戦争報道というデリケートなもの(雑記)
櫻井翔くんの炎上を受けて、いろいろとツイッターで呟いた。
たぶん私のツイートを見てくださってる方からは「noteでもその話すんのかよ!」って感じだと思う。けど、この雑記は別に櫻井翔くんの擁護とかではなくて(そもそも擁護してないのだけど)その流れのなかで交わした会話がいろいろ面白く、考えさせられることが多かったので記事にしてみようと思ってのこと。
私が投稿したツイートはこんな感じ。
その後、いろいろと呟いているのだけど、やっぱりしゃべりすぎた。屁理屈とか、現実を歪めるようなことは言わなかったと思うけど、わざわざ言うことではなかったかな、と反省した。結局私は「むっ」としたのだ。なんか世の中が変なことになってるぞ、と。で、その「むっ」を吐き出す場所がないので、なんか正当化してツイッターに吐き出したのだ。
吐瀉物である。本当に申し訳ない。
ただ、このツイートにはたくさんの引用リツイートとリプライがついた。
中身は半々という感じだった。
なにが半々かというと、「櫻井翔擁護派」「櫻井翔否定派」だ。
あの番組の是非についてはもうこの場では述べない(書き上げて1時間くらいして読み返したらあとのほうで述べとるがな)。そもそもネット上で交わされる議論というものは大抵が情報源を鑑みない。最初はそれらを大事に扱っていても、議論が進むとないがしろにされがちだ。焼肉のおいしさについては焼肉を食べているときにしか語れないし、ゴッホの絵についてもゴッホの絵を前にしてしか本当に語ることはできないのだと思う。私がわーわー言ったことも的外れだし、そもそものネットニュースの時点で大きく事実が歪められている。
話を元に戻す。
「櫻井翔擁護派」の方々のツイートは比較的穏便なものだった。その多くは「ニュースの動画も見ずに櫻井翔を叩いている人たちがいるが、ちゃんと見てほしい」というもの。
「櫻井翔否定派」の方々のツイートはかなり剣呑だ。櫻井翔は不要、櫻井翔はなにもわかっていない、櫻井翔は人情が欠けている、などなど…。
私が会話をしていて興味深かったのは否定派の方々だ。
そのなかで思ったことは、たしかにあの番組は誤解を招きやすい構成だったかもしれない、ということだった。元搭乗員の人に出演してもらい、加害の側に回ってしまったことについてどう思うかを語ってもらう。とても、とても辛いと思う。想像もできないほどに、そのことについて語ることは苦しいと思う。日本人が戦争をこれからも繰り返さないためにはとても必要なことだと思うが、自分がその立場に回ったら、きっと私は口をつぐみ続けるだろう。
私が会話したなかで興味深かったのは「なぜ当時のエネルギー問題や諸外国からの圧迫、メディアの扇動については追及しないんだ」という言葉だった。
そこではっと気づいた。確かに、戦争に加担させられた、してしまった人たちに語ってもらうことはとても大切なことだ。しかし、それだけをクローズアップして報道することは、ある人たちからすれば「一人に責任を押し付けている」と映るかもしれないのだ。
もちろんそうではない、ということは櫻井翔くんも番組のスタッフもわかっていたと思う。しかし戦争について報道するということは、思っている以上いデリケートな問題だったのかもしれないのだ。
もちろん、ただただ炎上に引っ張られてそのまま櫻井翔くんを叩いているだけの人たちもいるだろう。そういうひとたちは、今の時代にはたくさんいる。私だってそうだ。特に興味のない芸能人のスクープの見出しなどを週刊誌の表紙で見かけても「へー」と思うくらいだが、それからどこか無意識に「あの芸能人は...」と刷り込まれているような気がする。深く追求しない。
私はあの番組は大切だったと思う。そして多くの人にもそうだったと思ってほしい。あの質問を投げかけたときの櫻井翔くんの気持ちも、質問を受けた瞬間の吉岡さんの気持ちも決して生半可なものではない。
誰もが加害者になりうる。そして多くの場合、加害者の声は抹殺される。多くの罪がそうだ。そうやって人は、罪と自分との間に境界線を引いてしまう。
しかし、あの番組をしっかりと見たうえで番組を批判している(炎上に加担しているだけではない)人々の声も、聴く必要は大いにあると、今回いろんな人と話して思った。
戦争報道は時間をかけ、複合的な視点から語る必要がある。
そうでなければ、誤解を生む。誤解は分断を生む。
私は今回の件で、ときどき「右翼」という言葉が頭をよぎった。戦争を美化する人々のことも、日本の歴史を「自虐史観」だとして日本のやってきたことを正当化する人々のことも、私はうまく受け入れられない。しかし、その発言のすべてを否定してしまうことは大きな分断を生むし、実際に今、分断は広がっていると思う。自分と意見の異なる相手を簡単に出来合いの言葉で否定することは恐ろしい、ということを、私は頻繁に忘れてしまう。
対話が必要だ。
SNSはそのために大きな役割を持つツールだと思う。
けれど最近友人たちと話していて、必ずこの結論にたどり着く。
「人類にSNSは早すぎた」
そうかもしれない、と自分を振り返って強く思う。