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『百年の孤独』を読み解くために③マコンド暦の考察と"孤独の百年"について


今回は『百年の孤独』のマコンドの歴史(マコンド暦)について書いていきます。かなり長くなるうえに煩瑣な部分が多いのですが、できるだけわかりやすく書こうと思いますので、お付き合いいただけると幸いです。

元とした本は新潮文庫版『百年の孤独』(鼓直訳)です。引用時のページ数・行数(P.L.)もこちらに準じています。




Ⅰ.マコンド暦を考える


本題に入る前に『百年の孤独』という日本語訳の題名について確認しておきますと、原題は"Cien Años de Soledad"で直訳では”孤独の百年”となります。

一読すると大きな違いはなく、あえて『百年の孤独』と訳した鼓直さんの感性に目を瞠るばかりですが、この物語を読む上ではひとつのミスリードに繋がるのではないかと思います。

『百年の孤独』の物語は100年では終わりません。最初(マコンド開拓)から最後(マコンド滅亡)までの年数を数えるとだいたい125~130年くらいになります(どうやって推測したのかは後ほど提示します)。

ではなにが『百年』なのかというと、原題の通り、ブエンディア家の血に宿命的に取り憑いた「孤独」の始まりから終わりまでが100年なのです。

前置きが長くなりましたが、まずはマコンド開拓~マコンド滅亡までの時間がなぜ約130年と推測できるのかを見ていきます。


〇マコンド暦を導くために


この物語はマコンド年代史とも呼べそうなほどにマコンドという町の開拓から滅亡までのできごとがこと細かに描かれていますが、年代史と呼ぶためにはひとつの重要な要素がぼかされています。

それは具体的な年数です。
「この事件はマコンド開拓から何年目のできごとだった」というようなわかりやすい年数の示し方はされません

これは作者がマコンドで起こることを「時間」ではなく、堂々巡りする宿命的な「場」に注目して捉えて欲しいからなのでしょう。

しかしそれはそれとして、年数がわからないのでは歴史の概観も把握できません。どうやってマコンドの歴史を見ていけばいいのでしょうか。

ここでヒントになるのが、できごと登場人物の年齢です。
ある事件が起きたとき、登場人物が何歳だったのか――このふたつが組み合わされば、年数をある程度は推測することができます。

まずは、この物語――『百年の孤独』が100年ではなく130年のできごとだと推測できる理由について、ある人物の年齢をもとに推測していきます。

〇ピラル・テルネラの年齢


マコンドの歴史を鳥瞰する上で大きな助けとなるのがピラル・テルネラという女性です。彼女はマコンドの興亡を見守るために配置されたかのような存在で、たいへんな長寿として描かれています。また、作中で最も年齢への言及が多く、マコンドの歴史を考える上で非常に有難い人物になります。

以下に、彼女の年齢がわかる描写を引用として挙げていきます。(以下引用はすべて新潮文庫版で、太字と(  )内は記事作成者によるものです)

まず、物語の序盤――マコンド開拓時の年齢がわかる箇所をみてみましょう。

女の名前はピラル・テルネラといった。十四歳の彼女を犯して二十二まで愛しながら、よそ者であるために、最後までその関係を大っぴらにしなかった男から無理やり引き離そうとする家族に連れられて、彼女もマコンドの建設で終わったあの(2年4か月の)流浪の旅に加わったのだ。

P.48 L.16~P.49 L.3

次に、物語の終盤――マコンド滅亡時の年齢がわかる箇所です。この1~2年後にアウレリャノ(ぶたのしっぽ)が生まれ、マコンドは滅亡します。

老婆は、実はピラル・テルネラだった。数年前に百四十五歳に達したときから、彼女は年を数えるという、やくたいもないことはやめていた。

P.593 L.12~13

マコンド開拓時(0年)でピラル・テルネラは24~25歳
マコンド滅亡時は「数年前に145歳」なので150~155歳くらいでしょう。

つまり、マコンドの開拓から滅亡までには約130年の歳月が横たわっているということがわかります(これにはもうひとつメルキアデスの予言が裏付けになるのですが、必要な前提が多すぎるので、後半で述べたいと思います)。

これでマコンドの歴史を0年(開拓)~130年(滅亡)と把握することができました。

しかし、これだけではマコンドの存在していた130年という期間がわかるだけで、その中身について触れることができません。私たちが気になるのは、130年間という長大な歴史の年表です。だいたいの年数にどんなことがあったのか、その歴史の細部を見ていく必要があります。

そこで、今度はこの130年をマコンド暦として、歴史を5つの時代に区分していきたいと思います。


Ⅱ.マコンド暦を5つの時代に区分する


〇衰退と滅亡の15年

以前の記事でも書きましたが、この記事の作成者は、マコンドの歴史を以下の通り5つの時代に区分しました。

 ①平穏な時代         (マコンド開拓 父ホセの時代)
 ②戦火の時代         (内戦勃発 大佐の時代)
 ③(幕間)奇跡の好景気の時代   (マコンドの繁栄 鉄道開設)
 ④プランテーション時代         (バナナ農園 セグンド兄弟の時代)
 ⑤衰退と滅亡         (長雨と旱魃 バビロニアの時代)

いちばん簡単に年数を確定できるのが⑤衰退と滅亡です。これらははっきりと「四年十一ヶ月二日の長雨」「十年の旱魃」があったと書かれていますので、⑤の時代は歴史の終端から逆に数えて、おわりの約15年となります。(ぜんぶこのくらいはっきりと書かれていたらいいのに

 ①平穏な時代
 ②戦火の時代
 ③(幕間)奇跡の好景気の時代
 ④プランテーション時代
 ⑤衰退と滅亡(115~130年)

では、残りの①~④までの約115年間をみていきましょう。


〇内戦はいつ始まったのか?


①の平穏な時代の始まりを0年とするとその終わりは②戦火の時代の始まりになりますが、やはりここでも明確な年数は記されていません。そこで、内戦が勃発したときのアウレリャノ・ブエンディア大佐の年齢を見ていくことで開戦の年数を推測していきます。

ここからは大佐の年齢についての情報を引用しながら考えていきます。

戦争中のおよそ二十年間に、アウレリャノ・ブエンディア大佐は何度もわが家に帰ったが(後略)

P.268 L.7

まず、②戦火の時代が20年間だったことが上の引用からわかります。では、この20年間はマコンドの歴史の何年目から始まったのでしょうか。

戦争開始時のアウレリャノ大佐の年齢を考えてみましょう。そもそも、アウレリャノ大佐はマコンド暦何年の生まれなのでしょうか。

ふたりの子供のうち、年上のホセ・アルカディオはすでに十四歳になっていた。(中略)一方、マコンドで誕生した最初の人間であるアウレリャノは、この三月で六歳になろうとしていた。

P.29 L.2~8

引用から、アウレリャノ大佐は兄ホセ・アルカディオの8歳年下に設定されていることがわかります。兄ホセはマコンド開拓前の旅のなかで生まれています(P.42 L.7)。2年4か月の旅のちょうどまんなか、1年2か月で生まれているので、時系列で考えるとマコンド開拓前の−1年のできごとといえます。

つまり、マコンド開拓(0年)では兄ホセが1歳であり、その8年後にアウレリャノ大佐が生まれたとすると、大佐の出生年はマコンド暦7年です(↓のほうに年表があるのでご参照ください)。

さらにここにパズルのピースを付け加えます。戦争が始まった時点でアウレリャノ大佐が何歳であるかが分かれば、開戦の年が推定でき、②戦火の時代が何年から始まるのかがわかります。

開戦の年には保守党と自由党の選挙があります。
これを見ていきましょう。

保守党の候補者の名前が書かれた青い投票用紙と、自由党の候補者の名前が書かれた赤い投票用紙を、二十一歳以上の男子に配布した。

P.154 L.1~2

彼(アウレリャノ大佐)が舅の指示どおりに青票を投じたこともわかっていた。

P.157 L.9~10

このふたつの記述はとても示唆に富んでいます。

投票可能な年齢は21歳以上であり、アポリナル・モスコテの指示でアウレリャノ大佐は保守党に投票しています。投票権をもっていることから、開戦時点でのアウレリャノ大佐の年齢は21歳以上になります。

しかし、これでは21歳未満ではないことがわかっただけです。もしかするともっと上の可能性もあります。 

そこで、最後のヒントを見てみましょう。
以下は戦火の時代の終盤、アウレリャノ大佐が停戦協定のためにマコンドに帰還した場面からの引用です。

(アウレリャノ大佐は)四十年近い歳月がたってやっと、素朴な生活の良さというものを思い知らされている。

P.266 L.13~14

さらに協定調印に向けて雑務をこなすなかで時間が進みます。

彼はこの二年のうちにすでに人生の終わりの日々を、老後のそれさえ生き尽くしていた。

P.270 L.6~7

2年の経過が示されます。このことから、ネールランディア協定調停の際、アウレリャノ大佐の年齢は40~42歳くらいと推測されます。

情報を整理してみましょう。

①アウレリャノ大佐はマコンド暦7年の生まれ
②戦争の始まる選挙の年に大佐は21歳以上
③戦争の期間は20年間
④終戦時点でアウレリャノ大佐の年齢は42歳くらい

戦争終了時の大佐の年齢を仮に42歳とすると、戦争の始まった20年前は22歳になり、②の情報とも一致します。

大佐はマコンド暦7年の生まれなので、年齢に7年を足して暦を見てみると、マコンドに戦火が訪れたのはマコンド暦でおよそ30年のできごとになります。(以下、マコンド暦を指定するときには「およそ」がつくと思っていただけると幸いです)

さらに、戦争の期間が20年間続いたという記述の通りに考えると、終戦の年はマコンド暦50年です。

このことから、ふたつの時代が定義できました。

 ①平穏な時代(0~30年)
 ②戦火の時代(30~50年)
 ③(幕間)奇跡の好景気の時代(50~???年)
 ④プランテーション時代(???~115年)
 ⑤衰退と滅亡(115~130年)

ここまでのまとめとして、以下のように年表を作ってみました。


年数・年齢はおよその数字です。


〇バナナ農園はいつできたのか?

次は年表の途中に横たわる終戦から長雨まで(50年~115年)の65年間です。幕間の時代はいつ終わり、プランテーション時代はいつ始まったのでしょうか?

せめて終戦の何年後にバナナ会社が進出したのか、バナナ会社は何年間マコンドにいたのか(撤退は長雨の始まった年P.468)などの記述が本文中にあればよいのですが特にこれといった描写はありません。

バナナ農園の建設された時期が不明であるため、ここからは幕間の時代の始まりから終わりまでのできごとをひとつずつ順序だてて並べていき、最後にバナナ農園の建設された年数を特定する、という地道な作業を行っていきます。

少し長い旅になりますが、お付き合いいただけると幸いです。

先に年表をお見せすると、このようになりました。
こちらを参照しながらお読みいただけるとわかりやすいかもしれません。

幕間の時代の年数を特定するうえで重要なヒントになるのが、小町娘のレメディオスの年齢です。
まず、大佐と同じように彼女の生年を見てみましょう。

彼女の父親であるホセ・アルカディオ(法王見習い)は大佐の武装蜂起(30年の12月)直後から翌年(31年の11月)を独裁者としてふるまい、銃殺されます。(※12月に武装蜂起していることはP160 L.6から推測)

支配者の地位にあった十一ヵ月のあいだに、アルカディオが税金だけでなく、ホセ・アルカディオの地所に死人を埋葬する料金として町の人びとから取り立てたものまで着服していたことが判明した。

P.181 L.4~6

この時点ですでに内縁の妻であるソフィアとの間に小町娘のレメディオスが生まれています。

ウルスラはそのとき初めて、彼には六カ月になる娘がいること、また、正式に結婚しないで同棲しているサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダが二度目の妊娠中であることを知った。

P.182 L.1~3

このことから、31年を小町娘のレメディオスの生年とします。

次に小町娘のレメディオスの年齢がはっきりとわかる描写は戦後の場面にあります。

(小町娘のレメディオスは)二十歳になっても読み書きができず、食卓でもナイフやフォークを使わなかった。

P309 L.12~13

そして、この二十歳のとき(51年)にカーニバルが開催されます。

レメディオス・ブエンディアが祭りの女王にきまったというニュースは、数時間のうちに低地の向こうまでひろまった。

P.311 L.5~6

さらに、このカーニバルのきっかけになるアルカディオ・セグンドの川の開拓はカーニバルの3日前なので、こちらも51年のできごとです。

(筏でやってきた)女たちはみずから音頭をとって血なまぐさいカーニバルを催し、三日のあいだマコンドをらんちき騒ぎに巻きこんだ。あとあとまで尾を引くその結果はただひとつ、そこでアウレリャノ・セグンドがフェルナンダ・デル=カルピオと知り合ったことだった。

P.306 L.7~9

このことから、小町娘のレメディオスが20歳の年(51年)に川の開拓とカーニバルがあったことがわかります。なぜここまで51年という年にこだわっているのかというと、この年から順々に事実を積み重ねていくと、バナナ農園の建設された年数がはっきりするからです。

このカーニバルの起こった51年に、アウレリャノ・セグンドとフェルナンダが出会い(上記引用参照)結婚、その1年後(52年)に長男ホセ・アルカディオ(法王見習い)が生まれます。

夫が長男に曾祖父の名前をつけると決めたときには、この屋敷へ来てまだ一年だったので、彼女(フェルナンダ)も反対する勇気がなかった。

P.330 L.13~14

長女レナータ・レメディオス(メメ)が生まれた年は、この翌年(53年)あたりではないかと以下の記述から推測されます。

十回目のクリスマスを迎えて、幼いホセ・アルカディオが神学校へ出かける用意をしていたときである。

P.332 L.9~10

ある木曜日の午後、ホセ・アルカディオは神学校へ発った。(中略)(法王ホセ出立の)三ヵ月後に、アウレリャノ・セグントとフェルナンダの二人はメメを学校に連れてゆき(後略)

P.387 L.9~P.388 L.6 

フェルナンダの厳格なしつけとアマランタの悲嘆の板ばさみの状態にある妹のメメも、ほとんど同じころに、後に彼女をクラビコードの名手に仕立てあげる、尼僧たちの学校へ移る年齢に達していた。

P.377 L3~5

(帰省したメメは)十二歳の、十四歳の、アマランタそっくりだった。

P.398 L.7~8

アルカディオ・ホセ(法王見習い)が10歳で入学し、メメも同時期に尼僧の学校へ送り込まれています。また、本文中で示されているのですが、メメは在学中には毎年長期休暇で帰省しており、計4回帰省している描写が読み取れるため、学校は4年制と考えられます。そして帰省時の描写として、上記のように12~14歳の見た目をしているということは、あいだをとって卒業時13歳として、そこから4年を引いて入学時は9歳くらい、兄の出生の一年後であるマコンド暦53年に生まれたと考るのが妥当だと思います。

メメの誕生年を知ることは、非常に重要になってきます。なぜなら、メメ誕生の53年の10月に、以下のことがあるのです。

女の子が生まれて間もなく、あらためてネールランディア停戦協定の締結を記念するために、アウレリャノ・ブエンディア大佐の表彰式をとり行うという、思いがけない政府の発表があった。

P.333 L.5~7

ネールランディア停戦協定は終戦の年の10月に結ばれましたので、10月のできごとで間違いないと思われます。

そしてこの53年10月の表彰式(大佐は不参加)の直後に、バナナ農園開設に関する重要な人物が訪れます。

アウレリャノ・ブエンディア大佐が掛け金をはずすと、いろんな格好をした十七人の男が戸口に立っていた。

P.335 L11~12

この後、17人のひとりであるアウレリャノ・トリステがマコンドに残り、数か月が経過(P.338 L.10)。翌54年の2月にふたたび残りの16人も集まり(P.342 L.10)、アウレリャノ・センテノが氷工場を発展させます(P.344 L.1~2)。

氷の生産量が増えたことで低地の外へも取引を広げる必要性を感じたトリステは「何がなんでも鉄道を引かなきゃいかん」と決意(P.〃 L.6)し、雨季の終わるころに帰ってこられるように出発します(P.345 L.1)。

舞台であるマコンド、ひいてはコロンビアの雨季は2~4月と10~11月だそうです。この鉄道構想の時点では2月なので、ここでの雨季は前者を指し、その終わりとは4月の終わりごろ――約2か月後のことを指すと思われます。

しかし、実際に帰還したのは予定よりも先でした。

機関車の上で手を振っているアウレリャノ・トリステの姿が見えた。そして、予定より八ヵ月も遅れてやっとこの町へ到着した花いっぱいの汽車が、夢中になっている連中の目にとび込んだ。

P.346 L.1~3

整理すると、こうなります。

トリステがマコンドに帰還する予定の2か月と遅れたぶんの8か月を足して、実際に帰ってきたのは10か月後

バナナ農園の開設をもたらすきっかけとなった鉄道開通はマコンド暦54年12月のできごとになります。

最後に、バナナ会社進出が鉄道開通からどれくらい先のできごとなのかを見ていきましょう。

そのヒントとしてこんなことが書かれています。

そして、鉄道が本式に開通して、水曜日の十一時に正確に列車が到着しはじめ、机や電話や出札口のある木造の粗末な駅舎が建てられたころ(中略)ミスター・ハーバードという者がマコンドへやって来て、屋敷で昼食をとった。

P.349 L.6~16

このミスター・ハーバードというアメリカ人がバナナを食し、本国のジャック・ブラウンというバナナ会社の社長に連絡を取ります。

それからの数日、網と虫籠をかかえて、町はずれで蝶を追っかけ回している彼の姿が見られた。そして水曜日に、土木技師や農業技師、水文学者や地形学者、それに測量技師などの一団が到着し、ミスター・ハーバードが蝶を追っていた場所を数週間にわたって調査した。さらにジャック・ブラウン氏が、黄色い列車の最後尾に連結された、銀の内装、豪華なビロードの座席、青いガラスの屋根、という特別車で町へ乗りこんできた

P.351 L.4~9

マコンドの疑りぶかい住民たちが、いったい何が始まるのだとあわて出したころには、すでに町は、座席やデッキだけでなく客車の屋根の上にまで乗って、各地から汽車で押しかけた連中が住みついた、トタン屋根の木造家屋が立ちならぶキャンプに変わっていた。さらにその後に、モスリンの服にヴェール付きの大きな帽子といういでだちの、もの憂げな細君たちを連れてやってきたよそ者は、鉄道線路の向こう側に、椰子の木で縁取られた通りが走る別の町を建てた

P.351 L.15~P.352 L.4

ミスター・ハーバードの来訪から八ヵ月たつころには、古くからのマコンドの住民は、ここが自分たちの町だとは思えなくなっていた。

P.354 L.1~3

ミスター・ハーバードの来訪は鉄道開通の初期であり、その数週間後にジャック・ブラウンが訪れ、ミスター・ハーバードの来訪から八か月後には町にバナナ農園を開設しています。

つまり、鉄道が開通した54年12月から1年以内にバナナ会社が進出してきたと考えらるので、幕間の時代の終わり、そしてプランテーション時代の始まりはマコンド暦55年と考えることができます。

これで、すべての時代を特定することができました。

 ①平穏な時代(0~30年)
 ②戦火の時代(30~50年)
 ③(幕間)奇跡の好景気の時代(50~55年)
 ④プランテーション時代(55~115年)

 ⑤衰退と滅亡(115~130年)


Ⅲ."孤独の百年"


以上で、マコンド130年の歴史を5つの時代に区分するという目的が達成できました。

しかし、ここで最初に戻り、もうひとつの100年について話す必要があります。それは、ピラル・テルネラの年齢から推測した130年の裏付けでもあります。

それは、メルキアデスの予言した『百年』についてです。 


〇メルキアデスの予言した"孤独の百年"

メルキアデスが予言した『百年』とは、いつ始まり、いつ終わったのでしょうか。

予言の終わりは明らかで、マコンド滅亡の年、つまり最後の年です。マコンドが嵐で吹き飛ばされようとしている場面で、百年前に予言が完成していることが本文中で明言されています。

それはごく些細なことまでふくめて、百年前にメルキアデスによって編まれた一族の歴史だった。

P.623 L.6~7

このことからも、彼の予言した100年はマコンドの歴史と分けて考えるべきであることがわかります。メルキアデスの予言した100年をマコンドの100年と考えてしまうと、マコンド開拓時にメルキアデスが予言を始めたことになってしまうからです。彼の予言した100年とは、あくまでもブエンディア家の100年であり、マコンドの歴史はそれよりも長く見積もる必要があるのです。

では、ここでいう「百年前」とはマコンド暦でいう何年のできごとなのでしょうか。

メルキアデスは死ぬときまでこの手記をしたためていましたので、予言の完成と開始はメルキアデスの死の年と考えられます。

この年にあったできごとは、大佐とレメディオス・モスコテの出会いで、出会った時のレメディオスの年齢は9歳(P.94 L.10)です。

そして、レメディオスの死亡時の年齢は数百ページ先で語られます。

ただひとつ、ウルスラにたいする感謝の気持ちからだが、(アマランタ・ウルスラは)広間のレメディオスの写真には手をつけなかった。「ほんとに素敵だわ」と、笑いころげながら大きな声で言った。「十四歳の、曾祖母さんなのよ、これ!」

P.568 L.15 ~ P.569 L.1

このことから、大佐とレメディオスの出会いの年=メルキアデスの死亡の年から5年後14歳のレメディオスは死亡したと考えられます。では、レメディオスの死亡した年はマコンド暦何年なのでしょうか。

年数の特定につながるヒントが以下にあります。

彼(アウレリャノ大佐)はふたたび仕事に没頭したが、舅を相手にドミノをする習慣は捨てなかった。喪に服してひっそりしている家のなかの夜の話し合いは、ふたりの友情をますます強めることになった。(中略)選挙が間近に迫ったころのある日、国内の情勢を気づかって留守がちだったドン・アポリナル・モスコテが旅行から帰ってきて、自由主義者たちはいよいよ戦争をおっぱじめる気らしい、という話をした。

P.152 L.14 ~ P153 L.3

アポリナル・モスコテが大佐に選挙の話をした際、モスコテ家はレメディオスの喪に服していました。では彼女の喪はどれほどの期間続いたのでしょうか。

ウルスラは扉や窓を閉めきって喪に服し、どうしてもという用事でなければ、人の出入りをいっさい禁じてしまった。一年間は大きな声で話すことも許さず、黒いリボンをかけたレメディオスの写真を通夜の行われた場所において、ランプの灯をともし続けた。

P.142 L.6~9

この引用の通りなら、レメディオスの死後1年は喪に服していたことになります。アポリナル・モスコテが喪中の家で大佐に選挙の話をした場面のすぐあとに選挙があり、選挙の年は内戦勃発の年(マコンド暦30年)でもあります。

ですから、レメディオスの死は逆算して内戦勃発の30年から1年以内マコンド暦29~30年あたりのできごとと考えられます。

さかのぼって考えると、大佐とレメディオスの出会いの年=メルキアデスの死の年5年前マコンド歴24,5年あたりのことと考えられます。  

仮に切りよくメルキアデスの死亡の年をマコンド暦25年とすると、100年後は125年。マコンド全史130年の根拠とさせていただいたピラル・テルネラの年齢が150~155歳と振れ幅があるので、この振れ幅に甘えさせてもらうのであれば、物語の終わりは125年前後となり、予言の『百年』とマコンドの歴史は重なります

また、マコンド暦25年は大佐がいずれ喪失するレメディオスと出会うという孤独の歴史の始まりでもあります。

いとこ婚である父ホセとウルスラの間に生まれたアウレリャノには母の恐れたぶたのしっぽはありませんでしたが、代わりに「精神的形態異常」とも呼ぶべき絶対的孤独が付き纏います。

レメディオスの没後、アウレリャノは決してだれも愛さずに戦争の時代を終え、そして孤独のなかで死んでいきます。そしてその孤独は血脈のなかに受け継がれ、予言の通り100年後、マコンドとブエンディアの血筋はこの地から永遠に姿を消すのでした。

マコンド暦25年から予言が始まるのは、まさしく"Cien Años de Soledad"――"孤独の百年"の名に相応しいのです



IV.まとめ


いかがでしたでしょうか。この記事を書くにあたり『百年の孤独』を最初から最後まで穴のあくほど読み込みました……が、実は今回のマコンド暦130年の設定には穴がいくつかあります。

それは以下の矛盾点があるからです。

①35歳まで生きたアウレリャノ・アマドル(17人のアウレリャノの唯一の生き残り)が再登場し銃殺されるのは旱魃のさなか(マコンド暦120年~)だが、戦争中(マコンド暦30~50年)に生まれたとすると計算が全く合わない。

②メメがアウレリャノ・バビロニアを産んだ年にバナナ農園の撤退と長雨が始まるが(115年)、メメが52年の生まれだとするとこの時点で60歳を越えていることになる。しかしメメがマウリシオ・バビロニアと子をもうけたのは学校卒業直後(15歳くらい)のことなので、計算が合わない。

③旱魃(120年~)のはじめごろにホセ・アルカディオ(法王見習い)が帰宅するが、このときアウレリャノ・バビロニアは彼を「中年」と表現している。法王ホセが生まれたのは51年なので、旱魃のころには70歳近く、老人といえる見た目になっていないとおかしい。

④レメディオス・モスコテは知り合いたてのアウレリャノ大佐を「おじさん」と呼び、アウレリャノ大佐にとってレメディオスは「子どもといってもおかしくない」と表現されている。これを25年頃のできごととすると、大佐が7年生まれなのはどう考えてもおかしい。9歳のこどもがいておかしくない年齢、おじさんと言われておかしくない年齢は最低でも30歳くらいと考えられる。そうすると、アウレリャノ大佐が戦争に出た5年後の30年には35歳、戦争終了時は55歳ほど。「40年間の生活の中で」という記述とも矛盾し、テキストが正しいのか、それとも間違っているのか、判断に苦しむ。

⑤大佐の死亡時の年齢が55歳くらいと推定され、外見的には年老いていたとは言いづらい。

など、数え上げるとキリがありません。

ひとつの考える材料になりそうなのはガルシア・マルケスが『G・G・M――無限の会話』(アスル社、1969年)で語ったという「42の矛盾点と6つの重大な誤り」と呼ばれるものです。(鼓直「改訳新装版のための訳者あとがき」P.652~653より)。作者自身、多数の矛盾や誤謬に気付きながら「誠実ではないと思うので」再版や翻訳でも直さなかったそうです。

すぐに思いつく矛盾点は上記のアウレリャノ・アマドルの年齢設定です。この設定は明らかにほかの設定と嚙み合わない……とも言えそうですが、これは記事作成者がそもそものマコンド暦の根拠をピラル・テルネラの不思議なほどの長寿命に置いているからです。

ピラル・テルネラの不死のごとき長寿を誤記として鼻で笑い飛ばし、アウレリャノ・アマドルの死亡時の年齢を35歳と信じてマコンド暦を組み立てていくことも不可能ではないと思います(とても力技になると思いますが)。

自然科学と同じで、マコンドの歴史の解釈には複数の説を用意できるのだと思います。そしてどれもが矛盾を抱え、ぴったりとあてはまる論説などはなく、いちばん妥当なものをそれぞれが選び取るものだと、そう考えます(すべての矛盾や誤謬を包摂したマコンド暦を設定するのであれば、量子宇宙論や並行世界などSF要素を持ち込まないと無理だと思います)。

私のこのマコンド暦130年説も多くの矛盾点がありますが、長大にすぎるマコンドの歴史を5つの時代に区分できたことは今回の大きな収穫だと思っています。

ここまでお読みいただきありがとうございました。次回からは内容に踏み込んで『百年の孤独』を読み解いていきたいと思います。

百年とはいいませんので、もうしばらく、お付き合いいただけると幸いです。
 


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