故郷で起きたあの事件:孤立が生む狂気
今週始めに風邪をひいてしまった私。
ようやく頭痛、鼻水が引き、健康のありがたさが身に染みる。
ご飯を美味しく食べていた休日の朝。
テレビは、4年前に起きた「京都アニメーション放火事件」の京都地裁の判決のニュースで持ち切りだった。
社会的に孤立した一人の男性が起こした大事件。36人の大切な命が奪われた。
事件が起きた2019年7月18日も私は休日だった。
東京の自宅で事件の映像を見て、血の気が引く思いがした。
事件の凄惨さもそうだが、事件が起きた場所が中学に上がるまで通学中によく遊んでいたところだったからだ。
当時の私は私立の小学校へ、電車とバスで通学していた。
鉄道の最寄り駅からのバスが1時間に1本しかなく、同じくバスを待つ妹や友達と駅前の原っぱでシロツメグサを編んで冠を作ったり、カラスノエンドウをピーピー鳴らしたりして時間をつぶした。
原っぱはいつしか住宅街に変わり、京都アニメーションという会社がやってきたことを私は知らなかった。
故郷でこんな凄惨な事件が起きるなんて。
故郷がこんな形で注目されるなんて。
日々事件の全容が明らかとなり、亡くなった人の多さに心がとても痛んだ。
事件から2週間後に父の見舞いのため実家に帰った時に、まだ焦げ臭さが残る現場に立ち寄り、手を合わせたことを思い出す。
全身に大やけどを負った犯人に罪を償ってもらうために、彼が運ばれた大阪の病院の医師たちが健闘してくれると信じながら。
普段アニメとは無縁の生活を送っている私。
恥ずかしながら、事件後に初めて京都アニメーションの作品を見た。
アニメーターさんと同じ場所で青春を過ごした私。
彼らが描く絵に、私自身が通りすぎた青春の光景が瑞々しくよみがえった。
こんな素敵な作品を作る彼らがなぜ、憎悪のターゲットになってしまったのか。
さぞ無念だっただろう。
残された仲間の皆さんや、ご遺族の方々もさぞ悔しかっただろう。
今回事件を起こした男性は不幸な生い立ちで、なおかつ孤立していたと聞く。
家族の問題、本人の問題で社会から孤立した人たちは「自分の努力が報われないのは、他者のせいだ」と思考が暴走しがちとなる。
そして秋葉原や大阪・北新地の事件のように、狂気へと姿を変える。
「○○君、それは違うと思うよ」などと優しく諭してくれる友人や家族、サポーターがいたなら、このような事件は防ぐことができたのかもしれない。
日々診療していると、社会から孤立している人が少なくないことに気づく。
彼らを支援するのは容易ではないし、多くの人の力が必要だ。
生きづらさを抱える彼らを排除するのではなく、手を差し伸べる制度が整っていくことが今後求められているように思う。