![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/158327100/rectangle_large_type_2_f160e0d64bd12953a6f4849daddd12f7.jpeg?width=1200)
大好き、だがしかし 映画『怪物』 感想
『怪物』を大絶賛しているレビューを求めて来られた方がいるかもしれないので先に断っておきます。
好きなものにこそ、さらなる高みを目指して欲しいよね?
というのがこの記事のテーマになります。
当方、この映画はオールタイムベスト級に大切といえる位置づけの作品となりましたが、手放しで全側面を褒めるつもりはなく、寧ろ「大好きだから手厳しい批判もさせてもらう」というスタンスをとっています。
そして、基本的には考察というより「クィア表象」という観点から感じたことを綴っております。
「好きなものがある」と「好きだからこそ無批判な態度はとらない」ってのは両立すると思っているので。そのへんはご了承くださいね。
この先、本編とシナリオブックの重大なネタバレを含んでいますのでご注意を。
はじめに
『怪物』を観たのは先月なのですが、映画の存在自体は公開する前から知っていました。当時の印象としては「なんか、内容云々よりもまず製作側の態度に懸念材料しかない」っていう感じだったんですよね。一部ファンの反応も含め、滅茶苦茶「消費で終わっている」という印象を持ちました。
なんやかんやで1年以上の月日が流れ、仕事を辞めてまだ間もないタイミングでひょんなことに是枝監督が『怪物』に寄せられた批判に対して真摯に受け答えしているインタビュー記事があると知り、「おっ」と思ったのです。
内容が気になる方はこちらから↓
当初、制作陣の態度を指摘していた人達がこのインタビュー記事を称賛しているのを知って、割と「安心感」が湧いたといいますか…ネタバレは避けたかったので記事は後回しにしその勢いで本編を観ることにしました。
『怪物』視聴終了
とりあえず、aquaをバックにエンドクレジットが流れている間は脳内処理が追いついてませんでした。
そもそも僕は「物静かでどこか悲しげな男性」が出てくる作品に惹かれがちなので、今作はかなりどストライクでした。
そんな所感と同時に、この作品がなぜ大衆受けし、クィア表象に詳しい人/当事者達の間では評価が割れているのかという点に関しても納得がいきました。作品内/外の状況も含め考えさせられることが多い作品でしたね。
まず、言わずもがなロケーションや役者さん達は素晴らしかったです。湊役の黒川想矢さんが見せる繊細な表情とかもうあれだけでこちとら終始目頭ヤバかった。
自分のアイデンティティが形成しきれていない段階の葛藤だったりとか、社会からの重圧、マジョリティによる無意識な加害も描かれていた方だと思うし、もう少しメイン2人の話に比重おいても良かったのではとは思いつつ、全体的には大変満足できました。でもマジで誰かあの2人をハグしてあげて欲しかった…。
論争ポイントとしては、やはりあのオチでしょう。
正直、あのオチを観た時は「え、流石に生きてるでしょ?これ死んでたらやってらんねえな」となりましたね。
あそこまで2人の不憫な様を描いてきて最後まで救われない仕打ちとかアリ??流石にそれは避けるよね?って。
いやまあ作中ず〜っと「死」がテーマとして語られていたり、最後の最後でホワイトアウトがあったりで解釈が分かれるオチを選んだのは明白だし、でも最後の2人のやりとりを踏まえたら「そうだよね。君たちは生きてるよね」って自分を納得させようとしてみたりと感情振り回されました。
まぁ「死=2人は報われなかった、それはバッドエンド」ということになるかどうかっていうのはまた人によって意見割れそうだし、LGBT作品全てハッピーエンドにするべきとは到底思わないですけど、少なくとも悲劇的なLGBT作品が多すぎると散々言われていることを考慮に入れたらあの展開からの死亡オチはあまりにも陳腐ではないかって。
で、仮にあそこで2人が死んだと仮定したら整合性ないなと感じた理由の1つとして、やっぱ音楽室でのシーンですよね。
校長先生にあのセリフ言わせといて、最終的には2人共死なせるなら是枝さん/坂元さんは何を伝えたかったんだろうって…。あの言葉を拠り所に現世で生きてこそってもんじゃん!ってなりません?????
だから僕は希望的観測も込めて「2人は生きているはず」と信じてました。
シナリオブックを入手する
ぶっちゃけ1章、2章は最終章への布石に過ぎないからこの映画のメインともいえる部分は1/3しかないし、オチの真意も気になるし「これで終わりだなんて嫌だ…」と、あまりにもあの世界から離れたくないという気持ちで溢れかえってました。
てな感じで視聴後しばらく怪物が頭から離れず悶絶していたのですが、なんと当初の脚本では描かれ方が若干違う場面もあったという情報を入手。
光の速さで完成形と決定稿時点での違いが知りたいがためにシナリオブックを買い、特典映像が観たいがためDVDも買いました。
結論としては、心の底から買ってよかった。なんか凄い救われた気がしたんですよね。僕もあの2人も。
で、『怪物』は滅茶苦茶クィアの物語だった。そして、当初の脚本にあった描写をそのまま映画にも残す選択をしていたら多分僕の中でこの先10年は不動のオールタイムベスト作品になっていた可能性大だったかも、となりました。
※この先、「当初の構想」「当初の脚本」という意味で「シナリオブック」という言葉を用います。
最終形への不満
まずシナリオブックと最終形(映画)の大きな違いの1つとして、映画でもチラチラ映っていたBL漫画を読んでいる女の子がかなり重要なキャラとして物語に絡んでいるということが挙げられます。
彼女はBL漫画を愛読し、現実世界で実際にセクシュアリティで苦しんでいる湊にそれを重ね、"親切心から"アウティングまでしそうになる。
彼女は「同性同士の関係は結ばれないんだね…」と湊に向かって発言しており、これって「性的マイノリティ間の恋愛は基本悲劇的で幸せにはなれない」というこれまでのクィア表象で形成されてきた負のイメージに対する批判、そしてマジョリティによる消費に対する批判として機能しており、滅茶苦茶良い描写だと思うんですが、なぜか本編からはカットされてしまった。
この判断について、是枝監督は例のインタビューで1つは構成上の理由、そしてもう1つは「"非当事者だが一応配慮してる"アピールに映る可能性があったので省いた」と仰っていましたが…なんかモヤモヤするんですよね。
例のインタビューやシナリオブックを読むと、非当事者がクィアの物語を作る上で「消費止まりにはしたくない」という是枝監督、坂元さん達の姿勢が伝わってきます。それなのに、toxicなエンタメ消費に対する批判にもなっているあのシーンを本編に残さなかったんですか?って。矛盾している気がします。
それと、この作品に足りない要素としては「第三者からの肯定」だと思います。なので序盤にも言った「あの2人をハグして欲しかった」ってのは別に冗談でもなく、僕的にはマジでそのようなシーン欲しかったなぁと。
(因みに特典映像では早織役の安藤サクラさんがあの2人を抱きしめている映像があって無事ガン泣きしました)
第三者からの肯定がほぼない、そんな中あの2人(というか湊)を一番肯定してくれていたのは結果的に校長先生だったというのもあり音楽室のシーンはとても大事だったのですが、実はシナリオブックには更に「校長先生が依里の家で2人を保護する」っていうシーンがあります。これも本編にあっても良かったよね〜と思います。
まあ、あの2人を肯定する描写がほとんど無いことが、あの2人をより応援したくなる気持ちにさせてくれるという考え方もあると思うので、この辺は個人の好みですよね。監督の判断はリスペクトします。
で、問題のオチなんですが、シナリオブックでは「2人は今の世界で生きていく」ってのがより明示的に描かれていました。
面白いなって思ったのが、当初は最後2人が第四の壁を破りこちらに訴えかける視線を送る終わり方だったみたいなんですよね。フランスの短編映画『Fag (2019)』を彷彿とさせます。(YouTubeで観れます)
なんだろ、監督的には最後の疾走感溢れる終わり方は開放された感じがして好きだからあそこで暗転させることにしたらしいですけど、僕もあの疾走感っぷりは好きなんであれはそのまま残しつつ、最後立ち止まって振り返るってのはあっても良かったんじゃないかって思いました。
しかも振り返った後は「手を繋いでまた走りだす」ですからね。いや、それめっちゃ観たかった。
是枝監督は「ここまであのオチを"死"と受け取る人が多いとは思わなかった」とビックリしてますが、流石に甘いですよ!!!今の受け手はちょっと匂わせるとあれやこれやと解釈しようとするんです!!!!!
端からこの物語を死亡オチにする気はサラサラなかったってのは分かったんですが、そもそもこの手のジャンルで最後を視聴者の解釈に任せるみたいなオチにする必要性に関しては議論の余地あると思っています。
この作品がしている問題提起は社会・マジョリティの在り方ですし、本来そこを重点的に議論するべきなのに、解釈が分かれるオチにした結果、世にあるレビュー/考察の多くは最後2人死んでしまったのかどうかに焦点を当てている…という感じになっちゃっていますもんね。「生きてるの?死んだの?」とか、校長先生や依里の「やったの?やってないの?」的な考察したくなる要素はこの映画が伝えたいことの本質ではないと思うので。あくまで個人的な感想ですけど。
「オープンエンディング=視聴後も考えさせる」というのも「そういうもんなの?」って感じですし。少なくとも僕からしたら明示的なオチでも色々考えたくなる映画でした。自信を持ってください。じゃなきゃこんなクソ長い記事書いてません(笑)
映画では気づかなかった、湊の激ヤバ行為
無我夢中でシナリオブックを読み進めていると、とある描写に目が留まりました。
早織(湊の母)が心配して例のトンネルまで湊を探しに来るじゃないですか。遠くからは「怪物だ〜れだ」の声がし、最終章であの時湊は依里を待っていたんだと判明しましたが、なんとあの時湊の手にはお花が握られていたんです。映画の方も確認したら左手でちゃんとお花持ってました。
これ知った時、「え、やば。依里へのプレゼントってことでしょ?え、やば。」となり流石に慌てふためきました。
「お花が好きな男の子はモテない」と、早織から聞かされていた湊。
もし仮に、湊が「自分はお花好き」と言ったら早織はどういう反応をしたのでしょうね。最愛の息子の"好き"をリスペクトしたのだろうか。それともさりげなーく「社会の普通」に押し込めようとしたのかな。
そもそもあのシーンで湊がピンポイントで「過去の早織の発言」を依里に打ち明けたってのを考えると、もしかして湊も過去にお花に興味を示していた時期があったのかな…なんて思ったり。だって普通そんな突拍子もなく親が息子に「男の子は花の名前知らないほうがモテるよ」なんて言います?
少なくとも湊は依里の"好き"をリスペクトしています。
学校で取っ組み合いをした日の夜、唯一「本当の自分」になれる廃電車の中で夜遅くまで依里が来るのを待っていた湊。昼間の件で申し訳ない気持ちでいっぱいだったはずの彼が依里を喜ばせたい一心で摘んだお花を手に握って迎えに行ったってことを考えると…もうそれだけで泣ける。ほんと泣ける。
映画『怪物』は消費止まりではないと思うが…
正直な話、『怪物』は映画単体としても「消費で終わってるな」っていう印象はそこまでありません。この意見に反対される当事者/クィア表象に詳しい方もいるでしょうが、映画内にも社会批判する描写はあった方だと思うのでね。
ただ、せっかく元の構想ではより踏み入った社会批判があったのに凄く勿体ないって思ってしまうんですよ。
他にもシナリオブックでは湊が「テレビで観たいわゆる"オネエタレント"を調べようとするがネガティブな検索予測が出てきてしまい怖くなってやめる」という描写が出てきます。「いや〜わかるよぉ」と唸ったのですが、これも本編には挿入されず。
僕的には、万人受けするよう極力「直球のクィア描写」は避けたいという気持ちも多少あったのではないですか?と感じました。
現に、『怪物』を高評価するレビューには「普遍的な感じで描かれていて良かった」といった類のレビューも散見されていますし、「クィア性」を全面に押し出すことで一定の層から飛んでくる「押し付けがましい」という批判を避けたかったのではないかと。
「なるべく普遍的にする」「とっつきやすくする」ってのは、マイノリティの苦労や葛藤を透明化してしまう可能性があるだけではなく、マジョリティへ配慮した、マジョリティのための作品になってしまいます。
攻めきれなかった、という表現は適切ではないかもしれないですけど、映画では元々あったクィア性を削ってしまった結果になったのは事実。そこが本当に勿体ない…。
なぜここまで刺さったのか
僕が聞きたい。
「クィア表象」という観点での評価であれば、より優れている作品はたくさんあります。『ハートストッパー』や『セックスエデュケーション』『エゴイスト』、『プライド』『彼女が好きなものは』とか…。
クィア表象のクオリティとしては、『怪物』はシナリオブックと合わせて上記作品レベルになるかな。流石にそれでも絶対的王者『ハートストッパー』には敵わないですけど。クィア表象に関してあの作品の右に出るものはないです。
(あと同性愛ストーリーがメインじゃないけど『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』も滅茶苦茶良かったですよ。おすすめです。)
にも関わらず、僕がここまでこの作品のことが頭から離れなくなった理由としては、単純に映像表現として見せ方/伝え方が上手いっていうのと(実は2人はクィアでした!というツイストを肯定しているわけではない)、やはり湊に感情移入出来すぎたってのが大きいのかな…。
僕の小学生時代が湊と似た境遇だった、というわけではないんですが、自分のアイデンティティに向き合って素直になれたのは大分後の話だし…。
ある程度成長して大人になると、徐々に自分自身を理解するようになっていくとは思うんですけど、湊ぐらいの年齢だとほんと暗闇にいるような感覚だと思うんです。その部分を自分と重ねてしまうんですよね。
湊も自分が「普通ではない」ということだけは薄々気づいていて、この先どうなるかも分からない、だけど誰にも相談できない、ネットで調べようにもネガティブな情報が入ってくる、社会で普通とされていることには違和感を感じる…そんな彼がもう不憫で不憫で…
あと依里にも言及させてください。
この作品、基本的に湊を主軸として物語は進みますが、依里の悲惨な状況も忘れてはいけないですね。彼の強さはどこからくるんでしょうか。彼はなんであそこまでへっちゃらなんでしょうか。そりゃ湊も不思議がる。まあ無理矢理そういう振る舞いをしてるんでしょうけど、依里には世の中を達観している感じはありますよね。言動がかなり大人びている気がします。
2人が死ななくて良かったとはいえ、依里はあの後も父親と暮らすわけじゃないですか。それを考えると「生きてて欲しい」って願うのは僕のエゴなのかな〜とも思ったり…。まあでも、保利先生が2人の関係に気づいたことを踏まえれば、依里を父親から保護してくれる可能性も残ってますよね。
もはや依里のスピンオフ作品も作ってくれます?
あと、ここまで「この描写本編にも残して欲しかった」というのを挙げてきましたが、逆に「これは本編でカットしてくれて良かった」と思う描写もありまして、それは「依里と父親が仲睦まじく歩いているところを湊が目撃する」というシーン。
あのですね、差別主義者を単なる悪の存在として描くことは重要だと思うんです。何が言いたいかというと、「同性愛嫌悪者にも優しい側面はある」というとこを見せる必要ってありますか?と。
「ヒトラーは良いこともした」といった類の主張にも言えることで、だからって悪魔的所業を正当化する理由にはならないんだが、ってわけです。それとこれとは話は別、そこに情状酌量の余地があるべきではないと思います。この教訓はハートストッパーで学びました。
まあそういった側面を見せることによってキャラクター造形としてさらに深みが増すのは事実ですが、「良い側面もあるけど、悪は悪だよね」と冷静に考える人が大多数、みたいな成熟した社会ではない現段階では諸刃の剣だと思います。
ありがとう、そして諏訪へ
語りに語りまくりましたが、いかがだったでしょうか。
監督の「エンタメ消費で終わらないよう気をつけていた」っていう発言は後出しではなく、メイキング映像でもちゃんと仰られていました。もちろん監督も認めているように結果的に詰めの甘さが出てしまった部分もあったにしろ、最初から真摯な姿勢で臨もうとしていたのは素晴らしいと思いました。なので、公開時に「またいつものパターンか…」と決めつけてしまった点は反省です。ごめんなさい。
公開当初の『怪物』に対する第一印象は決してポジティブとは言えないですが、正直それよりも「自分が好きな作品を貶すのは絶対許さない」みたいな態度で建設的で妥当な指摘を攻撃していた層が多くそういう人達の無邪気っぷりやべぇ…と思いました。
で、恐らくその多くは非当事者なんです。そういう態度がまさに「エンタメ消費」ですからね。いくら制作陣が真面目に向き合っていても「受け手によるエンタメ消費」というのはまだまだ根深い問題として存在しているなと実感します。これは怪物に限った話ではないです。作り手はアップデートしてるのに、受け手がアップデートしてない…みたいな。
LGBT/BL作品を社会構造やrepresentationといったことと切り離して頭空っぽにして楽しみたいってのはもちろんご自由にですけど、建設的な指摘を「難癖」と撥ねつけてしまうのはあまりに暴力的で次に繋がらないです。ポジティブな意見しか許されない世界、それはもうやばいです。ましてやマイノリティが踏み躙られてしまう問題だとしたら批判はあって然るべきです。
故に、著名な監督があのような形で公の場に出ててきて鼎談が実現したのはありがたいことというか、ましてやそのインタビューのフォーカスが自分の作品に対する批判ですからね。それでも承諾したのは、クリエイターとしての責任感を感じられます。
「作り手の意図と受け手の解釈に乖離が生じる」ってはどうしても避けられないと思いますし、批判される度に毎回弁明だったり説明する必要はないですが、監督はこれがマイノリティを扱っているため自分の立場表明をする必要あると判断したんでしょうし。
とはいえ僕自身も双方どちらかに100%同意するわけではなく、監督にも、インタビュアーの方達に対しても同意しかねる見解はありましたが、有意義な議論であったことには間違いないでしょう。
最後に、色々書きましたが、この映画が僕の心に響きすぎたってのは伝わったのではないかなと思います。映画一つにここまで心奪われたのマジで久し振りだったんですよね。こんな素晴らしい作品を世に出してくれてありがとうございます。
そして、この映画を観て自分が持つ特権性について内省してくれた人達もありがとう。そうやって自分の特権性を理解するところから社会はより良い方向へ向かっていくと思うのです。
さ〜て、次回は居ても立っても居られなくなり物語の舞台「長野県諏訪市」へと旅立った話になります。
追記:
諏訪へ行った時の記事はこちらから↓