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医者も人間だ:医療現場のカスハラ対策に想う
(最初にお断り)
「患者」を診ず「病気」しか診ない医者に対して「患者も人間だ」と不満を抱いている患者さんが少なくないことを私は十分に承知しています。
「医者も人間だ」というタイトルを見て「患者をろくに診てもいないくせに開き直っている」と不快に思われた方は、どうぞスルーしてください。
一医者のボヤキにお付き合いいただける方だけお読みください。
診療所でのとある昼休み。
相談員から「もずきち先生、Qさんって覚えておられますか。ちょっと相談があるんですが」と声をかけられた。
私はその名前を聞いて、思わず鳥肌が立つのを感じた。
忘れもしない、2年前まで私が訪問診療していた患者だ。
Qさんは独り暮らしの高齢女性。
有名な会社を定年まで勤めあげたそうだ。
年齢と共に持病で足が悪くなり、手術をきっかけに介護保険のサービスが必要となった。
入院中に高血圧であることも分かり、退院後も薬を飲み続ける必要があった。
ところが典型的な医者嫌いで、かかりつけ医がいない。
外を歩けないから、診療所に通院することもできない。
十分なサポートをできる家族もいない。
困ったケアマネジャーからの相談を受けて、私は月1回の訪問診療を開始し、歩行能力を上げるために訪問リハビリテーションを提案した。
最初はQさんも「リハビリして通院できるよう頑張ります」と診察に協力的で、リハビリも開始された。
しかし訪問を重ねるにつれてQさんは身体診察を拒否するようになり、血圧すら測らせてもらえなくなった。
それどころか、訪問診療の制度がおかしいと言い出した。
自分はどこも悪くないから、診察なんか必要ないという。
Qさんは血圧が高い上、訪問リハビリを受けていたからリハビリ管理のために3か月に一度医師の診察が必要だ。
しかし、血圧の薬も勝手に止めてしまった。
それなら外来を受診していただけますか、と提案し訪問診療を終了するが、結局来院できないから訪問診療の予定を組みなおす。
そんなやり取りが繰り返された。
本人に事前に訪問日を伝えても、当日玄関先で「他のサービスが今入っているから」と追い返されたことは一度ではない。
事前に確認していたのに、自分が忘れていたことを棚に上げて「あなたたちのスケジュール管理がなってない」と不当なクレームの電話が事務へ入る。
彼女の電話が故障して連絡できなかった件も、私たちのせいだと怒鳴られた。
どうにもこうにも、お手上げ状態だった。
Qさんはどうやら、ヘルパーや訪問マッサージだけを利用したいようだった。
ヘルパーを利用するためには介護保険が、訪問マッサージを医療保険で受けようと思えば医師の診断書が必要となる。
しかし彼女は「医療・介護制度がおかしい。そんな手続きは必要ない」と既にある制度を否定してかかるから、話が全然かみ合わない。
医療・介護保険制度の下で働く私たちに訴えても何か変わるわけでもないのに、制度への不満を延々話し続ける。
こちらの提案は全否定する。
医療に関しても偏見に満ちた独りよがりの持論を主張し、ビタミン剤など保険診療で認められていない薬を出すよう私に命令する。
私は応じられない要求は断りつつ、彼女の話を我慢しながら聞き続けた。
事実と異なる点は修正しようとした。
彼女は社会的に孤立している上、足が悪くて困っているだろうから、何か力になれることがないかと考えながら。
そんな私の気持ちをよそに、自分の望む通りに動かない私に対して彼女の言動はエスカレートしていく。
「どうせあなたは私のこと何も診てないから何も分からないでしょ」
(診させてくれないのはあなただと思うのですが…)
「受診が必要かどうかは自分で決めます。あなたは黙って必要な時に紹介状や書類を書けばいいのよ」
(はい、はい)
「あなたに質問してほしくないの。どうせ何も変わらないから」
(望む薬を出さないと、質問すらさせてくれないんですね)
「あなたが来る意味なんて無いわよね」
(だと思うなら、訪問診療を打ち切ってください)
次々に私の職業、仕事ぶりを否定する言動が飛んでくる。
まるで私を下僕のように威圧的に扱い続け、医師としての意見に耳を傾けることは無い。
私は心が傷つかないよう防戦一方だった。
彼女が何故こういう思考回路になるのか、私なりに一生懸命考えた。
心の大きな傷を隠そうとしているなら、心を開いてほしいと思った。
私の想定を超える彼女の言動に、認知機能の低下を疑ったり、精神科への相談を考えたりした。
しかし自己主張を繰り返し、固執した考えが修正できない彼女に対して解決策は見いだせないまま、時間だけが過ぎていった。
Qさんはリハビリの時も訓練せずおしゃべりばかり。
足がさらに弱っていき、自宅内の生活に支障が出だしていた。
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結局本人の希望でリハビリも訪問診療も打ち切られたのだが、2年後に介護保険の更新時期が来て、更新に必要な主治医意見書を書ける医師がいないと困ったケアマネが診療所の相談員に連絡してきたのだった。
(ケアマネやヘルパーも、本人の希望で何人も交代している)
ケアマネの話からすると彼女は身体機能がさらに低下していたが、相変わらずケアマネ達に対して高圧的なままのようだった。
最後に会って2年が経っていたが、私はQさんの名前を聞いただけで心拍が上がり、鳥肌が立った。
ドタキャンされたり、何時間にもわたって威圧的に一方的にまくし立てられ続けたQさんに対して私の身体が発した拒絶反応だった。
私は、私以外に彼女の病状を知る医師はいないと思いつつ「ごめんなさい、これまでに彼女から受けた言動のストレスが強すぎて‥。彼女が変わっていないなら、正常な医師-患者関係が築けそうにないからお断りしたい。別の医師への申し送りは必要ならします。」とケアマネに頭を下げた。
ケアマネも理解してくださった。
医療従事者は長年、患者からのハラスメントに耐えてきた。
暴力や性的嫌がらせといったセクハラやパワハラに対して対策が進む一方、理不尽な要求に対する対策は後手に回っていた。
医療現場は病にあふれ、死と隣り合わせ。
患者家族の期待に添えない結果に終わることもある。
突然の家族の死や病に戸惑い、怒りや悲しみをぶつけられるのが当たり前の状況で、どこまでが正常反応でどこからカスタマーハラスメント(カスハラ)になるのか判断がつきにくい。
厚労省が2022年に「カスタマーハラスメント対策マニュアル」を作成して以降、役所や医療機関でもカスハラ対策に大きく舵がきられることになる。
カスタマ-ハラスメントとは、顧客等からのクレーム・言動のうち、当該クレーム・要求の内容の妥当性に照らして、当該要求を実現するための手段・様態が社会通念上不相当なものであって、当該手段・様態により、労働者の就業関係が害されるもの
医師になってから25年。
私自身も酔っ払いからのセクハラはもちろんの事、今から思えば患者からの理不尽な要求は数多く受けてきた。
心が折れそうになったこともある。
まだ医師はましな方で、看護師やセラピスト、事務はもっと理不尽なハラスメントに苦しめられている。
理不尽なクレームを2時間以上受けて、メンタルダウンし休職した人もいる。
診療時間を過ぎてやってきて、診療しろと殴りかかる患者。
かかりつけでもないのに、夜中に自宅に来いという患者。
検査で陽性と示されているのに、検査結果が間違っているとキレる患者。
これまでに見聞きしたカスハラは、枚挙にいとまがない。
私の働く職場でも昨年カスハラ対策の指針が完成し、「ようやく、カスハラだと声をあげて良いんだ」とホッとしたことを覚えている。
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医者は患者の人生に寄り添い、患者の苦悩を聞き和らげる義務がある。
患者さんが時に感情的になることは重々承知しているし、受け入れる度量が必要なことも分かっている。
でも、医者も人間だ。
何でも許せるわけでない。
人間として、心が傷つくことだってある。
理不尽で長いクレームを聞くと、心は疲れる。
セクハラされたら、不快な気持ちになる。
暴力に対しては丸腰だ。
お互い傷つけず、相手を配慮し合うという大前提があって初めて、良好な医師-患者関係が生まれる。
医者だけでない。
看護師も、事務員も、セラピストも、ケアワーカーも、みんな人間だ。
医療機関に限らず、働いているのはみんな心を持つ人間だ。
お金を払えば何をしても、何を言っても良いわけではない。
「お客様は神様」ではない。
お客さんも働く人も同等だ。
お互いを尊重し、お礼が言いあえる関係を保つことができたら、もっと働きやすく、利用しやすくなるのにと思っている。
普段医師は職業柄、どちらかというとハラスメントする側になりがちだ。
今回のQさんの件で、ハラスメントされる側の気持ちがよく理解できた私。
これからも医師として謙虚に、患者さんたちに接していこうと心に誓った。