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収入 144 円、支出 0 円/死の影が追い払えなかった50日目 。

もやしが過ぎたため社会から落下してしまいました。ひとり暮らしでひきこもる限界生物やっています。もやしの生きれる場所をネット上に模索して右往左往しているところです。もやしの日常を切り取りつつ収入・支出も公開しています。もやしはみんなに生かしてもらえるのかをテーマに毎日更新がんばります。よろしくお願いします。

もやしの生活費


収入

   note : 49日目 0 円 (total 2800円)

   ALIS : 82日目 +89 ALIS 

   トレードの練習 : 55 円(証拠金 9960円)


支出

0 円


ALIS が遂に1円台だ。同じ時間を使うなら道に落ちてるお金を探す方が有意義だと冗談で言っていたことがあるが、最早それは冗談として成立しない。



本日の記事。

死なない方法についてコメントもらった返事。

ちょっと言いがかりを付けてみた。


本日の未活動。


良い記事を読んだ。



最近死にたい話ばかりしている気がするが、そういう時期なのだ。普段は月末鬱から月初になると急激に回復するのだが、今回はなかなか回復の兆しがない、しかし気にしなくて大丈夫だ。僕が本当に死ぬのはカードローンが借入限度額に達した時であって今ではない。

僕は人生の大部分を死にたいと思って過ごしてきた、言わば死にたがりのプロである。その僕が断言する、上の記事は本当に良いことを言っている。

死にたいと思っている人なら誰でもわかると思うのだが、死ぬのはいけないことだ、という台詞には何の力もない。死んではいけない、命は大切にするべきだ、君が死んで悲しむ人もいるだろう、生きたいと思っているのに死んでしまう人だっているんだぞ、全て無意味な言葉だ、何一つ響かない。

これらの言葉は思うに死にたくない人の心には響くのだ、だから死にたくない人は死にたい人に対しても、きっと響くだろうと思ってこれらの言葉を言うのだろう、だが実際は死にたい人にこれらの言葉は届かない。

だから死にたくない立場の人が、そのことについて言及してくれるのはとても意味があることだと思う。なぜなら僕のような立場で何を言っても、それは死にたがりの戯言だと思われるだけだからだ。

上の記事の中に出てくる、死にたいままで生きててもいい、という言葉は確かに死にたい人に届く力を持っている、死にたいという気持ちを肯定されること自体に確かに何かしらの力がある、何故その言葉に力があるのか、一体その力は何なのか、についてはよくわからないのだが。


ところで、死にたいという気持ちを消す方法というのは無いのだろうか、死にたいまま生きるということは、死ぬまで死にたいと付き合うということなってしまうのだろうか。

僕は、こんなに死にたいと思いながら生きているくらいなら死にたい、という気持ちもある、鶏が先か卵が先か、といった話であり、死にたいから死にたいという全く論理的でない気持ちなのだが、確かにそういうものがある。

根本的な死にたい理由が消えることなく、死にたいままで生きるということは、死にたいから死にたいという気持ちとも一緒に生きるということだ。これはそれなりにしんどいのである。

そこのとこは、もう自分で何とかする以外にどうしようもないのだろうか。

まあ、こうした方が良いよなんて方法があるのならば、誰も死んだりしないので、この話にはキリが無いのである。キリが無いので、ここで自らキることにしよう、しかし僕の命はまだここではキらないので大丈夫である。




お読み頂きありがとうございました。明日も見てね。

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