見出し画像

「私を絞め殺してください」(短編小説)


[※この作品には暴力的な描写が含まれます]







 大学に行ってみたらゼミは休講だった。駅前まで歩いて、美容室に入る。ビルの二階にあるそのお店は外観がほとんどガラス張りになっていて、店に入ると外よりも明るい。床は木目風の加工がされ、挨拶をしてくれるスタッフさんはみんな大人っぽい服とメイクだった。シャンプーと湯気のにおいにちょっとめまいがする。

「カットですか?」
「はい、カットだけでお願いします」

 受付はそれだけで済んだ。髪に触れる。どのくらいにカットしてもらおうかな、とソファーに腰かけてファッション雑誌をめくっていると、担当らしき女性が来た。

「こ、こんに、ちは、本日担当させて頂きます栗宮です」

 二十七、八歳くらいだろうか。目の下に隈があるのを縁の太い眼鏡で隠しているのにすぐに気づいた。蒼白といっていいほどの顔色のなかで、黒々とした眼が左右へ惑うのが見えた。

「カットですよね。こちらへ……」

 と私を通そうとしたとき、髪を掃いていた三十代半ばくらいの美容師さんが笑いながら声をかけてきた。

「違うよ栗宮さん、そっち予約のお客様のお席!」
「あ、ご、ごめんなさい! すみません!」

 お姉さんはわかりやすく動転した。あたふたと店内を見渡し、ほかの店員さんたちが指さす席を見つめた。あっちあっち、とみんな苦笑いしていた。いつも通りの光景らしい。

「ごめんなさい、こちらです……」

 店の奥へ向けた左手の薬指に銀色の光を見つける。指輪だ。

「お姉さん、結婚されているんですか」

 なんとはなしにそう尋ねたが、

「あ、ええと、ええ、そうですね」

 返事はあいまいだった。椅子に座って高さを合わせ、クロスをかけてもらう。桃色のクロスは私の首にぴったりと添い、そこに違和感を残した。

「く、栗宮です。よろしくおねがいします。この雑誌、もしよかったらどうぞ……」

 栗宮さんが差し出してきたのは家電の雑誌だった。裏返してみると、男性向けらしい登山用品の広告が載っていた。ツッコミ待ちなのだろうか、と思い様子を観察していると、栗宮さんは台車を運び、せっせとカットの準備を進めていた。

「あの……お姉さん」
「あ、はい! なんですか?」
「できれば料理の本とか、ファッションの雑誌とかがいいんですけど」
「あ、ご、ごめんなさい!」
「ほかにないなら、これでも大丈夫ですよ?」
「栗宮さん! これ、これ!」

 私と同い年くらいのスタッフさんがファッション雑誌を持ってきてくれた。栗宮さんもそうだけれど、みんな清潔な装いをしている。私のような無難な着回しで生きている人間には想像もつかないくらいクローゼットに服があるのだろうな。

「よ、よろしく、おねがいします……ずいぶん、と、長い、ですね」
「小学校からずっと伸ばしてきたんです。腰くらいまであるんです」
「そ、そう、ですか……どんなふうに、しましょう」

 私は微笑んで言う。

「ばっさりやっちゃってください」
「ばっさり、という、のは」
「ショートカットにしたいんです」

 美容室に行きたくない理由のひとつである「続けづらい会話」を彼女はせず、ほとんど無言でカットした。栗宮さんは天然っぽい性格のひとだが、仕事となると集中するらしかった。前髪をざっくり切られるようなこともなく、カットは続いた。けれど、時々気になることがあった。栗宮さんから確かな視線を感じるのだ。私は雑誌に目を通すふりをしながら、お姉さんがどこを見ているのか探ろうとしたが、結局それはわからず仕舞いだった。

「お、終わりました。じゃあ、洗髪いたしますので、こちらに……」

 椅子をぐるりと回転させられ、店の奥へと体が向く。栗宮さんが案内した場所は、壁で仕切られた向こう側にあった。リクライニングのできる椅子とシャンプー台のセットが五つ並んでいたが、どれも使われていなかった。カットの空間とシャワーの空間が壁で仕切られているのは、リラックスのためだろうか。照明も落ち着いた色合いで、少し薄暗かった。いちばん奥の椅子に座らされ、徐々に背もたれが倒されていく。他人に自分の体を任せてしまうのは恐怖感とともに心地よさがあるな、と思った。

「お湯、熱くないですか」
「すんごい熱いです」

 頭皮が溶けるかと思った。

「あ、ごめ、ごめんなさい。このくらいでどうでしょう」
「大丈夫です」

 甘い香りが湯気に乗って鼻先に漂う。久しぶりに他人にしてもらうシャンプーは気持ちよかった。髪の間を流れていく栗宮さんの指は、想像していたよりも繊細だ。頭皮を浸す温かさと、耳元で聴こえるシャワーの音が階段を下るような眠気を誘う。顔に温かいタオルをかけられていると、余計に眠りが近づいてくる。

「終わりました……あの、お客様」

 うたた寝から醒めた。短い眠りだった。髪から水の滴る冷たさにだけ現実感がある。シャンプー台から立ち上る湯気の温かさ。顔に乗せたタオルのぬるさ。私はちょっといじわるなアイデアを思い付いた。このひとのよさそうなお姉さんに眠ったふりをしてみよう、と思ったのだ。

「あの……」

 恐々とした手つきで肩を叩かれる。

「あ、あの……お客様?……あの!」

 最後に掛けられた声はやや強いものだった。
 また、視線を感じる。今度ははっきりとわかる。
 首だ。
 今日はブラウスを着ていた。襟元のボタンをひとつ外していたから、そこはよく見えただろう。熱いものがそこに注がれる。たっぷりと時間をかけて濃縮したどろどろの廃液のような欲望。骨のような冷たさが喉元の皮膚に触れる。首に指の添う感触がする。直観で、このさきにあるのが死だとわかる。音が途絶える。栗宮さんの手指が私の首をわずかに絞める。まるで、プレゼントされた靴に初めて足を通したときのような気持ちだ。ぴったりのサイズ。栗宮さんの指は、私の首を絞めるのに適した形と大きさを備えていた。私はまだ反応しない。首を絞める手に、やや力がこもったが、それより先へは進まないようだった。

「ん……」

 私が息を吐くと、手は怯えるように感覚から消えた。

「すみません、寝てしまっていたみたいで」
「……い、いえ」
「髪、乾かさないといけませんよね」
「そ、そうですね、こちらへ、どうぞ」

 元の椅子へ戻るまでのあいだ、栗宮さんは何度も自分の両手の指を絡めた。ドライヤーをかけてもらうあいだ、私はずっとどきどきしていた。受付のお姉さんと栗宮さんが並んで見送ってくれた。すっかり軽くなった髪に満足しながら、私はすっきりした気分で冬の日差しのなかへ立った。

「あ。栗宮さん」
「はい」

 栗宮さんは、死刑を告げられでもするかのように青ざめた表情だった。

「また来ますね。よろしくおねがいします」
「あ、えっと、はい……」
「どうしました?」
「い、いえ、なんでもありません」

 よかったじゃん、と受付のお姉さんに肘でつつかれながら、栗宮さんは視線を足元にさまよわせた。あはは、と渇いた笑い。目が笑っていない。

「じゃあ、また」

 私は店を離れる。階段を下りて歩き、ショーウィンドウに映った自分を見る。
 見慣れない自分の姿がそこにあった。あんなに長かった髪が、もうそこにはない。白日に晒された首を見つめる。そこにあったはずの細いゆびさき。甘くて温かい死のにおいを思い出す。今ならどこまでも飛べる気がする。素晴らしい一日だ。死は私を浮遊させる。くだらない重力から解き放つ。私は家に帰る。とてもいい日だ。
 こんなにも早く、私を解放してくれる人に出会えるなんて。
 
 
 最初のカットから二日後、予約を入れるためにポイントカードに書かれた電話番号にかけた。電話口に出たのは栗宮さんだったが、声だけでは私のことはわからないようだった。

「明日の午後、髪を染めたいのですが空いていますか」
「あ、はい、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「萩生香織です」

 電話の向こうの空気が強張る。店内に流れる有線放送の音楽が漏れ聞こえる。耳を澄ますと、かすれた息遣いがわずかに伝わってきた。

「どうしました?」
「あ……すみません、萩生様ですね。先日はありがとうございました」
「空いてますか?」
「は、はい。空いている美容師がいるか、予約表を確認しますので、少々お待ち下さい」
「違いますよ」

 私は電話の向こうに手を伸ばす。

「お姉さんの予定を聞いているんです」
「えっ……私……あ、あの……」

 栗宮さんの声は跳ね上がった。

「午後はどこでも空いています……けど……」
「じゃあ、一時に行きますね」
「あ、はい……お待ちしてます」

 それからの私は、まるで誕生日プレゼントを待つ子供のようだった。
 当日は昼になっても重くどんよりとした色の雲が空からぶら下がって、今にも雨が降りそうだった。アパートのドアに鍵をかけ、かんかんと音を鳴らしながらステンレスの階段を下った。駐車場を通り過ぎ、舗道に出るとき、ふと首に触れた。死とは浮遊だ。そう唱えると、下腹から快感に似たなにかが這い上がってきた。
 大学に行くときと同じ電車に乗る。駅に到着するとき、あの美容室が見えた。本当にあるんだ、と思った。胸の奥のざわめきがひときわ強くなった。ガラスのドアを開けると、受付のお姉さんの後ろから栗宮さんが姿を見せた。

「こんにちは」

 口だけで笑みを作って見せた。

「こんにちは。お、お待ちしてました」
「栗宮さんにやっていただけるのですよね?」
「あ、ええ、はい」

 いちいち、あ、とか、え、が多い人だ。

「わ、私が担当させて頂きます。こちらに……」

 終わりのほうはごにょごにょ言っていてよくわからなかった。私は彼女の横から顔を出して、店内を見渡した。平日の昼過ぎにしてよかった、と内心胸をなでおろす。パーマをかけているお客さんと、カット後のマッサージをしてもらっているお客さんがひとりずつ。あとの椅子は埋まっていない。壁の向こうはどうだろうか、と伺いながら椅子に座る。

「では、今日は髪を染めるということですが……」
「あ、やっぱりそれなしで」

 鏡の中に映った白い顔に困惑の色が加わった。要件伺いのためにかがみこんでいたその顔は、私のすぐ斜め後ろにあった。

「え、ええと、髪を染めるのは、やめるということで、すか」
「はい」
「それでは、その、なにを」
「栗宮さんは、どうしたいですか」

 彼女の顔を振り仰ぐ。息のかかりそうな距離に唇がある。見上げると、とがった顎の形とつんと立った鼻先のラインのきれいさがよくわかった。眼鏡の縁を支えながら、その指は固まっている。

「わ、私ですか」
「ええ。あなたです」
「……私は」

 細く病弱そうな喉を唾のかたまりが通り過ぎた。眼の中になにかよどんだ色が混ざる。

「しても、いいんですよ」

 私は呪文のように囁く。

「栗宮さんのしたいこと」
「それ、は、どういう、意味ですか」

 息苦しそうに言葉を紡いだあとで、すっと肩の力が抜けた。

「……いいんですか」
「なにがです?」
「そ、その」

 私は頬を持ち上げて笑顔を作った。

「また、カットをしてくれませんか。やっぱり、もう少し短めがいいかなって。首が隠れているの、嫌で」
「そ、そうなんですか。わかりました」
「ええ」

 鏡に向き直る。栗宮さんは背筋を伸ばし、背の高い彼女の顔は鼻より上が鏡に映らなくなった。買ったばかりのフリーザーバックのジッパーみたいに、その口は引き締まっている。

「ま、マフラーに挟むと、髪型が崩れますし、痛みますよね。これからの、季節……静電気とか、も」

 たぶんいろんなお客さんのために用意したセリフなのだろう。それは言い慣れている感があったが、それでも途切れ途切れの言葉だった。

「そうですね。それに、『する』ときに邪魔ですからね」
「あ、あはは、それは、あの……そう、ですか」

 苦笑いしながらクロスを首に回す。かがんで首に触れるとき、彼女の目はずっと私のうなじに向いていた。マジックテープが止められ、ぴったりと閉じられる。私は視線がくすぐったくて笑いそうになる。胸の奥のざわめきがより強くなって、こそばゆかった。クロスの下でこぶしを握る。血が出るかと思うくらい、手のひらにネイルが食い込んだ。足の付け根もぎゅうっと締めた。そうやっていないと、皮膚の穴という穴から欲望が噴き出してしまいそうだった。カットは問題なく終わったが、背後からの眼が首筋に注がれるたびに声を漏らしそうになってしまい、音のない悲鳴を口の中で何度も殺した。

「……髪、を、洗います」

 栗宮さんはすっかり疲れ切ったように見えた。
 クロスが外される。導かれる前に私は壁の向こうへ歩いていった。店員さんがその陰から出てきて、次いでお客さんとすれ違う。リラックスした様子のその年配の女性は、笑顔で店員さんに話しかけていた。「本当、人にやってもらうのと自分でやるのとは、何が違うんですかね……自分で髪を洗っていても、ちっとも気持ちいいと思わないのに。やってもらうと、つい眠っちゃうんです」本当にそうだ。自分でやるのではだめだ。人にやってもらって初めて、快楽は現実になる。
 椅子はどれも使われていなかった。私は奥の席を選んで腰を下ろす。背中を預ける。頭を支える場所がないために、顎が思い切り上を向いた。私の喉元は薄暗い照明の下に晒された。口の中にたまった涎を飲み下す。唇が渇いている。ウォーマーのシリコンが剥がれる音。栗宮さんの顔が頭上に現れる。タオルをぱん、と広げて背後に回る。背もたれがゆっくりと倒され、首の皮が伸び切るのがわかった。タオルが額から載せられる。すぐに目が隠れ、白い視界のなかで目をつむった。もう目を開けることはないかもしれない。そう思うと緊張感でどうにかなってしまいそうだった。
 シャワーの激しい音。根本から毛先までぬるいお湯が流れていく。細い指がほぐすように髪を梳く。甘いにおいのシャンプーがお湯に溶け、上気して空気に混じる。頭のなかにぼうっとした感覚が生まれる。指。私の皮膚感覚がその動きを追い続ける。
 湯が止まった。髪を挟むようにタオルで拭かれる。それから、長い間があった。
 見下ろされている。呼吸の音がすぐ真上で聴こえる。わざとらしい咳き込み。私は反応しない。あの、という怯えたような声。終わりました、起きてください。もう、聴きなれた声になりつつある栗宮さんの震える声音。
 すっかり冷たくなったタオル。その重みがなくなる。つむったまぶたの裏に赤と白の明滅。顔を見られている。眠ったふりをする。死んでしまったかのように……ああこれはとても面白い。

「萩生さん……あの」

 もう少し、私の反応を待つのかと思った。
 濡れた手の感触が、私の首に。

「起きてますか。大丈夫ですか」

 言葉によどみがなくなった。

「……寝ているんですか」

 言葉とは裏腹に、指先に力がこもる。ああ、そうだ。これだ。これをしてほしかったんだ。もっと、もっと、と下腹部が絶叫する。止めないでください、もっともっと気持ちよくしてください。私を浮かび上がらせてください。終わることのない絶頂をください。

「……失礼します」

 圧が増した。私は恍惚する。これほどまでに、私の首の形を熟知した手の形があるだろうか。このひとのほかには、きっと見つからないだろう。私は、私のなかに束縛されていたものが解き放たれつつあるのを、首が絞まり、息が詰まるたびに確信した。栗宮さんの手と指で作られた輪の直径がじわじわと狭まっていく。もう呼吸はできない。体の末端から存在が消滅していく。足も手も棒のように動かない。頭に血が上る。瞼の裏でなにかがちかちかと光る。警告灯だ。回り続ける赤い回転灯。溺れかけの脳が危険を知らせている。息を吸いたくない。酸素なんていらない肺も凍えろ。血管のすべては流れを止めろ。私は浮遊するんだ。
 ふいに、私の首は自由になった。しばらく呼吸をせずに、浮遊しつつある感覚を味わう。肺を空気で満たすと、痺れていた頭に血が巡り、体の末端まで神経が戻り始めた。五感が冴えている。湯気のにおいが甘ったるく鼻をつく。床の上でこすれる靴の音がうるさいくらいだった。タオルが顔に戻される。私は白い視界を見つめながら言う。

「栗宮さん、今なにをしていたんですか」

 返事はない。私はタオルを取って台に置くと、身を起して彼女を見た。栗宮さんは私の足元に立ち尽くしていた。顔色が悪い。のんびりとドライブを楽しんでいたら、ふいに猫でも轢き殺してしまったみたいだ。

「首を……私の首を」

 私は自分で自分の首を絞めるふりをする。青ざめる彼女の顔を見つめながら。

「こうやって絞めて、殺そうとしたんですか」

 店内の有線放送から、知らないクラシックの音楽が流れだす。低音で構成されたその音の流れは私たちの間の低いところを這っていく。栗宮さんのジーンズに包まれた脚がわずかに震えている。

「私、あなたからなにか恨みを買いましたか。それとも、快楽殺人……とかいうやつですかね。殺す対象はどうでもいいとか」
「違います。そうではありません」

 顔を上げて、きっぱりと断った。正面から向き合うと、やっぱり美人さんだな、と場違いなことを思った。栗宮さんの震える唇が言葉を紡いだ。

「ごめんなさい。殺すつもりは、ありませんでした……」
「でも、首を絞めましたよね」
「それは……ごめんなさい。本当に、ごめん、なさい」

 私は唇をなめる。甘い味がした。恍惚に近づいている。彼女の目を見て尋ねる。

「どうして、私にあんなことをしたんですか」
「き、れい、だったから……きれいだったから」

 栗宮さんは、途切れ途切れにこう続けた。

「は、萩生さんの首が、とても綺麗だった、から……白くて、細くて、かよわくて……あなたみたいなひとの首をみると……もう、だ、だめなんです。そっと首に触れて、そのまま……ぎゅううううって力を入れたら、どうなるんだろう、どうなっちゃうんだろう……苦しむのかな、抵抗するのかな……でも上から押さえつけて、一気に絞めちゃったら、声も出ないかな……そのとき首はどんなふうに私の手の中で動くのかな……じっくりたっぷり時間をかけて絞めたいなって思って……もしかしたら今しかないのかもしれないって思ったら、自然と手が、あなたの首に……本当にやるつもりはありませんでした。ちょっと触ってみて、想像できれば、それで満足だったんです……本当です。殺そうだなんて、思ってませんでした。それなのに、つい、力が入ってしまった……んです。今まで、こんなこと、なかった、のに」

 私は椅子の上から動かずに話を聞いていた。腕組みをし、何度か頷いて見せた。話すことでいくらか落ち着いたらしい栗宮さんに言った。

「それじゃあだめです」
「……ど、どういう」

 座っているのがまどろこっしくなって、立ち上がる。私が迫ると、彼女は戸惑って退いた。フロアとこちらの空間を隔てる壁に背をつける。私は真正面に立って、栗宮さんのジーンズと下腹部のあいだに指を突っ込んだ。彼女の反応は一瞬遅れた。さっき首に触れていた細い指が私の腕に触れるときには、私はもうそこにたどり着き、予想していた感触を得ていた。指を引き抜く。

「やっぱり」

 笑んでしまうのを止められない。

「ねえ栗宮さん、どうしてこんなになっているんですか」
「……し、知りません」
「じゃあ言ってあげます。あなたは興奮していたんですよ。触りたいだけだった、殺そうとはしていなかった、だなんてとんだ詭弁ですよ。あなたはもっともっとその先のことをしたかったはずなんです。私が起きなかったら、きっとやっていたでしょうね。欲望のままに。私を殺すことを考えて、あなたは性的に興奮していた。ただそれだけなんですよ。私を殺すことで気持ち良くなっていたんです」
「許してください」

 栗宮さんは泣きそうに眼の周りを赤く膨らませていた。

「だめです」

 ああ、口元がほころんでしまう。

「あなたがやったことは殺人未遂です。このまま警察に行きますか。私の首には今、栗宮さんの指紋と掌紋がべったりとついていると思いますけど」
「なんでもします」

 栗宮さんはうつむく。涙の雫が彼女の白いスニーカーを濡らして灰色に汚した。

「なんでも?」
「なんでもします。許してください」
「じゃあ」

 眼球の奥が揺れた。本当にやるのか? 表層の裏に倒立する自分が問いかける。やる。栗宮さんに肉薄しながら私は応える。私はこの瞬間をずっと待っていたんだと思う。たぶん、生まれる前から。やるなら今しかない。

「殺させてください」

 ぅ。そんな喘ぎだった。私は目線の高さにある栗宮さんの喉に両手を伸ばし、壁に押し付けた。声が漏れないようにするために容赦はしなかった。二十歳の女が出せる力なんてたかが知れているけれど、それでも目いっぱい絞めた。死んだ兄から何事も全力でやれとよく言われていたことを思い出した。兄は優しかった。足を踏ん張る。腕の筋肉を総動員して、体重のすべてをかけて絞めた。見る見るうちに栗宮さんの人相が変わっていく。目を剥き、鼻孔も口も酸素も求めてだらしなく開き、整った歯列の隙間から濃い涎がだらだらとこぼれて私の頬に垂れた。私の手首を掴む手にはもう力が入っていない。栗宮さんになんの恨みもない。だけど絞めた。喉のふくらんだところを親指で押さえつける。私の指の形にへこんだ細い首は、幼稚園児がたわむれに潰した粘土のように歪んでいた。

「ぁ」

 落ちる。脱力を察知し、首から手を放す。栗宮さんは糸の切れた人形のように落下した。重力に負けて床にしりもちをつき、何度も激しく咳き込んだ。ほかの店員さんがこの咳を聞きつけてやってくるんじゃないかと思ったが、壁の向こうからは誰も現れなかった。私は栗宮さんの前に膝をついた。足腰に力が入らなくなっていた。

「どうでしたか」

 栗宮さんに向けて囁く。心臓の音がうるさい。

「興奮しましたか」
「……す、するわけ、ないでしょう」

 殺されかけたというのに、栗宮さんは敬語を崩さなかった。

「どうして、こんな、こと」
「私も、だめでした。少しも興奮しませんでしたよ」

 栗宮さんの目が見開かれて、縁から涙がこぼれそうになっていた。恐怖を湛えた眼だ。口元はまだ緩んでいる。そのすぐ下の首に、桃色の筋が浮かび始めている。たぶん、もう少ししたら私の手の形がはっきりとわかるようになるだろう。

「やっぱり、駄目なんですよ。栗宮さんはひとの首を絞めてみたいんです。できれば、殺してみたいんです。ここが大事です。そして私は、絞め殺されてみたいんです。浮遊したいんです。重力から解放される瞬間を永遠に味わいたいんです。それはひとりではできません。あなたのことが必要なんです」
「なにを……」
「栗宮さん、お願いです」

 彼女の手を取る。繊細で美しい。その手を私の首に持っていく。栗宮さんのよどんだ灰色の眼にわずかに光が生まれたことを私は見逃さなかった。

「私を絞め殺してください」






 深い紅色のゆびさきが喉にまわる。かさねられた親指のさきが頤(おとがい)の下にあてがわれる。薄い膜のような皮膚がつぶれて、気道が狭まっていくのがわかった。血の味のする咳をする。死ぬんだ。冷たい掌が首筋を支えてくれる。親指の腹が気管を圧して空気の流れを止めた。息ができない。人間の手指は、首を絞めるためにあるのだと恍惚する。私は死ぬんだ。栗宮さんの美容師らしい細く無駄のない指先には、白い死がこびりついている。それはひどく美しい。

「萩生さん……」

 栗宮さんの顔が目の前にある。力んだ両肩の間に、隈の目立つ顔があった。眼鏡の奥の両眼は濁りのない灰色をしている。さらりとひかれた眉の色は薄く、唇は冬の空気に触れてかさかさと渇いている。その唇が震えている。栗宮さんはこんなにもきれいだ。歯の隙間からこぼれた息がしゅるしゅると蛇のようにとぐろを巻く。

「は、ぎう、さん……」

 ごり、ごり。首に重ねられた指が頸動脈の手前にある筋肉の束をもてあそぶ。けれど感覚はどこか頭上にあって、すべての痛みが甲高い音のように感じられる。命を手放すとき、ひとはきっと耳だけになるのだろう。音に変換された刺激の奏でるでたらめな音楽に浸る。栗宮さんの長髪がほどけてその白い首筋に垂れ、顔を覆い隠す。

「どうして、そんなに、笑って、いるんですか」

 空気が勢いよく侵入してくる。肺が一瞬で満たされて、瞼の裏で大量のビッグバンが起きる。閃光。暗転。新鮮な酸素を血液が運んで全身に行き渡らせるまでの間に、数秒の虚血状態を味わう。畳の上に寝そべったままの私は、その数秒の間に死を直視する。目を開けようが光の見えない暗闇。これが死だ。ここから私の意識が根こそぎ失われたとき、死は完成する。鼻の奥に甘いにおいが漂う。頭が重い。血がまだ巡らない。
 栗宮さんは深緑色のセーターと紺のジーンズの姿で、私のそばにぺたりと座っている。肩を落とし、押しつぶすように片方のこぶしを片方の掌で包み込んでいた。私は深い呼吸を繰り返す。虚脱感が去っていく。頭上で奏でられた黄金の音楽が途絶えた今、聴こえるのは冬の夜を貫いていく在来線の音だけだ。
 私は投げ出したゆびさきを栗宮さんの怯える肩に持っていく。彼女は観念したようにジーンズのポケットに手を突っ込み、くしゃくしゃになったたばこを一本取り出した。

「ごめんなさい」

 栗宮さんはたばこを口に咥え、震える手で火をつけた。銀色の睫毛がライターの灯りに一瞬浮かび上がった。微量の煙を吐き出す。灰皿を取りに立ったとき、煙の白い尾が魂のように彼女の後に引き摺って伸びた。
 私は血が巡るのを待ちながら、天井を見上げる。駅に近いこの部屋は、栗宮さんの住まいだった。ふだん寝室として使っているという畳敷きの部屋に通されて、そこで初めての行為を行った。灯りをつけず、暗闇のなかで絞めてほしいと私は言った。彼女は玄関の外から引きずってきた冷たい空気をまとったゆびさきで、私の首に手をかけた。
 まだ頭が重い。期待しつつ立ち上がり、手探りで廊下を歩く。
 灯りのないキッチンに換気扇の音が悲鳴のように鳴っていた。栗宮さんは冷蔵庫を背もたれにしてしゃがみこんで、たばこを持つのと反対の手の甲を目に押し付けて泣いていた。

「どうしたんですか」

 私は張り裂けそうな気持ちで問いかけた。

「やっぱり……嫌になったんですか。私の首を絞めるのが」
「う、うれ、嬉しいんです」

 声は今までにないほど震えていた。

「こんな、こんな私、ずっとずっと、生きていていいのかって、思ってて。ずっと誰かの首を絞めたくて、そうやって生きてきた私が、今、あなたの首を……でも、私……やっぱり、殺せない……どうしよう」

 そんな、今更どうして、と焦って硬い手の甲を剥がして顔を覗き込むと、栗宮さんの表情は歪んでいた。笑っているのでも、泣いているのでもない。見えない手に顔の皮膚を捻じ曲げられてでもいるかのようだった。
 歯の隙間から押し出すみたいに、栗宮さんは言った。

「だって、だって……殺しちゃったら、もう……殺せない、から。萩生さんのこと、殺せない……殺せない殺せない殺せない」
「……栗宮さん」
「殺しちゃったら、もうあの気持ちのいい瞬間は、一生訪れない……でも、殺したい。殺したい、殺したい……あな、たを、殺したい。あなたの、そのきれいな首を絞め殺したい。私の指で殺したい」
「……あは」

 芯から体が震える。私は私の体を抱きしめる。ああ、やっぱりこのひとは素晴らしい。私の表情もぎちぎちと音を立てて歪んでいく。喜びが体を満たした。待ち望んだ幸福がここにある。ねえ栗宮さん、あなたは最高だ。あなたの手は私を殺すためにあるんだ。

「萩生さん……」

 ふいに落ち着いた声で、栗宮さんは言う。

「わ、私たちいま、お、同じことを、考えているんじゃありませんか」
「ええ、きっと」

 私は彼女の背中でうなずく。

「きっとそうですね」

 なんの前触れもなく、彼女の腕が伸びてきて、私の首を全力で握りつぶした。冷蔵庫の前に押し倒される。歪んだ表情の栗宮さんは私にまたがり、涎を口の端に滴らせた。さきほどとは比べものにならないくらい早く、意識が消失していくのがわかる。鼻の奥に甘い香りがした。冬のキッチンの床は冷たくて、その冷たさに意識が薄まって溶けていくのがこのうえなく恍惚だった。 
 旦那さんが出張だというから、その日は一晩中行為に耽った。首を絞められる。解放される。また首を絞める。解放。すばらしい死の連環だった。私は何度も死の浮遊を味わった。精神科の薬なんかよりも、よっぽど効き目がある。これをやったあとは、世界のすべてを愛することができる。重力。恍惚のなかで私は考える。ひとは生まれたときから、死ぬまで重力に縛り付けられる。地球から離れて宇宙の果てに飛んだって駄目だ。引力はすべての物質が所有する。私も、栗宮さんも等しく空間を歪ませている。それは弱々しい力だ。けれど力だ。その力から逃れる術はひとつしかない。死だ。死が私のすべてを浮遊させてくれる。死だけが救いなのだ。
 私たちはひとつになって無のなかを漂う肉塊だった。



 死の瞬間は恍惚に満ちている。
 大学になじめなくて、精神薬を過剰摂取した。向精神薬や抗うつ剤。お酒も追加。体は虚脱感に包まれているのに、意識は明瞭としている。はっきりとしすぎるくらいだ。頭の中に靄がかかってしまったように、思考も記憶もうまく働かないのに、なにかをしたいという欲だけはあふれている。
 日々これひとりぼっち。こんな暗い雰囲気の女に声をかけてくるひとなんていない。中学時代から伸ばし続けている髪はファッションとは程遠く、手入れもろくにしないから毛先が痛んでいる。鏡を見るたびに、気分が落ち込む。この長い髪さえなければと思うが、思い切って古い自分を捨て去ってしまうほどの度胸もないのだった。
 毎月受け取っている奨学金だって返すあてはない。たとえば就職したとして、それでどうなるのだろう。企業説明会に行けば、耳にするのは卑猥なことばかりだ。ある企業の採用担当は貼り付けたような笑顔でこう語った。「私たちはひとつの商品プロジェクトを成功させるために、いくつもの競争する商品開発グループを作るんです。最終的にひとつのグループの商品案だけ選び、あとは没にします。これ以上にないほどの効率的ですばらしい製作現場です」その会社はのちのち社員の過労死で問題になった。テレビで記者会見が中継された。報道陣の無責任な質問を受け止めていたのはどういうわけかその採用担当で、今度はわかりやすい反省の表情を貼り付けていた。
 合同説明会で人気のない会社のブースに入ってみれば、今度はむしろ素敵なことばかり聞かされる。「今はまだ派遣業務が主になっていますが、将来的には私たち独自のアプリ開発を進めていきます。萩生さんには、ぜひその仲間になってほしいんです」彼らは私の徹夜の成果である履歴書に一度も目を通さなかった。あとで調べてみたら、その会社は違法派遣で有名だった。派遣先で時間超過で働こうと、残業にはならない。派遣先の上司の仰るがまま、いくらでも超過勤務をさせられるという仕組みだ。どんな仕事でも与えればいい。そして、私がどれほどの苦しみに耐えられるかのテストをすればいい。ただし、結果はやらないでもわかる。こんな精神薄弱者、すぐに音を上げて逃げ出してしまうに決まっている。
 ある夜、お薬をキメまくってハイになった私は下宿を飛び出した。ああああああああああああああああああああああああああああああああとめちゃくちゃに声を出しながら自転車で坂道をとばし、当然のようにブレーキが間に合わず、通行止めの標識のポールにあたって宙を舞った。
 そのときのことはよく覚えている。私は目をつむっていたのだと思う。真っ暗だった。体はなににも縛られていない。浮遊感。飛んでいた。無限の跳躍。生きているうちには絶対に重力から解き放たれることはないと思っていたのに。素晴らしい空中遊泳だった。無限に引き延ばされた時間のなかで、無のなかを泳ぐ。この浮遊がずっと続けばいいと思った。掃きだめのような現実のすべてがいっぺんに遠のいて、そこにあるのは感覚だけだった。
 闇から抜け出したとき、点滴に見下ろされていた。救急車で担ぎ込まれたらしいその病院は、下宿さきからすぐの場所にあった。近所の人が救急車を呼んでくれたらしい。喜ばしいことに、私は手ぶらだった。身分証を持っていなかったから、片親である母に連絡がいくことはなかった。精密検査をしても特に異常はなし。
 翌日の午後には大学のゼミに出席していた。
 ゼミ室には誰もいなかった。教授はいつも遅刻してくる。ほかのゼミ生はたぶん来ない。みんないろいろな理由で忙しいのだ。バイトとか、遊びとか。私はノートを広げ、教授が名前も知らないような出版社から出したテキストをその隣に置く。ペンケースを開き、0.7ミリのボールペンを持つ。いつでも講義は始められる。そこに誰かがいれば、の話だが。
 私は誰も来ないゼミ室で思った。みんなはどこに行ってしまったのだろう? 私は昨晩、宙を飛んだ。「人と話すとき、言葉がうまく出ないんです。自分は変なんじゃないでしょうか? そんなことを思っていると、すごく、苦しくて」相談に行った精神科のクリニックの医師は、黄色い紙に書かれた質問をすべて解けと言った。結果を流し見て、私の精神が薄弱だと言った。それから一通り精神疾患についての蘊蓄を並べたあとで、薬を飲めば大丈夫だと笑顔を貼り付けた。私はその通りにしたのだ。大量にもらったお薬とお酒で気持ち良くなった。そうして、死ぬ一歩手前までいった。
 そんな私がこうしてゼミに出席しているというのに、ほかのみんなはここにはいない。


〈死とは浮遊だ。〉


 たわむれにそうノートに書いてみると、昨夜の出来事を……空中遊泳を思い出した。浮遊感が想起され、恍惚が襲ってきた。あんなにも心地よい瞬間が今までにあっただろうか。死とはもっと重いものだと思っていたのに。
 顔を上げると、ゼミ室の備品が窓からの薄緑色の光で輝いていた。椅子の背もたれの金具やテーブルに光は映える。それはきっと、私がいてもいなくても続いていく光だった。死とは、もっともっと軽いものなのだ。私は啓示をノートに記述した。


〈くだらない重力を逃れ、永遠に浮遊するための死。〉
〈もう一度浮遊が必要だ。〉
〈浮遊を授けてくれる他の介在が必要だ。〉
〈もう一度浮遊したい。〉


 教授もゼミのみんなも、結局その日は来なかった。理由は知らない。死が軽いものである以上、そのほかのものはより軽い理由でできているに違いない。私は講義の時間が過ぎるとゼミ室を出て、廊下を歩き、階段を下った。ドアをくぐって外に出ると、首元を冷たい風が過ぎていった。
 そして、私は髪を切ろうと思った。




 栗宮さんとの行為を始めてから一ヶ月が経った。私の生活は変わった。栗宮さんの部屋での儀式を思うといつでも気分は晴れやかになった。いちばんの変化は、薬を止められたことだった。クリニックになんて行く必要はない。ただ精神薬を処方してひとの脳みそをおかしくするあんな場所、なくなっちゃえばいいのに。
 栗宮さんにも同じような変化があった。
 行為の前に喫茶店に入った。彼女はシナモンティーを頼み、私はオレンジジュースを注文した。飲み物が運ばれてくるまでのあいだ、栗宮さんは水を口に含み、それを飲み下すことを繰り返した。そして、あるときふと思い出したように口を開いた。

「今朝、主人に言い返してみたんです。卵焼きの味付けが甘くないっていうから、そんなに自分好みが食べたいんなら、自分で作ってくださいって」
「それで?」
「ふざけるなって。働いて稼いでるのは俺だっていうから、いつだってあなたの料理を作っているのは私だって言ってあげました。あなたより早く起きて朝食を作っているのは私だし、遅くまで起きて家事をしているのは、私だって」

 その表情には、どこか憑き物が剥がれたような清々しさがあった。

「やるぅ」

 私はテーブルに両腕を載せる。

「あのひと、びっくりしちゃったのか、そのまま出勤していきました」
「あははは」

 栗宮さんは微笑んで言った。

「つい最近まで、朝早く目覚めて、夜遅くに寝る私の生活が嫌いでした。彼の奴隷みたいで。でも、あの人の寝ている間に、私はいつだってこの両手が自由なんだって気付いたら、なんだか私、前よりも自由になれた気がします。いつだって私はあの人の首を絞めることができるんです」

 周囲の客が聞いたら目を丸くするだろう。でも、私には彼女の変化が美しかった。栗宮さんの手のひらは、どんどん私の首を覚えていく。私の喉のどの部分を圧すればすぐに気持ちよく窒息させられるのか、嬉々として語る言葉はどれもやわらかくてあたたかい。

「ねえ、今日もあのひと帰ってこないんです。泊まっていきませんか」
「いいですね」

 私はオレンジジュースを飲み干した。朝から何も食べていなかったからだろう。その爽やかで酸味のきいた液体は私の喉の形を鮮明に切り取り、冷たく通り過ぎていった。窓の外では街路樹の枯葉が風にもてあそばれていた。道を往く人々は皆、寒そうに肩を竦めている。マフラーで首を絞めてもらうっていうのもいいな。そう思っていると、

「マフラーで絞めるのも、いいかもしれませんね」

 私は笑ってしまった。その笑いは店内に明るく響いたと思う。

「どうしたんですか」
「だって、栗宮さん、私と同じこと考えているんですもん」

 私の説明を聞いて、栗宮さんも声を上げて笑いだす。いつもは見せない白い歯列がむき出しになる。私は苦しくなるくらい笑った。息ができない。横隔膜が引き攣りを起こすんじゃないかと思った。テーブルの上の紅茶が倒れそうになる。どこかでグラスの割れる音がする。

 私たちの甲高い笑い声は店内の落ち着いた空気に高らかに響き渡って、栗宮さんの笑顔はとってもかわいくて素敵で、これから死ぬっていうのに、生きているということはこんなにも愉快だった。 


  


いいなと思ったら応援しよう!