ゲーム世界のリアル、わたしたちのリアル
てっけんさんの『「昔のゲームの方が想像力を刺激されて良かった」は本当か』という記事を読んで、僕はある一冊の本のことを思い出した。
メディアクリエーターである佐藤雅彦さんの『差分』という本だ。
この本は「読む」というより「見る」タイプの本で、「差分」という概念をテーマに制作されたグラフィック表現、その作品集となっている。
今ちょっとこの本が手元にないため記憶を頼りに描くが、確か以下の図のような作品が収録されていた。
点線でできた立方体が2つ。
一方は「点線の立方体」単体。もう一方の「点線の立方体」には人間の手のイラストが加わっており、人差し指はあたかもその架空の立方体の辺をなぞっているかのようだ。
「点線の立方体」などというものは現実にはありえない。だがそこに「人間の手のイラスト」が加わることで、それを手がかりに鑑賞者は「点線の立方体」の奥行きや手触りを仮想的に感じ取ることが可能になる。......この作品に関してはそんなような説明だった(錯視と同じで人間の脳が間の情報を勝手に補完しちゃう〜みたいな脳科学的な説明もあったような気がする)。
「点線の立方体」単体と、「点線の立方体」プラス「人間の手」。その2種類の図を見比べ、「差分」をとることによって生まれる何らかの感覚。aとbの関係性の中だけに立ち現れるリアル。現実にはありえないものも、ある意味では「リアルに」感じ取ることができる。
思うに、「昔のゲームのドット絵から想像できるリアル」というものにも、そういった「差分の結果としてのリアル」があるんじゃないだろうか。
ちなみに自分もどちらかと言うとてっけんさんと同じで、ファミコンやゲームボーイのゲーム世界を「あれはああいうもの」として受け取っていたクチです。そういう物理というかルールというか、写実的とは言い難くも「そのゲーム世界のリアル」が確立されている。それを無意識に認めた先で「わたしたち現実世界のリアル」と「そのゲーム世界のリアル」とがキャラクターの操作を介して部分的に通じ合う、さらにそこから生じる共感とギャップがないまぜになる......。
だからこの場合でいうと「想像を膨らます」「想像している」とはちょっと違う気がするんですよね。「想像している」というより「(共感とギャップのブレンドとしての)別種のリアルを楽しんでいる」。重ならない部分の方がはるかに大きいけれど、重なる部分も少なからず存在する。純度100%のウソではないからこそ信じてしまうわけです。
若干話が逸れますが、これって「道具の身体化」って現象とも近いんじゃないかな〜、と。「紙を直線に切る」という目的があったときに、人の手だけでは綺麗に直線に切ることができない。対してハサミ単体では動力も何もないからそもそも紙が切られることがない(人と比べるとハサミそのものは実現可能なことがものすごく限られている)。人とハサミが組み合わさって、「人がハサミを使って」はじめて紙が直線に切られる、みたいな。
......途中からリアルリアル言いすぎてわけわかんなくなっちゃった感じですが、ゲームを遊ぶときにはそんな「第三の現実感」があるように思うのです。