凡庸の中からの叫びの音楽 | 「The Drugpapa」 ライナーノーツ
この世にはつまらないものが溢れている、というのは言いすぎているというかその人の主観によるのだが、この世の現象(音楽や映画や小説やエッセイやショート動画やバラエティ番組やニュースやドラマやこの文章も、あるいは労働や遊びや人間関係や何もしていない時間や勉強、結婚、出産、夢のマイホーム計画、一生に一度しか訪れない人生の最高到達点、死去、それら全て)には全て面白くなさやつまらなさや凡庸さが含まれている。興味溢れるあの名盤やあの名シーン、自らの人生をかけて作り出した究極の何かにも、それらはすべからく含まれている。
2000年代J-POPのダッサいシンセサイザーのリフレイン、80年代特有の嫌なリバーブ、あるいは世界中のショッピングモールやコープで延々と流れる能天気で胡散臭いBGMやラジオみたいな音、最悪なドラマの演出、あるいはYouTubeに無数にアップロードされた誰かの個人的な動画。圧倒的に快楽的で面白くなくてつまらなくて凡庸だ。昔から存在し、現代を生きる我々が理性的に忌み嫌い、懐古主義者として我々が本能的に愛する、限りなく凡庸な、光。
どれだけ友人と笑い語り合った夜が明けて爽やかな朝の風を感じても、心から愛している恋人とセックスをしても、どれだけ本を読んでも映画を見ても、どれだけ美味しいご飯を食べても、どれだけバラエティ番組で笑っても、どれだけエロすぎる個人撮影動画で抜いても、心のどこかが楽しんでいない。人生という無限の賢者タイムでは常に虚無感が付きまとっている。その正体は我々の凡庸さ、ダサさだ。この世に溢れすぎているこんな面白くない会話、この世の誰も共感してくれないこんな何かをしている(と思ってしまう)自分への圧倒的な虚無感。しかしそれは我々が生を受けたその時から、内的世界を構成し始めたその前から存在する、圧倒的な凡庸の光である。
ならば凡庸を受け入れよう。この凡庸の快楽で自らを殺すことさえ厭わない。あの2000年代みたいなダッサいシンセサイザーのリフレイン、あの公的機関でしか使われない特有のゴシック体、テレビの演出的すぎる効果音、資本主義社会の中で刹那的に消費されるアレコレ、その光に殺されながら受け入れる。自らの手で刃を突き刺す。その光の中で、その内側のやられに対しての叫びのような音楽。メタ凡庸でありながら凡庸の中からの叫び。冷笑か皮肉か自己嫌悪か何かはわからない。ただ凡庸で美しいゴミの山で叫ぶ。カウンターカルチャーすらも凡庸になって、その事態にすら慣れてしまった現代において、「異議申し立て」をする術はもうそれしか残っていない。それが僕が「The Drugpapa」で目指した音楽であった。
立川談志がその生涯の後期に提起した概念である「イリュージョン」。
文脈を破壊してもなお続く言葉遊び(電気グルーヴの歌詞とかでも見られる、逸脱した文脈を繋ぎ止めてたとき生まれる可笑しさの作用)は前から僕のツボであったし、Audiostokerがよくやっていると言ってもいい行為であったが、拙作「アニメーション・トリッピング」のテーマであった「文脈と切り抜き」を発展させる意味でも、その凡庸を可笑しさを取り上げる意味でも僕は本作でその技を用いたかった。凡庸な言葉によるイリュージョン。本作での新曲の歌詞はそこから発展した。
「イリュージョン」とは少し異なるのかもしれないが、いわゆる、電波系的な文章はインターネットの掲示板やSNSの隅々に散見され、見つける度に必死に読み漁ってしまう。凡庸でありながら逸脱したそれらの文章には破綻した言葉の可笑しさと哀愁と懐かしさがある。
本当に死にたい人は「死にたい」とは言わないのでは無いだろうか。本当に悲しい人はその悲痛の声すら出せないかもしれない。彼らが吐き出した破綻した言語や文脈や事柄は、生まれたての言語感覚のように感じられたり、あるいは笑ってしまうだろう。一周回った笑いというか、冗談でありながら冗談じゃないというか、呆れ返った悲しさの果てに出た不本意な笑い。おそらくペーソスはユーモアの対義語ではなく、ユーモアはペーソスのその奥にあるのだろう。冗談みたいなものが崇高に扱われたり、崇高なものが冗談に変わる、そのスピード。インターネットの面白さはそういうとこにあったような気がする。
そういったものを歌詞で目指したいと思っていた旨をnerakat氏による我々へのインタビューで語ると、Audiostokerは「確かに、身内でよくわからない面白さを共有しているみたいな感覚はありますね。でも他人からすれば拳銃を無言で渡してくるようなもんですけどね。」と言っててそれも凄かった。
「ヒルナンデス」という日本テレビの番組が平日の真昼に放送されている。特に起きているわけでも見ているわけでもない、ただソファに沈み込みながらその番組を見ている時、ある虚無感、幽霊になったような感覚が立ち現れる。
それは100円ショップに行った時や住宅展示場に入り込んでしまった時、あるいはカラオケで飲みゲーをやった時、あるいは球場の客席にいたり野球中継を見た時にも感じられる。巨大な何か集合体の中に入り込んだような感覚でもある。
このエヴァの人類補完計画の末のような、何か凡庸な一個の塊となってしまったような感覚(幽霊になったような虚無感)について考えたい。
2023年初旬にAudiostokerが24時間配信を行った。持ち寄った映像をTwitchで放送し続けるというよくある形式を24時間やって、それをAudiostokerがワイプで見ているという誰が見るんだろうという内容であったが、そこで僕がその直前ギリギリで完成した映像作品がある。その一ヶ月前にDREG PEPEという名義で発表した「言葉本来が持つ不可逆性について」を映像化した、一時間半にわたる「映画 言葉本来が持つ不可逆性について」というものである。
僕は2022年に「THE COOL DEEP FEELINGS 2004-2014」というアルバムを制作している。それはインターネットの様々な場所に散らばる、個人的な映像や音声をコラージュし、過去の保管庫とでもいったような雰囲気を呈する作品だ。その作品の方法論を「言葉本来が持つ不可逆性について」の音声ととともに映像化したのが「映画 言葉本来が持つ不可逆性について」である。
個人的な映像をそのままサンプリングし続ける、絶えず脈絡なく、脈絡が立ち現れたと思われるとそれが急に逸脱され、なし崩しになり、また違う個人的な(そして凡庸な)脈絡が始まり、あるいは先ほどの脈絡に回帰する。最終的にその映像の編集画面となり、そしてそして編集している僕自身というメタ視点の映像が映し出されてエンディングが流れる。エンディングが終わった後で、再び全く同じ本編が始まり中断される。凡庸な展開とその否定を何度も繰り返して終わるのだ(そしてそれさえも凡庸)。
緩和するつまらない、凡庸で個人的で美しい映像群とその逸脱と回帰のなかに、凡庸を超越した視座でのやはり凡庸な何もしていない日常生活の時間軸を表現した。それは、過去や凡庸の集合体そのものではなく、現在もまた過去の一部であり凡庸なのだという事実を映し出す外部にある鏡なのである。(????)
「The Drugpapa」はこの映像を再び聴きやすい音楽アルバムとして還元したものにしようと考えていた。
シベリアの狩猟民族ユカギール人は独特の方法で鹿狩りを行なう。鹿を狩るために鹿を模倣するのだ。鹿の毛皮で作ったコートを身につけ、鹿のように歩き、鹿を性的に誘惑して、鹿を一気に仕留める。ここで大事なことは、決して鹿になりきってはいけないということだ。なぜなら、鹿になりきって仕舞えばその狩猟者は鹿そのものになってしまい、人間には戻れなくなってしまうと言われているからだ。
動物と人間というデカルト的区別の絶対性から超越し、狩猟者でありながら鹿であるという不完全な模倣を行なうことで、ユカギール人の狩猟は遂行される。
これは僕が目指す凡庸を超越した視座(HyperpopやVaporwaveといった懐古主義音楽を楽しむときに我々が感じる感覚)にとてもに似ている。凡庸そのものと凡庸の模倣、あるいは凡庸を愛する感情と凡庸を忌み嫌う感情、それら不完全な間の中で、凡庸の超越が遂行されるのではないか。
凡庸の板に自ら囲い込まれ、その中からそれらを半壊させる。その時地面に落ちた凡庸の板を拾い上げ、壊れた瞬間に鳴ったであろう破裂音を思い、再現する。それが凡庸の側に立ちながらそれを超越する姿勢、そこから生まれる音楽であると思われる。
破裂音を再現するために、凡庸なブラスシンセサイザーや凡庸なリバーブの音色、それらをファズをかけディストーション(半壊)させるのだ。
Hyperpopとは凡庸の、その凡庸の快楽を受け入れた上で再構築する音楽であった気がする。だからフォーマットは元ネタであるポップスのフォーマットではなくヒップホップや即物的なフォーマットであった。しかし今や元ネタのフォーマットに戻りつつある。
そんなHyperpopが語られ始めた2021年に結成し(当時は認知していなかったが)同時代的な音楽をVaporwaveの視点から発展させたDRUGPAPAは、僕の加入と同時期に、もう既に大きく広がっていたHyperpopと青春パンク的な感性を謎のカタルシスで描き切った、代表曲である「LLLL」を発表し、そしてそれ前後を境に活動はライブを中心となっていた。そのライブでのHyperpopとスカム?を混ぜ合わせたパフォーマンスを70分近いシームレスなコンセプトアルバムに落とし込む作業が本作の最初のテーマであった。
浪人生として天上を一日中見つめる活動を中心として生活していた僕は、最初に語った「凡庸を超えつつ中からの叫び」+「Hyperpop」=「DRUGPAPAのライブでのパフォーマンス」(しかもそれは笑えるのだ)を半ば陰謀論的に接続することを勝手な目標に、僕はAudiostokerとシロメさんと共に本作を完成させ、無事第一志望校に不合格と言われてしまったのであった。
正直もう凡庸を超えることにすら飽きた僕はこの次に何をしたら良いのかわからない。と言いつつやはりやりたいことは少しばかりはある。しかしもうDRUGPAPAで僕がやることは無いような気がする。
昨日Audiostokerと一緒にカラオケに行った時、彼が完璧な歌詞でノリノリで「道産子ギャルはなまらめんこい」の主題歌「なまらめんこいギャル」を熱唱し始めた時、爆笑してしまった。というかその三日間ほぼ寝ずにずっと僕は彼と居て、彼の発する言葉や行動のほぼ全て(例えば一緒に銭湯に行ったら、右足から洗い始めたので、珍しいと言ったら「家の風呂では足は見えない構造になってるので、久々に見たらびっくりしちゃったので足から洗っちゃいました」と嘯きながら必死に右足を洗う、など)で爆笑していた。喉も枯れ切って笑い疲れて死にそうなのに。おそらく彼は凡庸を超えるとかそういうことは考えずやっているし、知らない人の個人的な動画とかゴミとかを本気で愛してるのだと思う。俺はほんとにそれを正しいと思う。
追記 2024.6.20
OMOIDE LABELとKAOMOZIのコラボコンピレーションアルバム「
KAOMOZI vs OMOIDE」に我々の新曲「VPN Elsagate」が収録された。本稿を書いてからこの楽曲を制作したので、とても整理された形で「凡庸を超越うんぬんかんぬん」が、楽曲の展開の中に立ち現れた。ぜひ聴いていただけたらありがたいです。
そしてこのコンピレーションアルバムの発表を記念した、VR ChatとTwitchの連動配信 "OMOIDE VS KAOMOZI" "KAOMOZI VS OMOIDE" release partyが、6月14日行われた。DRUGPAPAとして僕は先述の「映画 言葉本来が持つ不可逆性について」を、今年の難波Meleでのライブ映像を織り交ぜつつ、30分に再編集した。この映像もまた、整理された形で「凡庸を超越うんぬんかんぬん」が立ち現れたのだ。この映像は現在見ることはできないのだが、YZOXさんのサブ垢でのリアクションがとても嬉しかった(チャット欄のリアクションも楽しかった)。