創作においてスケベ心を出してはならないという話
一般的にスケベ心なんてものはむしろ出していいタイミングの方が珍しいものだが、創作においては本人の自覚なくスケベ心が露出していることがある。創作時のスケベ心には、自分では気付きづらいのだ。
数年前から趣味で漫画を描き始めた。その前はノベルゲームを作っていたこともある。創作は楽しい。ノリに乗って書いていると、脳内に何らかの物質がドバドバ分泌されているのがわかる。ただ、そんなふうに調子よく筆が乗っているときこそ、手を止めて自分に言い聞かせる言葉がある。それが、
「スケベ心を出すな!」
である。
別にエッチなものを作るなとか自分の性癖を入れるなとか、そういうことではない。以下、少し時間を遡ってこの言葉の詳細を書く。
十数年前、当時大学生だった私は「文章論」という授業を取っていた。文字通り、文章の書き方を学ぶ授業だ。
私は文学部でこそなかったが、文章を書く系のサークルに入っており、書くことは好きだったし、わりと得意な方だとも思っていた。だから、初回の授業で提出した課題(原稿用紙1枚分のエッセイ)にもちょっぴり自信があった。2回目の授業でこの課題の講評が行われると聞いて、少しウキウキしながら授業に臨んだのを覚えている。
授業が始まり、早速先生(40〜50代くらいの男性)から課題の講評があった。
「みなさんの課題読みました。提出ありがとうございます。まず全員に言わせてください」
「スケベ心を出さないでください」
教室中がぎょっとしたのがわかった。あまり授業中には聞かないワードだ。スケベ心……? 教室に満ちる不穏な空気。先生は話を続けた。
「こんな授業を取っているんだから、きっとみなさんは文章に多少なりとも自信のある人なんでしょう。だけど、そういう人に限ってスケベ心を出すんです」
「いいですか。誰かの言葉を借りたような、手垢のついた表現を使うのはやめなさい。もったいぶった、奇をてらった表現もです。そうやって書くのはあなたたちの心に『うまい文章を書いてやろう』というスケベ心があるからです。そんなつまらない文章を書くんじゃありません」
「この授業の課題では、そういった表現は一切禁止します。スケベ心禁止です」
思わぬ禁止令に教室が静まり返る。恐らくその場にいたほぼ全員が自分の出した課題を思い出していたに違いない。少なくとも私はそう。しかも私の書いた課題と言えば……
当時ハマっていたエッセイストを真似た言い回し。
大してピンときていないのに使ってみた比喩表現。
意味もなく引用している漫画のキャラクターのセリフ。
まぎれもないスケベ心!
隠していたエッチな本が見つかるのと同じく、自分のスケベ心を見透かされるのもかなり恥ずかしい。私が脳内でのたうちまわっていると、先生が1枚のプリントを配り始めた。
「昔僕の授業を受けた学生が書いたものです。わりとよく書けているので、みなさんも読んでみてください」
それは、今回私たちが書いた課題と同じ、400字のエッセイだった。内容はというと「魚市場で魚の稚魚を買い、それを甘辛く煮て佃煮(イカナゴのくぎ煮という兵庫あたりの郷土料理)にする」というお話。ごくシンプルな文体で、洒落た言い回しも、個性的な比喩表現もない。
ただ、魚市場で水揚げされた大量の稚魚が透き通って美しかったこと。砂糖醤油で煮ると透明な稚魚が飴色に染まっていくこと。そんなことが、本当に目に浮かぶように書かれていた。私はイカナゴの稚魚を見たことがないし、くぎ煮にしたこともないが、まるで自分の思い出のように頭に浮かんだ。十数年経った今でもこうして覚えているくらいだ。
これがスケベ心のない文章!
衝撃を受け、そして心から納得した。
こんなお手本のようなエッセイでも先生的にはまだ気に入らないところがあるらしく、読みながら「ちょっとここの言い回しはなぁ」などと文句をつけていたが、最後に
「そうそう、これを書いた人は卒業後作家になりました」
と言い添えてその日の授業は終わった。この一連のくだりも含め、今でも覚えている印象的な授業である。
さて、話は戻って「スケベ心」について。先生からあれだけ言われたのに、いまだに捨て切れないスケベ心。今でも、描きあがった漫画を見て「ああ、スケベ心出てる!」と思う時がある。描いている時点では気づかないのだ。それどころか
「おっ、いいこと思いついたぞ!これをこうすれば……!」
と目を爛々と輝かせて描いているもんだからより危険だ。そういって思いついた箇所は、それ単体で考えるとよさそうに見える。ただ、全体を見ると浮いていたり、妙に説教臭かったり、どこかご都合主義だったりするのだ。だから、気持ちよく描けたときこそ、時間を置いて見直して、あらためて自分に言い聞かせている。
スケベ心を出すな!
この文章中にもスケベ心が滲んでいないことを祈りつつ。おわり。