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父の記憶②:「認知症の医者」から「空から見守る父」へ

私が生まれた時、既に38歳だった医師の父。
彼は本当に仕事が大好きで、関西の自宅兼診療所で働き詰めだった。
家族と過ごす時間は削られがちだったが、車の運転が好きだった父は忙しい中、私を塾や学校まで車で送り迎えしてくれた。
車の中で洋楽やサザンが流れ、音痴な父が調子っぱずれに口ずさんでいたことを覚えている。
私は高校生になった頃から友人との時間を優先し、学業が忙しくなった大学5回生で実家を出た。
以降実家には時々立ち寄る程度となり、父と過ごした時間は限られる。

私がお酒を飲める歳となり、両親はあちこち美味しいお店に連れて行ってくれた。
私が父と同じ医師となり、これからもっと父とお酒を酌み交わそうと考えていたある日、彼に異変が訪れる。

隣県に住む姉に子供が生まれ、孫に会おうと父が運転する車で姉の家に向かった時のことだ。父はまだ70歳前だった。
私は父の運転する車の助手席に乗り、いつも利用する高速道路に向かった。
当時はETCがまだメジャーでなく車にはETCが搭載されていなかったので、料金所でチケットを受け取る必要がある。
ところが彼は、ETCレーンをぶっちぎるかのようにアクセルを踏み込んだ。
「ちょ、ちょっと。そっちじゃないよ」
私は慌てて父を制する。
彼は急ブレーキを踏み、無言でニヤニヤ笑っていた。

結局ETCレーンに入らずに料金所でチケットをもらったのだけれど、私は運転席に座る父に違和感を覚えた。
何かおかしい。
父に何かが起きている。
神経内科を勉強中だった私。一抹の不安がよぎる。

予感は的中する。
当時北陸の病院に勤めていた私の携帯電話に母から電話が入る。
父が診療中の時間だ。
「(父が)何かわからない病気があるんだって。調べてあげてよ。」と、よく分からない内容だった。
診療所でそんな難しい病気でも見つけたのかしら、と考えつつ父に電話を替わってもらう。
「ああ…、サラセミアについてなんだけどな…、あれ、どこでどうなったんだっけ、サラセミアなんだけど…」
サラセミアに関して何か聞きたいようだったが、要領を得ない。

ちなみに、サラセミアとは血液の病気。
遺伝性疾患で日本人では稀とされている。
父はかつて血液内科に所属していたから病院では診たかもしれないが、診療所でサラセミアに出会う可能性は限りなく低い。

心細い声で話す父。
私は電話口で彼が認知症だと確信した。
「サラセミアのことだったら、今度実家に帰った時に資料を持って行くよ」
平常を装いつつそう言って、電話を切った。

父が認知症になった。
まだ70歳になったばかりなのに。
その事実は、まだ30代だった私を苦しめた。
知的で話が面白く、患者さんに優しかった父。
彼の人格がこれから壊れ失われていくという現実。
結婚し離れて暮らす私は、彼の傍にいることができない。
帰郷するたびに父の壊れっぷりを目の当たりにし、ため息交じりの母や姉たちの愚痴話を聞くことしかできなかった。
毎日介護してくれた母や姉妹には感謝しかない。

74歳になった父はある日、お風呂で居眠りし溺れて誤嚥性肺炎で入院した。
そこからあれよあれよと認知症が進み、76歳で診療所を後任の医師に託して仕事を完全に辞めた。
78歳の時、介護していた母が転倒し大怪我で入院したのを機に施設に入所した父。
私は帰郷する度に彼の大好きだったホットコーヒーを買い、施設に顔を出した。
おしゃべりだった父はじっと黙ったままで、コーヒーを飲みながら彼の横で過ごすゆったりとした時間が何だか新鮮だった。
忙しかった父と、こうやって何もせずに座って過ごすなんてあまり経験したことが無かったな。
始めは娘と認識してくれていた父は、そのうち目を閉じ反応も少なくなっていった。

2020年の晩秋、父は85歳でこの世を去った。
危篤と聞いた夜、翌日も東京で仕事があったので私は仕事を優先した。
仕事を休んで駆け付け彼の死に目に立ち会うより、私が東京で医師として働く方が父が喜んでくれると思ったから。
訃報を聞いたとき、彼が認知症だと確信した時と比べて辛くなかったことを覚えている。
私が父を失う辛さに苦しんだのは「彼がこの世を去った時」でなく、「認知症で彼の人格が失われていくと悟った時」だった。
父は10年以上、認知症と闘った。
彼の訃報に、私は東京の空を見上げ「お疲れさまでした」とつぶやいた。

コロナ禍でびくびくしながらの帰郷、ステイホームの東京から出るのは1年ぶり。
彼が信仰していた神道の神社の神主さんに葬儀をお願いし、家族だけで彼を見送った。
神葬祭のあと、神道では「人は空からこの世に舞い降り、空に帰っていくもの。これからは守り神として空から私たちを見守ってくれる」と考えるんだよと、神主さんが教えてくれた。

火葬された父の骨は、寝たきり期間が長かったせいかスカスカだった。
骨壺に収まりきらなかった骨は、大事に保管するなら持って帰って良いといわれ、私は父の上あごの骨をハンカチに包んで東京に持って帰ることにした。
両親の意向で、お墓は建てていない。

葬儀の後訪れた景色

今、父の骨は小さな骨壺に入れて、死産した子供の遺灰とともに独り暮らしの私の部屋に置いている。
毎朝手を合わせ、「私は医師として道を外れていないかな」と父に問いかける。
父が見守ってくれている安心感。
不思議なものだ。
父が生きていた頃は認知症でどんどん父らしさが失われ、「認知症になった医者」として遠い存在となっていた。
父がこの世からいなくなってしまった今の方が、「空から見守る父」の存在をより感じられるようになっている。
私の中の父は、幼い頃に遊んでくれた時の笑顔のままだ。

時々自宅から見上げる空

悲しいことや辛いことがあった時、寂しい時に私は空を見上げ、父に話しかける。
孤独な心がゆっくりと癒えていく。
パパ、私はまた一年、医師として頑張るね。
これからもどうか、空から見守っていて。

51年前の今日。
私は父と母の子として、この世に誕生した。
今日、私はまた一つ歳をとる。