小説のリアリティー1 艦隊と旗艦
小説を書く以上、リアリティーは、なければいけません。どれほどのリアリティーが必要なのかは、その小説にもよります。荒唐無稽さを売りにするものもありますから。書きたいものごとにバランスを考えなければなりません。
知らないことは取材をしなければならないわけですが、これがたいへんだったり楽しかったりもします。今まで知らなかった知識が入ってくるのは、なかなかいいものです。
夢を壊されることもあります。わたしも現代の艦隊について調べてみたのですが、ちょっとがっかりしたことがあります。
例えば「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河英雄伝説」などでは、艦隊の旗艦たるや、なんかすごそうなのが後方に控えているイメージじゃないですか。いかにもラスボスという感じで。
敵軍からすると次のようなイメージです。前衛の艦を次々と打ち破り、最後に現れた最強の旗艦を倒さない限り、艦隊戦は勝利できない、というような。
旧日本軍の戦艦三笠とか戦艦大和とかにも、こんなイメージありませんか?
旗艦は最強でなければならない。そして守られなければならない。なにせ旗艦がやられたらおしまいですから。
ところが現代ではかなり事情が違うようです。巨艦巨砲主義がすでに時代遅れだということは、わたしもさすがに知っていました。大和みたいに「戦艦」と呼ばれる艦種は、今はないみたいですね。波動砲を備えろとは言いませんが、なんか寂しいとは思っていました。
それどころか、そもそも旗艦というものがほとんどないようです。現代では、陸上の基地から指令が出せるので、旗艦が必要ないのです。自衛隊でも、もう長いこと旗艦を置いていないそうです。
アメリカ第7艦隊とかには旗艦があるようです。よかった、と思って調べたら、強襲揚陸艦とかに分類される艦で、通信設備が整っているものの、戦闘能力はほとんどないとか。
考えてみれば、合理的ではあるのです。旗艦は指令を出すのが仕事だから、通信に特化しているのは当然といえば当然です。
旗艦が最強である必要なんかありません。だって大事な艦だから後方にいるわけです。強い艦だったら前方にいなきゃだめです。最強の艦こそ最前線で活躍し、敵を圧倒しなければなりません。
創作物では、次々と戦力を投入し(しかも後に出てくるものほど強い)、盛り上がる戦闘になることがありますが、現実的には下策らしいです。戦力の逐次投入とかいわれるやつです。
しかし実際は、最初からありったけの戦力で戦い、一気に勝負をつけるのが上策とされるようです。
以上のように考えていくと、後方で守られている旗艦は弱くてもいいのです。何がラスボスだっていう話です。
でもねえ、なんか夢がないという気がしませんか。旗艦って、艦隊というモンスターの群れの中では魔王でしょ。魔王には強い存在でいてほしくないでしょうか。
こういうわたしのような読者や視聴者のために、創作物では巨艦巨砲主義や戦力の逐次投入などが今でもあるんでしょうね。リアリティーよりもロマンが大事という。それはそれで間違ってはいないと思います。
昨今はリアリティーが重視されることが多いですが、リアリティーとロマン(あるいは荒唐無稽さ)は、作り手(供給)と受け手(需要)の気持ちの一致点で決まるのが一番いいのかもしれません。
その一致点がどこなのか、簡単にわかれば誰も苦労はしませんが。