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存在感0・発言権0というわけではなかった

よく卑屈になるシチュエーションがある。

ほかの人には愛想よくしているのに自分にだけ冷たい対応をされる状況。

それをする人に対して憎しみがわいてくる。

こちらは愛想よくしてるのに何が違うの?
何も悪いことしてないのになんでそんな態度や扱いをされなきゃいかんの?!
死んでほしい!とまで思ってしまう。

こんな腹黒野郎、その腹黒さをみんなの前で暴いてやりたい!という気持ちでいっぱいになってしまう。

そんなことに時間を労力を使うのは無駄なのにそのくらい自分の尊厳を傷つけられたように感じてしまう。


そんなことが今日もあった。
いつものようにラインが朝起きたら50件近く進んでいて「私はいなくても成立するんだよな」といつもグループの中で自分の存在意義のなさを感じてみじめな気持ちになって卑屈になる。

自分がいなくても成立している会話をみるのは辛い。

でも勇気を出して(そんなことを何年も続けなきゃいけないグループはそもそも自分には合っていないんだけど)開いてみたら「モヤけしの意見も聞いてみよう!」とメンバー同士が私の返信待ちの状態だった。

一応みんなの中で私もメンバーとして多少は発言権があったみたいだ。


その直前もいつも中央を陣取って真っ先に写真をとる子がいるせいでもらうばかりになるし自分のカメラではうまく取れないアングルになりがちで、そんな中、中央からとることができれば自分でもいい写真が撮れるということに気づく出来事があったことで、「私は写真が下手」という思い込みが外れた。

別に下手ではなかったし、どこをどうするとよくなるのか日々研究して試しているから少しずつうまくなってきている。

そんな矢先、その子がいつものように送ってくれた写真はたくさんあるけどその子の子供中心に取られていて中央を陣取っていたはずなのにアングルが気持ち傾いていて、その子の後ろから撮った私の写真はとても子供たちが自然な笑顔で写っていて親が映り込んでいなければ完璧な写真だった。

その2枚のどちらかをラインのアイコンに変えない?という提案があってそれぞれ自分の撮った写真の方がいいとなったところ、残りのメンバーもきっとその子の方を選ぶんだろうなと思っていたら私の写真を選んでくれた。

みんな私は何もできない人と思っているんだろうな、といつもどこかで自分の特技や環境の自慢話ばかりしてるから、その自慢話の上を行くことができない自分は立場がなかったけど、だれも私のできることにライトを当てられる人がいないだけで、あと自分も派手さがなくて埋もれてしまうからアピールしてもみじめになるだけだから言わなかっただけだけど、私もまったく何もできない人なわけじゃないと本当は思っているし、それをわかってくれてライトを当ててくれる人に出会えるのを待っていた。

自分でアピールするとどうしても自慢ぽくなるし難しい。


で、結局今日書き残しておきたかったポイントは「どうせ私には発言権も存在感もないし」と思っていたのにグループの中で写真を選ばれたり、返事を待っててくれるやりとりをされていたという現実があったという思い込みとのギャップ。

どうせと思っているとそのあとに続く妄想は必ずネガティブになる。


そう思ってるけどそうじゃないこともあったよね。という覚書き。

今日は不思議と3回横断歩道を渡っても両サイドの車が止まってくれた。


そういう日もある。


いいことがあると祝福されてる!といつも思う。

悪いことがあると何かしたかな?と思う。


本当はただ何かしらが起きているだけだけどそこに自分の言動と結び付けて原因や意味を探そうとしてしまう。


この出来事から今日さらに気が付いたのは相手を自分がどういう人と思い込んだのかで自分がそれならこの人は自分のことをこういう人と思っているだろうと思い、自分の言動が相手の言動に振り回されているということ。

自分は相手がどうであれ人としてどうありたいのかという原点に立ち返ると無欲でただ人として親切な人でありたい。

でもその一方で弱みや優しさにつけ込む人もいるのを知っているから真心を傷つけられるのを防ごうとすると優しくできなくなっていく。

傷つけられることを織り込み済みでそれでも人として優しくあり続けるのか、傷つける相手とわかったら離れるか。

ただのお人好しで利用されて馬鹿だと思われるのも嫌だ。


自分が相手をこういう人とネガティブなラベルを貼る人は私がもっとも嫌うことをする人だ。

本人はそのつもりはないかもしれないが私は仲間外れをする人をもっとも軽蔑している。

そこには権威には媚び売って人を出し抜こうとしたり、そうやって態度を変える人も含まれる。

結局のところほかの人にはいい人なのに自分にはよそよそしかったり心を開いていないと感じたとき、その人は私の中で嫌な人に分類される。


それを感じる感度が高すぎる。

なぜその人がそれをするのか、自分の何がそれを引き出してしまうのか。

最終的には相手のようで自分の心に行きつく。


昨日、子供が友達を男女で遊び方を区別しているのを見て、相手の子は同じにしてほしそうだったから意地悪をしているようにも見えた。

男女という区別なく友達として遊んでいるのにうちの子は男の子か女の子かで区別した。

それが仲間外れをしているように見えたのは私の中の「仲間外れゆるさん」センサーが働いたからで本当かどうかはわからないけどその子の親は気にしてなかったと言っていた。

その子はその子で草をかけたりしてたからお互い様名部分もあるけど、その子は口が達者だから下手に言葉で攻撃すると傷つけられそうで、自分の子供の言葉遣いが相手の達者ぶりを刺激してしまわないかヒヤヒヤした。


私が見るべき心の問題は仲間外れにされたときの悲しみと本当はどうであってほしかったのかとその時何が起きていて自分は何をしてそれがどう受け止められた可能性があるのかまで俯瞰して眺める作業かな。

心の傷を癒すには本当の気持ちに寄り添ってあげるだけでいいとよく言われているし、そうはならなかった理想を想像してもみじめになるだけ。


この思い出も癒してあげたい。

そうしないといつも態度の違いを見つけるたびに相手を敵認定してしまう。


分かっているのは寂しさと悲しさ。


これもワークしたら結果を書き残しておこう。



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