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浜松の象徴 松菱百貨店⑥ さやのもゆ

 松菱のあった日々
   ~浜松・遠州に生まれ育って~
 
 そういえば、松菱の前に、あれがあったよね。
 空襲を受けた中で一本だけ残ったっていうやつ。
 プラタナスの木だっけ?
 鍛冶町通りの、松菱からヤマハに渡る横断歩道の
 真ん中にあったんだよ。
 間違いない、オレの眼(まなこ)がおぼえてる。
      (和地山町・Tさん 昭和十九年生)
 
 僕は昭和十九年生まれ。和地山に住んでいたんだけど、子供のころは、母親が浜松の街に行くことを「下町へ行く」と、言ったんです。行くと言ったら、それはもう松菱しか無いわけですよ。だからよく遊びに行きましたね。お袋が連れてくんですから。こっちはただ、付いて行くだけで。
 松菱でお袋が何を買ったっていう記憶はありませんし。僕にしても、何が欲しいとかじゃなかったですね。着るものが買えるわけじゃ無い、靴下も繕って履くような時代でしたから。
 ちょうど僕が小学生のころで、戦後十年ほど経ったころ(昭和三十年前後)かな。
 松菱で一番覚えてるのは、屋上遊園地にあった回転飛行機(飛行塔)。乗り物をロープでグルグル回してたもんだから、もしアレが切れたら飛んで行っちゃうんじゃないかってー恐い思いをしたよ。
 それと、あとはお饅頭(松菱饅頭)。地下で売ってて、機械が回りながら焼いてくやつだけど、松菱マークの焼き印が押してあって、中は白あん。やっぱり、あれが楽しみでしたね。
 話してるうちに思い出したんだけど・・・松菱に行くときはアレ、「木炭バス」に乗ってった。
 その当時はボンネットバスで、後ろの釜に薪を入れて燃やして動かすやつ。街なかを、煙を吐いて走ってたんだよ。燃料がない時代だったもんでね。で、浜松駅で薪を補充するわけだ。
 あれ?僕より三、四年若い人が知らないところを見ると、ちょうど切り替えの時期だったのかな?
 もっともその頃は、ちょっとした年代の違いが大きかったからね。そうそう、奥山線(軽便鉄道)でも行った。今のコンコルド浜松(ホテル)のとこに「元城(もとしろ)駅」があって、僕は和地山だから、「上池(かみいけ)」の駅で乗って行きました。
 松菱に行った時で、今も忘れられないのが、外の角ごとに居た、傷痍(しょうい)軍人さん(戦争で負傷した人)。
 白い服を着て松葉づえを突き、前にブリキ缶を置いていた光景が、強烈に印象に残ってる。

 ―子どもたちの遊び場だった、松菱―

 僕が子どものころ、家から駅南に抜ける時は、
 鍛冶町の地下道で東海道線をくぐって行ったん
 だけど、大雨が降ると、水がヒザまで浸(つ)
 かったんだよ。
 もうひとつは、平田(なめだ)の踏切。これが
 また、「開かずの踏切」って言われてて-。
 だから、遮断器が上がると急いで渡ってた。
 その頃はまだ「踏切番」がいて、手で遮断器を
 下ろしてたんだよ。
     (千歳町・Sさんー昭和二十五年生)

 私は千歳で生まれ育ったもんで、学校は元城小学校に通っていました。
 通学路は、行きはモール街を通ったけど、帰りは必ず、道草を食ったよ。なんせ、その頃は商店街がスゴかったもんで、劇場とか芝居小屋とか、寄るとこがいっぱいあった。だから、帰りは街を通りぬけて家に着くまで、一時間はかかったね。
 それで、長い道草の一番最後はいつも、「松菱」に寄って。でなければ、家に帰れんくらいだった。紳士服売り場で遊んだり、あと、エレベーターに乗るのも(キレイなエレベーターガールのお姉さんがいるもんで)楽しみだった。
 とにかく「松菱」は、僕にとっての遊び場でしたね。エスカレーターが出来た時(昭和三十一年)なんか、手すりにまたがって滑り降りたりして。でも、上手くコントロールしないとー降り切った所で痛い目にあうから、気を付けていたけど。

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