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終わる、春が続く。
大学生活最後の授業が終わった。もう期末レポートも出してしまった。
終わっていく。人生が動いた4年間が収束していく。
それでも、冬が終わっても春が来るように、まだその先がある。人生はまだたったの20年とちょっとしか進んでいない。僕はこの後も生活を続けなくてはいけない。
続きのある、通過点でしかない終わりは寂しい。終わった後もその終わりのことを「ああ良かったなあ」と思い出してしまうかもしれないから。
死を考えるよりも寂しい。死は本当の終わりだから、終わった後にその先について考えることもその終わりについて寂しいと思うことも叶わないけれど、卒業はただの節目でしかない。生活の一部でしかない。
もう寂しさすら愛おしいな。終わった後に残るのは名残惜しさとか郷愁みたいな、寂しさと同じような気持ちばかりだ。だから僕はそれらを愛していくしかない。そういう気持ちを大事に大事にしまっておいて、死ぬとき、死にそうなときに食べるんだ。寂しさは最後の晩餐か、非常食みたいないざというときの備え。味がするかどうかはそのときにならないとわからない。でも多分、僕の思い出はかなり濃い目の味付けだと思う。
卒論の口頭諮問(口述試験)が終わった。試験はオンラインだったが、部屋を出た瞬間に涙が出た。卒論のあまりの拙さに、先生方から言われたことがぶっ刺さったことも理由の一つではあるが、そこに試験が終わったことへの安心感と大学でのすべての勉強が終わってしまったことへの寂しさが加わって決壊した。
これで全部の単位が出れば本当に大学生活が終わる。
もう友達とわいわい勉強することも無ければ、課題への愚痴を言い合うことも無い。
廊下で偶然会って盛り上がることも無ければ、学食で「量多いな〜〜」と言い合うことも無い。
4年間、全然退屈じゃなかった。楽しいことも面白いことも苦しいこともないまぜになった、絵筆を洗いまくったバケツの水みたいな4年間だった。
卒業することは、次の絵を描くためにこの水を全部流して、バケツを一旦綺麗にするようなことに思えて寂しい。
人間は思っていたより孤独だけど、僕は思っていたより一人ではない。人には僕が知ってる以上の優しさがあったし、僕を好いてくれる人も思っていたよりたくさんいた。大学生活の勉強以外での一番の発見はこれだったと思う。
鬱になって学校にあまり行かなくなっても、時々会えば「会えてよかった」と言ってくれる友達がいて、僕はそれだけで救われた。
人と居ると劣等感に苛まれるくせに一人では居られないと言う、面倒くさい僕に居場所をくれたサークルのお陰で大学に居ることができたと言っても過言ではない。
人嫌いの人間が人を好きになる。
僕の通った大学と僕が身を置き続けた環境には、そういう力があった。
そして何より、鬱に飲み込まれて「もう死んでしまおうか」と考え続けていた僕を辛うじて生かしていたのは、やっぱり知的好奇心だった。
知ることをやめられない。知りたいと思うことをやめられない。死んでしまえば、もう何も知ることができなくなってしまう。そんなのつまらない、面白くない、もったいない。
この世界のことをもっと知りたいと思う気持ちが、崖の上に立つ僕の生に対する欲求を突き動かし、踵を返させた。
大学は僕の知的好奇心を満たしては、新たな知的欲求を次々に生み出させる。
知りたい。
もっと知りたい。
だから生きていたい、生きたい生きたい!!!
知識に対する執着が、僕の生に対する執着だ。この執着で生きていけるのなら、僕はこれを一生手放したくない。
学校で勉強する予定はこれからしばらく無いけれど、僕は知ることをやめるつもりは無い。
知り続けることは勉強だ。
だから僕は、この先も勉強を続けていくつもりだ。
大学を出る、知ることは続く。
終わる、春が続く。