元旦から憂う:能登の追想
今年の元旦は、久しぶりに実家の京都で迎えた。
京都は曇天。時折雨が降るあいにくの天気で初日の出はお預け。
2日から仕事があるため、昼過ぎに実家を後にした。
15時台の東京行のぞみに乗車し、16時前に名古屋を通過する。
名古屋に住む友人にLINEで名古屋通過中であることを伝え、一息ついたその瞬間。
車内の乗客のスマホからあちこちで緊急地震速報のアラームが鳴り響いた。
え、もしかして南海トラフ?
まずい、太平洋が近いやん。
慌ててスマホを見ると、震源地は能登地方と告げている。
能登地方の地震で太平洋側も警戒って、相当大きいんじゃないか。
続けて大津波警報を確認した瞬間、バンと新幹線の電気が落ちる。
停電を告げるアナウンスと共に新幹線は減速。三河安城と豊橋の間に停車した。
車内は停電し、トイレや喫煙スペースを使わないよう繰り返しアナウンスが流れる。
停車後も余震なのか、時々揺れを感じる。
スマホですぐに地震の情報を確認しようとしたが、このまま数時間停電で列車に缶詰めだとしたら、バッテリーを無駄には使えない。
少し落ち着こう。
16時10分、能登で震度7の地震か。
約20年前に4年間北陸地方の病院で働き、仕事で、遊びで能登地方を訪れたことを思い返す。
病院で出会う患者さんは能登地方から来ることが多かった。
「海で遭難して死んでも、自分と分かるようにいれているんだよ。」
腕の入れ墨を見せながら話してくれた漁師さん。
たくさん採れたからと、肉厚で大きいしいたけを紙袋いっぱいに持ってきてくれた農家のおばあちゃん。あれ、おいしかったなあ。
今では「のとてまり」というブランドで売られているらしい。
週1回通っていた宝達志水町(旧:志雄町)の病院では、地域で専門医に求められていることを学んだ。
大雪の中、肝を冷やしながら行き返り車を運転したことを思い出す。
障がいを抱えた娘をひた隠すように生きていた家族や、遺伝性神経難病で悩むたくさんの家族にも出会った。
能登の方との様々な出会いが、医師である私を育ててくれた。
高校時代の友人が能登の実家に里帰り出産し、お邪魔したことがある。日本海を見たり、香箱ガニをお土産に貰ったりしたっけ。
千里浜なぎさドライブウェイの砂浜を車で走ったり、能登半島を1周したり。
中島町の「能登演劇堂」にも何度か足を運んだ。
仲代達矢さんの迫真の演技や、参加された町民の皆さんの笑顔が記憶に残っている。
能登の黒い屋根で統一された、綺麗な街並み。
地震でどれほどのダメージを受けたんだろう。
想像するだけで憂鬱になる。
そんなことを考えているうちに停電が回復し、30分遅れで東京に到着した。
東京は普段通り。北陸で被災し、寒さに凍える人を気遣う雰囲気はない。
何だか申し訳ない気持ちになる。
自宅に戻り、能登半島を中心に建物やライフラインに被害が出ていることをテレビで知る。
輪島での火災や、のと里山海道(旧:能登有料道路)が大きくダメージを受けている映像に、心が痛んだ。
能登半島を縦走し、能登地方と加賀地方を結ぶ唯一の高速道路がしばらく使えないとなると、しばらくは不便な生活を強いられるんだろうな。
積雪が無かったのが不幸中の幸いだったか。
寒空と余震に震える能登の人たちが体調を崩さないよう、祈るしかない。
旅行先で招き猫を見つけると購入してしまう私。
能登に遊びに行った時に購入した招き猫。作り手の方がとても優しかったことを覚えている。
「能登はやさしや土までも」
どうか、能登の皆さんが早く普段通りの生活に戻れますように。
地震で負った傷が癒え、街に活気が戻りますように。