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無関心について私なりの考察
Instagramにて『無関心』というタイトルにてPostしました。
内容の概要としては
小学4年の時に読んだマザーテレサの伝記の中の
『愛の反対は無関心だ』という言葉が当時の自分には重くのしかかった、というお話です。
その事について考察をinstaの文章に書いていたのですが、、、、
なんか長くなりまして。
せっかくなので、こちらでじっくり書こうと思い今に至ります。笑
重複してる部分もありますがお許し下さい。
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【愛の反対は無関心】【好きの反対は嫌いではなく無関心】
幼いながらに、この言葉と出会った時は衝撃を受けました。
と同時に無関心って一番残酷だ、と当時の自分は考えました。
ある時、ある男子に「あ、もよこさんいたんだ。なんかもよこさんって存在感薄いよね。」とあっけらかんに言われました。
その男子の口調から悪気は感じられず、
私を見て「そういえば」の感覚で軽ーく言った言葉のようでした。
その男子はスクールカースト上位の子でしたが、困っている人に絵の具を進んで貸すような心優しい子でした。
その心優しい彼が何気なく言った言葉です。悪意なんてないに決まっていました。
私は
『やっぱりそうなんだ。この子が言うんだから、きっと皆もそう思っているんだろうな。私って存在感ないんだ。皆私に無関心なんだろうな。』
とぼんやり考えました。
その出来事があった後、
マザーテレサの例の言葉を見つけたのです。
そして男の子に言われた言葉の意味がずっしりと心に乗しかかりました。
『この学校で私に関心がある人はいない。
私なんて居ても居なくても誰も分からないんだろうな。興味なんてないんだから。』
そんな風に思いました。
誰も知らない世界にポツンと漂っている感覚がありました。
・・・今考えると大袈裟ですよね。
関心が向けられないのを周囲のせいだと捉えるなんて。凄く幼かったなぁと思います。
人間関係は鏡でもあります。
人から関心を向けられなかったのは、私が周囲に関心を向ける努力をしなかったから。
その努力が見えなかったから、皆私に話し掛けなかったのだと思います。
当時の私はその努力をして自分が傷付くのが怖かったのだと思います。
傷付くぐらいなら最初から1人でいよう、と考えたのかなと思います。
どこかで書きましたが、場面緘黙は一種の自己防衛だと思うのです。
自分を守る手段がそれしかなかったんですよ。
でもその手段で孤独となり、生きづらくなるなんて当時はわからなかったのです。
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一方で大人になる成長過程で人間関係におけるトラブルが生じた時、この言葉を度々思い出しました。
「この人に興味が持てないな。」と思えば、関係修復することを手放しました。
逆に「憎いな。だけどもやもやする。」と思った時は話し合う等しました。
【憎い=無関心ではない=好きな部分もあるのでは】
と考えたからです。
そのためこの言葉は人間関係の取捨選択の指標にしました。
私は思い込みが激しく些細な事に傷付きやすいです。
自己発信する事が苦手であり、また人に“聞く”事を躊躇してしまうため、まずは自分でじっくり考えるタイプでした。
言い換えると【思い込みが激しい】【自己完結型】【人から誤解を受けやすい】と言えます。
全ての人の顔色を伺い、好かれるべきかと考えたこともありましたが人間関係に疲れ切ってしまった時がありました。
『もう人間、いいや。1人が楽だ。小学生の時みたいに1人になろうか。』と思った時もあります。
関係を取捨選択しなければ、自分を保つ事ができなかったのです。
そのため、この言葉は私自身を保つ上で役に立ちました。
子供の頃に感銘を受けた言葉は自分の人生において力を発揮して、役に立ちますね。
あの時、あの言葉に出会えて本当に良かったなと今では思えます。
幾度となく、私を助けてくれました。これからも役に立つだろうな、と思います。
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