析の過程を記録したnoteであり、明らかにブーメランなのである。
結局私の欲求はなんなのか? 少なくともnoteを書く上で正しいのは、本当に、分析をすることだ。特に誰かの考えていることを。
引用が好きだ。他の人の言葉をパッチワークして、こことここで言ってることを総合することこういうことを実は言ってるでしょ?っていうのが大好きだ。
あなたの思考パターンはこういう感じだからこういうことを言ってるんだよね? あなたは気づいていないけどほんとはここに論点があるよね? でもそこじゃなくてここに注目するのが超あなたらしいよね?
小説とか映画とかの分析も好きだけど同じジャンルとして人間分析が好きだ。人間観察と一般にいうのかもしれないが、私の場合は、その人間についての情報の量を追う=観察ではなく、持っている情報を総合してその人の行動パターンを予測する=分析の方が楽しい。まあ一般には人間観察だろう。
そうか、私は、人間観察が、好きなのかもしれない。人間観察が好きだということはあまり認めたくない。なのであまり気付かなかった。なんとなく、趣味は人間観察という人のことが、嫌いである。これは自己嫌悪だったのかもしれない。それにしても、人間観察が好きという人はなんとなく私はあなたのことを理解してますよと言ってこられてるような気持ちになって、ケッ、傲慢だなと思ってしまうのだ。人間観察が、好きという宣言の背景に、人間理解が得意だという主張を感じてしまうのだ。
私の場合、人間観察は小説を読むのと映画を見るのと同じ脳を使っているので、そこの違いはあんまりない。というか全くない。人間理解をしているというつもりは、なのでない。だから許してもらいたいところである。
まとめになるが、自己分析をするのはクソだ。欲求が分からなくなるからだ。しかし自分の場合分析をするのはとても楽しい。人間観察と同じことだからである。欲求が分析でありその分析が欲求を阻害するという分析をして出た結論は私は人間観察が好きだが分析してみるとそれは人間観察ではないかもしれないという結論である。何が言いたいか分からないと思うが俺も何をいいたいか分からない。そう分析をした結果、どうしたらいいか分からない。これが分析はクソ の実演であるを