ペトリコールと桜色
駅ビルには決まってコスメのフロアがある。幼い私はいつも、そこを通るのが苦手だった。厚化粧のにおい。着飾った女性たちの生白い肌。降り注ぐ照明の冷たさ。そのすべてが、息苦しくて仕方がなかった。
「社名にもあるFrostは……こちらの香水は創設者の思い入れがあって……」
そんな私が、どんな因果か客に香水を売りつけている。ガラス瓶に注がれたそれらには、それぞれ価格と香りのモチーフ……それと販促のためのマニュアルが付随する。恋人へのプレゼント、友達への贈り物、奥様かそれに近しい女性への記念品……おすすめするときに、自分の使用感なんかを伝えると効果的だと研修で告げられた。反吐が出る。
「人に匂いをプレゼントするって、気持ち悪くありませんか」
美容部員の花藤さんは従業員専用の更衣室でそんなことを言った。大学を出たばかりの彼女は物覚えが良いらしいが、思ったことがすぐに口に出てしまうので、あんまり接客には向いてないとの噂を聞く。客に対して「うちの商品あんまり向いてないですね」と言ってのけ「お客様の年齢ですと、あちらにあるひとつ上の年齢向けの……」などとんでもないことを口走り、すぐに上司に連れていかれた、とか。
使用するロッカーが隣同士。ただそれだけの理由だけど、仕事終わりはかならず彼女の上がるのを待ち、そのポップコーンみたいに弾けまくる愚痴を聞いてから帰るのがいつの間にか日課になっていた。
「身につけるものなら、いつでも外せるでしょう。でも匂いって一日中とれないじゃないですか。恵南さん、どう思います?」
「それはそうかも」
私は相槌を打ちつつ、彼女のネイルを見る。血の滴を垂らしたように赤いそれらは、ゆっくりとボタンを外し、脱いだ衣服の端をつまむ。本人とは異なる繊細な動きに、時折見惚れる。
「もし恵南さんが恋人に香水を送られたら、どうします?」
「まあ、キツイのじゃなきゃつけるかな。せっかくもらったんだし」
「ほら、それ。せっかくとか、もらったんだし、とか。男って、女がそう言うだろうって期待して渡すんですよ。ほんとに押しつけがましくて嫌いです。善意の押しつけ。貰った以上は、プレゼントをどうするかなんて私次第じゃないですか?」
ストッキングを剥ぎながら花藤さんは見つめ返してきた。
制服のジッパーを下ろして、彼女の化粧で覆われた頬を見つめる。
「そういえば前につきあってた人に」
「おお、なんですか。レアですね、恵南さんの恋バナ」
「一ヶ月記念のプレゼントであげたピアスしてくれないの? って言われたことがあって」
「うぇ」
舌を出して表情をゆがめる花藤さん。
「それでどうしたんです?」
私は髪の毛に手を差し込んで、両耳を晒した。
「やらなかった。ピアスって怖いし。その人は、俺がやってやるからってしつこく言ってきたけど」
「へえ、ひどい」
意外と視力が弱いのか、近くまで寄って私の耳朶を観察する。
「別れて正解ですね。なんか勘違いしてますよね、つきあったらなんでもしていいとでも思ってるんですかね。しかもそれを、良いことをしてるつもりでいるじゃないですか」
頷きながら、しかしそれは男や女という話だけでもないだろう、と思う。コスメフロアにはたくさんの女性が訪れる。その誰もが厚い化粧の皮膜で自身を覆う。それはたぶん、あるときから地球上の誰かが言い始めたからだ。
美しくあることは素晴らしいことだ、と。
もしくは、美しくあることを素晴らしく思え、と。
着替えを再開しながら私は言った。
「煙草が嫌いなの」
「煙草?」
「煙草のにおいが、ほんとに死んじゃうくらい嫌だったの。私はなんだかんだ、その人と結婚するんだろうなって思ってた。でも、そうはならなかった。煙草の匂いだけは受け容れられなくて、何度もやめてほしいって言った」
「ははあ。良い匂いではありませんよね」
「なんていうのかな……まあ、そうかな。嫌なものは、嫌だから」
実際のところ、私が最後に持ち出したのは「子供への影響」とか「副流煙の害悪」とか、本心とはほとんど無関係な理屈だった。女にはピアスの傷を押しつけるくせに、自分では煙草を止めようともしないそのひとのことが、心の底から腹立たしかったのだと思う。
「じゃあ、恵南さんの好きな匂いってなんですか」
私は返答に間を置いてしまった。
「ペトリコール」
「ペト……なんです?」
「ペトリコール。雨の降ったあとの、土の匂い。私、大学のときに匂いの研究をしていたから……」
「それって香水で売ってます?」
「うん。あるよ」
「じゃあ、それ今度買いますね。でも、なんでそんなのが好きなんですか」
「生まれた土地の匂いだから、かな……」
私の生まれた静岡には、土の道が多かった。冬の朝には霜を踏みしめて学校へ通った。雨が降ったあとの湿った空気と、落ち葉の分解されていく芳香。もうそれらは記憶の中にしかない。土の道はすべてコンクリート舗装されてしまった。ペトリコール、ゲオスミン。匂いというものは、ある程度までであれば、いくらでも再現できる。それが郷愁の正体。
「なんか」
花藤さんはブラウスに着替え終わると、今日イチの笑みを見せた。
「恵南さんってやっぱり、私と似てますね」
「そうかな」
「なんていうんでしょう……えーっと……好きなものが同じっていうよりは、嫌いなものが同じというか……」
私は吹き出しそうになってしまった。
「それってどうなの」
「ね、恵南さん。私、恵南さんの元カレの話、もっと聞きたいかもです」
「えー……あんまり話したくないかな」
「ぶっちゃけたこと言うとですね」
「なに」
「私、先日やらかしまして」
たぶん、彼氏とのことを言っているのだろうな、と思った。彼女の話題の半分は派遣社員への愚痴と、最近関係が悪化しつつあるという彼氏への不満だった。
「畳職人目指してるっていう彼のこと?」
笑ってはいけないと思いつつも、唇の端がゆるんでしまうのがわかる。
「そーなんです。あいつ、やっぱり隣の大学生と浮気してたんですよ。殺してぇー!」
「特に職人に弟子入りしてるわけではない、畳職人志望の彼が……大学生と……?」
「そうです……あ、笑ってます?」
「ごめん。我慢してるから許して」
「いいんですよ。笑い話ですよ、もう。でも……ヒモってなんか、女の理想だったりするじゃないですか。わかります?」
「わかんない」
「まーとにかく、別れたんです。で、別れ際に、金返せくそニート、てめえ浮気する暇あったら畳の藁で草鞋でもつくって外国人観光客に売りつけてこいっ! って言ったら」
「言ったら?」
私はすっかり彼女の話に聞き入っていた。
「泣きながら三万借りて出て行きました」
「ぶっ」
駄目だった。
「あはははははは! あははははは……はーだめ……おもしろ……」
「……恵南さん」
「あ、ごめ……」
涙を拭きつつ振り返ると、着替えを終えた彼女はジャケットのポケットに両手を突っ込み、じっとこちらを見据えていた。
さすがに気分を害したかな、と思っていると、
「恵南さんの笑った顔、やっぱ可愛いですね」
予想の斜め上だった。
「どうしたの急に」
「恵南さんって、好きな色ありますか」
「緑だけど」
「うげ」
どうしたの、と聞く前に、
「私が今、一番嫌いな色だ……」
と、この世の終わりのように顔を歪めた。たぶん、畳職人志望の(元)彼氏を思い出したのだろう。そう思うと、また笑いがこみあげてきた。
「次に好きなのはなんですか。緑以外ならなんでもいいです」
「じゃあ、ベージュ」
「ベージュ……え? コスメフロア勤務ですよね? せめてこれくらいにしましょうよ」
花藤さんは右手を引き抜き、差し出してきた。そこに握られていたのはマニキュアの小瓶だった。色はピンクだ。
「これ、あげます」
「え、悪いよ」
「いえ、いいんです。私もこれ、もう一個持ってるんで」
ほとんど無理やり握らされた。
「それ、私もつけてくるんで、恵南さんも明日つけてきてくれますか」
「構わないけど、どうして」
「私って今、恵南さんしかいないんですよね」
同性であると分かっていても、身が固くなってしまうことばだった。
「それって、どういう、意味」
「いやあ、なんか……四月からこっち、毎日のように別の部門の恵南さんに愚痴聴いてもらって、彼氏のことなんかも相談したりして……なんかもう、恵南さんのこと好きになっちゃったんですよ」
「私……」
「あ、違います。たぶん、そういうんじゃないですよ! たぶん」
「たぶん?」
「今のところ、私はノーマルなんで……まあ、私たちの関係性って、よくわかんないじゃないですか。同僚ってわけじゃないし、先輩後輩って言おうにも同じ部門じゃないし。売上目標を追いかけるって意味では同じですけど、恵南さん、正直売り上げどうでもいいでしょう」
「まあ、そうかも」
「ね。私たち、やっぱりいっしょですよ。だからそれ、つけてきてください」
花藤さんはまた両手をポケットに突っ込んで、仁王立ちの姿勢を見せた。
「売り場が違くっても、私とおんなじ気持ちでいる人がいるって思うと、それだけでなんか、違いますよね……うまく言えないんですけど」
「わかるかもしれない」
私は荷物を持ち、しばらく悩んだ末に顔を上げて言った。
「じゃあ、お願い。あなたもペトリコールの香水をつけてきて」
「え、まじですか。それ、土臭くなれってことですよね」
「そう。これは、あなたになにもメリットのないお願い。どうかな」
「あはははは! なんだそりゃ。変なの」
花藤さんは、ひとしきり笑ったあとで言った。
「いいですよ、そういうの、好きです。まさか善意じゃなくて、臭いにおいを押し付けられるとは、思いませんでした」
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休日のフロアは混雑していた。入り口を飾る香水のメーカーの並びには数人の男女がおり、金になれと願いながら職員がテスター片手に飛びついていく。私は陳列棚の前に立って行きかう女性の若さを眺める。どれもみんな同じ顔に見える。そういうときは大抵、意識がどこか遠くへ飛んでいる証拠だ。私は生家のあったあたりのことをぼんやりと思い出している。きっと、この匂いのせいだ。コスメフロアの害臭に負けない、雨と土の匂い。
「恵南さん」
聞きなれた声。目の前に、制服を着た花藤さんの姿があった。
「指」
「うん」
広げて見せる。ピンクのワンカラー。花藤さんも、なにかの合図のように両手の甲を私に向ける。同じく、ピンク。
「ペトリコールは?」
「ネットで注文中です」
「そう。じゃあまた今度……」
言い終わる前に、彼女は私にぐっと近づき、首筋に鼻先を突っ込んできた。
「あ、ちょっと」
「なるほど」
背の低い花藤さんは、にんまりと笑みながら私の顔を見上げてきた。
「この匂いですね。覚えましたよ」
「犬みたい」
「これで、どこにいても、恵南さんのことがわかりますから」
桜色の指を振りつつ、彼女は去った。
ペトリコールの私は、それを見つめて立っていた。
「あーあ、早く仕事終わらないかなー」
誰にも聞かれないように。
花藤さんの真似をして、そう呟いてみた。
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