大好きな人にフラれて泣くあなたを 慰められるonly oneである幸せよ
昨今はテレビドラマでもナチュラルに「アロマンティック・アセクシュアル」的なキャラクターが登場する。アロマンティックは恋愛感情を持たない、アセクシュアルは性欲を抱かない性的嗜好のこと(な筈)です。
無性愛であると自認する人々には特にたくさんの種類がいるため、無性愛は幅広い定義を包摂しうる。研究者は一般的に無性愛を「性的な惹かれや性的関心の欠如」と定義するが無性愛者らの定義は様々である。「性的な欲求が少ないか、もしくはない人」「性的な行為が少ないか、もしくはしない人」「恋愛的な関係・性愛的でない関係のみを持つ人」、または「性的な欲求および行為の両方がない人」を示す用語として無性愛は用いられることがある。また、無性愛であるという自認(帰属意識)も定義上の要素となりうる。
昨今においては人格、身体的特徴、趣味嗜好、性自認なども含めて個人個人に内在する独自性(=アイデンティティ)を認め、批判はナンセンスですよという雰囲気が席巻する「なんでもOK」の世の中になってきた実感がある。個性は素晴らしいと只々日々礼賛する個性偏重教育の賜物なんだろうか。というかなんでもかんでも個性という言葉で片付けてしまうのはどうかしてる。所詮心の中では他人の異質性にラベルを貼ってカテゴライズしておきながら 個性ですね って流すときの、欺瞞に満ちた人が信用できない。個性的な人だねって褒めてくれる人は概ねこちらに悪意を持っていることが多いように思える。心のこもっていない褒め言葉は裏を返せばチクチク言葉。
わたしは個性それ自体は大事だと思うけど、個性を推す風潮がどうも受け入れられない。大学入試の小論文試験のテーマが「順位を付けて競い合わせる教育方針についてどう思うか」だったので、
①順位付けして然るべきである
②周りの人間との能力差を知る機会のない人間は停滞する / 評価基準を有耶無耶にすることで評価者のタスクが重くなり非効率的
③個性とかオンリーワンとかいうワードで取り繕い、社会で失敗した場合すべてが自己責任になってしまうなんて非道すぎるから子供のころから競争を体験させてもいい
無難な感じに書いたら埋もれると思って攻めた内容で出したんだけど、面接のときに「教育関係や児童分野に携わるつもりはあるのですか?個性的な小論文を拝見したものでつい、そのへん大丈夫かなと」とチクチク言われてしまった。近頃は相対評価というのはあまり好まれないらしい、それはわかるけどここでまさか個性っていう言葉をかけられるとは。個性を発揮しなさいとか好きなことで生きていけるんだとか刷り込みしつつ、個性をアピールしたら煙たがられるなんてさあ。だって荒削りで尖ってるほうが良いって医大小論文対策の教師が言ってたんだもん。自分は医大受けないド文系の末端だけどさぁ。面接で人の良さをアピールすることで挽回しないと死ぬというギリギリの万事休す状況に追い込まれるとは。
個性に関する個人的怨みはおいといて
恋愛やセクシャルな部分についての多様性がなんびともみとめられること自体についてはすごくいい傾向だと思います。偏見を拭うとまではいかないのかもしれないが、ネガティヴな意見を投げられたとしたってそんなヘイトは一切受け付ける必要はない。
恋愛だけでなく婚姻関係についても。選択的夫婦別姓?とかそういう言葉、ファッションのように流行ったよね。戸籍の紙切れ一枚で貞操義務が生じるってあまりピンとこないし、離婚の時に女性ばかりが面倒な諸手続きをしなきゃいけないのも辛く、男女関係におけるフェアネスとは何でしょうかと思ったことがある。だから同性を好きになれたらいいなあ〜とか結婚せずに子ども産みたいなとかそもそも無理にパートナーを探す必要ないよなとか考えをめぐらせたりしていた。
自分に影響さえ及ばなければ他人さまがどんな恋愛してようとどうでもよい。恋愛の在り方なんて社会通念に照らして考える必要は無いわけだし。
THE・恋愛みたいな前世紀商業パッケージ的な関係はそもそも不要なのかもしれません。
恋愛感情抜きに他人を純粋に好きでいることができるなんてどれだけ素晴らしいことか、と思う
高校時代から知り合いの男の子が多分アロマンティック・アセクシュアルだった。しかもすっごくモテた。
・特定の好きな子が出来た記憶がない
・性別に関係なく「情」のようなものは湧く
・毎日違う女の子が部屋に泊まりにくる(無施錠)
※圧倒的【人畜無害】感、これがモテる秘訣
学生のとき部屋に教科書を届けたら
「シュークリーム好きだったよね、材料あるから作ってあげる」と言って突然お菓子作りを始めた。
なぜか朝まで「薄気味悪いくらいの無償おもてなし地獄」が続いて、気がついたら不覚にも癒されている。テレパシーなのか疲れたら適度に放置されるし喉が渇いたら無言で茶が差し出されるし、なんだか気持ちいい。この男は周りの老若男女を観察して、分析して、勘所をすばやく押さえることにとんでもなく長けているおそろしいやつだが、同時に悪質な人たらしの面も持ち合わせている。彼を好きになってしまった女の子たちが心を病んでいくさまは今思い出しても筆舌に尽くしがたい。
ヒトを手繰り寄せてしまう万有引力的な磁場(=欲望喚起システム)を持っている人がいる。
「恋愛とは一線を画した、恋愛とはまた別の、愛情のようなもの」を与えられるというのは滅多に経験できないことで、それを貰った人は特別感をおぼえるんじゃないかと思う。父親のような厳格さも包み込むような母親の優しさも持っているのに常にニュートラル、で接してこられて妙に探究心をくすぐられるような。
恋愛関係を結ぶことにおいてはまぁ少なからず性的な欲望が駆動する。しかしヒトは性欲と恋心を履き違えてしまうこともあれば、むしろ欲望自体がハブになって人を口説くなんてこともあると思うんだけど、肉体関係がゴールになってしまう不毛恋愛は醒めて終わるのも早い、、、
2か月前、23時30分ごろその彼がいきなりシュークリームを持って現れた。車を買ったのでそのまま300キロ運転してて、なんか疲れたから甘いものを食べようと思ったらちょうどお前の住んでるあたりに来たので。と言っていた。LINEアカウント変えたの知らせてないからTwitterのリプで連絡してきた。お互いに異性としての関心も執着もないから、ここまで友情を育めたのかもしれない。
この子は大切な友人のひとりだからアロマンティックだろうがアセクシュアルだろうがなんでもいいので、自分の望むかたちで幸せになってほしい。
〝恋愛なんかの枠におさまるふたりじゃないのよ‘’という宇多田ヒカルの歌詞(Time)があったが、この一行ほんとにいい。記事の表題もTimeの大好きな歌詞。宇多田ヒカルの新譜を聴くといつも考えさせられるんだけど、この人の曲は所謂【彼氏彼女】が最上の関係性とは描かれておらずむしろ性だとか愛だとかを超越した関係のほうに重きを置くことが多いから最近気に入って聴いている。
好きとか愛しているとかじゃないけどソウルメイトみたいな、心の通じる、そんなひとをわたしは大切にしたいと思う。