坂口安吾「桜の森の満開の下」
-四方の涯(はて)を虚空と象(かたど)るもの-
桜の美に堪能できる文学作品といえば真っ先に思い出されるのが「桜の森の満開の下」(坂口安吾)である。所属している読書会のテキストとして読んだのがきっかけであったが、読み終えて数年が経った今もなお、私の脳裡に面影を宿している。今こうして文章を書いている私の、ペンを握る手に何らかの影響を与えているのであれば幸いである。
四方の涯を桜のはなびらに塞がれた「虚無」のなかに、静謐な哀しみがあたたかく満ちてくる。その透徹した美しさに、心をうごかされた。
決して綺麗なことばだけ散りばめた文章ではない。時として顕わで冷酷、世俗的でさえある。が、 空間の演出-淡い透明感がありながら硬質な空気に天蓋を張り渡すような描写は、潜在していた「桜の森」が次第に姿をあらわしていく光景の流れを繊細に描いて妙である。
物語の終焉において、四方の涯を何でもって塞ぐのか。やはりそれは、“桜の森の満開の下”でなければならない。物事を突きつめて考え抜くということをせず、見せかけの容姿、かたちあるものや目に見えるもの、金銭的な価値あるものしか認めてこなかった「山賊」。その彼が桜の満開を畏れつつ吸い寄せられていくように心境の変化を遂げ、最期に-見えぬものの存在を自らの自らの心に再現し、自らもまた無に帰した。これこそが、桜の花びらをおいて残滓を遺さない、日本の美の極致と言えるのではないか。
不安と畏れは孤独のなかにあり、人がそれらに同化した時、すべてが無に帰する。あとは、しほうの涯に見遙かす桜ばかり。
-桜が降っているというのに 見上げても 桜が降った様子がないのだ-