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天竜の山桜

三月に
天竜川の対岸より
鳥羽山の桜が
咲きはじめたのを 眺めましたが
最初に咲いたのが
山桜の大木でした
その後
ソメイヨシノ桜などが咲き
春を迎えました-
      (鳥羽山桜遠望-Sさんの手紙より)

天竜川を鹿島橋で左岸に渡ると、
鳥羽山が正面から崖のように迫ってくる。
トンネルの手前で道路を斜めに右折し、天浜線の低い陸橋を潜った先で、車を駐めた。
道沿いには黒塗りの立派な門構え、庭を挟み奥まったところに、「筏問屋 田代家」は佇んでいた。
田代家にはその昔、江戸時代に材木の運送業「筏流し」で栄えた長い歴史がある。
その家屋は、材木をふんだんに用いた本格的な木造建築であり、質素ながら重々しい雰囲気を醸し出していた。

四月のはじめ、鳥羽山をおおい尽くすように咲いていた、満開の桜。あたかも、散り急ぐように季節はうつり、今は六月の初旬である。
梅雨のはじめを知らせる昨日からの雨が、今朝もしっとりと、若葉の森を包み込んでいた。

この日は田代家のお庭に植わっている、梛(なぎ)の木の苗を分けていただくお願いをしていた。
四月以来、ほぼ二カ月ぶりに訪れて、Sさんにゆっくりお話を伺うことができた。

今春、田代家では、桜の見頃にあわせて、山桜と和歌をテーマにした企画展を開催したところだった。
ここを拠点に活動しているのが、鹿島文化交流振興会のSさんである。早くも来春を見据えての、さまざまなお考えをめぐらせている様子であった。

Sさんによれば、桜の名所として知られる鳥羽山の桜は、明治時代からソメイヨシノが植えられてきた。
なので鳥羽山桜、といえばソメイヨシノの事かと思っていたら、実は山桜を指していたという。

今からおよそ300年前の江戸時代。
天竜出身の国学者・内山真龍(うちやま・またつ)は、鳥羽山の麓にある生家の近くに咲く山桜を、和歌に詠んだ。

『住所に桜の咲きたりけるを見て』

 霞(かすみ)立つ 春へになれば
 わきへらの
 この山里のさくらはな
 さきにけるかも 白雲(しらくも)の
 たてるやいつこ 白雪(しらゆき)の
 つもるやいつこ わきへらの
 この山里の
 花にそありける
          (内山真龍『田家歌集』より)

内山真龍は、国学を学ぶなかで、万葉集に詠まれた人々の暮らしや思いを知るために、和歌を詠んでいた。
おそらく天竜の地には、ずっと前から山桜が自生していて、人々は、これを大切に守り続けてきたのだろう。
そこから考えると天竜の山桜は、歌に詠まれるモチーフとして、遠州地方で知られていたのではないか。
内山真龍が和歌に詠んだ当時から、山桜文化として親しまれ、今もここに生きているのだという。

鳥羽山の山桜について-

おなじ場所にあるソメイヨシノが、
やはり時を同じくして花を咲かせるのとは対照的に
山桜は、その種類によって咲く時期がちがう。
三月に、天竜川の右岸から
鳥羽山を眺めた時、
一番最初に花を咲かせたのが
鳥羽山でもっとも大きい山桜であり、
そのあとにソメイヨシノ。そして、
道路が山越えする峠の上に立つ、白の山桜が
尾根をふちどるように咲き、最後に
濃いピンク色の山桜が山頂に咲くのだと。

かつての大和の国、
万葉の心の名所が鳥羽山にあると伝えたい。
-Sさんはこう言った。

以前Sさんにいただいたお手紙のなかに、
「宝物は足もとにある。これを発見し、研究・勉強することが大切」
というお言葉があったことが、思い出されます。
今あるものを、歴史が継承してきた遺産と共に魅力を引き出し、活用していく。
そうして新しい形で、次の世代に受けつがれていく事を願っています。
山桜と和歌をテーマにした企画展。
これは、今にして思い付かれたものではないと思います。
遠い昔から祖先によって育てられた、産業や文化の基礎があっての今、でしょう。
これが歴史の中で残されたり、形を変えたりして受けつがれてきたこの地、天竜。
日常を生きる人々の、気風の表れではないでしょうか。
また、今後の新たな人との出会いが、「筏問屋・田代家」の運営に活気を与えていく事と思います。

 山桜は
 山の斜面に点々と
 谷間にあって はなびらを
 埋めている光景こそ
 美しいと思います
 
 とおい昔
 歌に詠まれた
 山桜の名所が
 時代をこえて ふたたび
 ここによみがえることを
 祈ります

 山桜つやめきを秘すれば朱い思慮の影
 
参考文献:真龍講座叢書2・内山真龍著「田家歌集・     山歌の巻」天竜市文化協会、1995

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