ハイボールと昔の話
「どうして学校これてるか不思議なくらいだったよ。だって菌扱いだったし。いじめられてたよね」
1対1で割った濃いハイボールがだんだんまわってきた。ぐるぐるする。そんなときに唯一の友達くらいの立場にいる人に言われた言葉にドキッとする。そうだったんだ、とやっとじわじわ実感が湧いてくる。わたしはいじめられていたんだ。
昔の話をする機会があったとき、悪口を言われていたことをはっきり、しっかり思い出せないことがあった。どういう状況で何を言われたのか思い出せないことがあった。
だから、わたしが言われていたことや傷ついたように思っていたことは、もしかしたらわたしが勝手に作り上げた空想で、勝手に苦しんで傷ついてしんどかった思い出にしているだけなのかもしれないと思うようになっていた。
だからもうあまり学校生活の話は話さないようにしようと思っていた。
だって毎日学校行ってたし。修学旅行もそれなりに楽しんだし、なんだかんだ成績もそんなに悪くなかったし。生きてこれたし、成人式も行ったし。昔のことはどうこう言ってもどうにもならないし、わたしが勝手にまた傷つくだけなんて、そんなのつらすぎてたまらない。
でも本当はそうじゃなかった。
負けず嫌いで、悪口を言われていることに対して簡単にへこたれて負けたくなくて、心を無にして毎日耐えてただけだった。
相談したって味方になってくれなくて、自分の思い通りにならなければ手を出したり怒鳴り散らしたりする親が嫌いで家にいたくなかっただけだった。
できるだけ心を持たないようにして、苦しいことも楽しいことも全部できるだけ感じないように封じ込めて、毎日毎日糸を張りつめるようにして息をしていただけだった。
居場所なんてなかった。そうだったんだ、全部全部苦しんだことは事実だったんだ。
だからあっという間に崩れ去った。悪口を言われない環境になってそれに対しては何も苦しくないはずなのに、頑張る理由がどこにもなくなった自分はまた苦しくてどうしようもなかった。どう生きて、何がやりたくて、何のためで、誰のためかわからなくなった。わたしは何のために今まで何をしていたのかわからなくなった。限界だった。音が聞こえるように堕ちていく。気付いたら腕は傷だらけで、もう大人にも自分にも期待なんてしていない自分がいて、希望も夢もなにもかも明確さなんて適当で、適当が許せないくせにそんなことをしたから苦しくて毎日死にたくてたまらない自分がいた。自分のための目標も自分の将来もどうでもよくなっていた。
この事実をきちんと知ることができたのはつい最近のことだ。もう思い出すのもやめようと思っていた。お酒がなければこんな話は友達や知り合いにはできない。だって、もう一度言うけれど、昔のことはもうどうにもならないからだ。
人間はズキズキできるときにきちんとそのズキズキに心を痛めたほうがいいと思った。苦しいことからそのとき逃げても諦めても、あとから必ずと言っていいほどにそのズキズキに苦しめられることになる。そしてそれは何十倍にも何百倍にもなってしまう。痛いと思う気持ちをなくすまで、心を押し殺して頑張る必要はどこにもない。ズキズキはなくしちゃいけない、苦しいのはたまらないけれど、それを殺しちゃいけなくて、きちんと痛んだほうがいいんだと思う。
わたしは痛い気持ちを押し殺して、痛いと感じることをやめて、苦しいけど大丈夫だと言い切って毎日生きていた。傷だらけのはずなのに血はどこからも流れていないような体で生きてきてしまった。
だから、それが洪水のように今毎日流れ込んできている。毎日苦しんで、毎日血が出て、毎日痛くてたまらない。
苦しさはなくならない。悪口を言われた過去はなくならないし、真っ白なノートに戻せることは今もこれからも絶対にない。
言った本人やそう思っていたまわりは何もかも忘れている可能性だって高い。親になったり、仕事についたり、もっといえば教育関係者になっていたりするかもしれない。
許せない。許せるわけがない。許すつもりなんてこれっぽっちもない。「相手だって大人になったし、自分もまわりも子供だったんだよ」なんて友達に言われたけど、そうだとしてもわたしはまだ許せるほどの心を持てていない。大人になんてなれていない。
ハイボールは今、手元にない。
はっきりした頭でこの文章を書いている。
話をして、考えたことによって昔の自分を少し許すことができる気がした。昔の自分をきちんと自分自身で大事にしてあげることができる気がした。次があるとしたら、この話の続きをもっといいものにできるだろうか。
わたしの文章で何かできそうなことがあれば、全力で力になりたいと思っています。