岩波ホール閉館に。
久々のnoteです。岩波ホールが今年7月29日で閉館する--このニュースが流れてから2週間。ようやく何か書いてみようという気持ちになりました。
1月11日の朝10時頃だったろうか。岩波ホールの支配人、岩波律子さんから電話をいただいた。「今年7月29日で閉館することになりました。今日これから11時にホームページにアップするので、お付き合いのある会社にはその前にと思ってお電話しました」。
青天の霹靂!
目が飛び出るというのはこのこと、というくらいに、自分でも驚くくらい目を見開いた気がする。返事の最初は「え!!(絶句)」。けれど、その2-3秒後には、「こんなに早くこの日が来てしまったのか」と、どこかやがてこうなることもあるかもしれないと覚悟していたような気持ちも、ふわふわと浮かび始めた。
ムヴィオラではこれまで20年近くにわたって多くの作品でお付き合いがあった。2月26日からは『金の糸』というジョージア(以前はグルジアと呼んでいた)のラナ・ゴゴベリゼ監督の映画を岩波ホールで公開する。
最初の映画は2004年に公開されたバフマン・ゴバディ監督の『わが故郷の歌』でこれは配給はオフィスサンマルサン、私は宣伝を請け負った。今は亡き高野悦子さんが来日したゴバディ監督のために催してくれた歓迎会で、感激した監督が胸に染みるようないい声でクルド民謡を聞かせてくれたことをよく覚えている。翌2005年もゴバディ監督の『亀も空を飛ぶ』の宣伝、2006年に『赤い鯨と白い蛇』というせんぼんよしこ監督、香川京子さん主演の映画の宣伝、2007年はフランス映画『約束の旅路』の委託配給、2009年に初めて自社配給としてイランのハナ・マフマルバフ監督の『子供の情景』を公開した。以後は、2010年『パリ20区、僕たちのクラス』(宣伝)、2012年に『オレンジと太陽』(配給)、2015年『パプーシャの黒い瞳』(配給)、2016年『ヴィオレットーある作家の肖像』(配給)、『緑はよみがえる』(配給)、2017年『草原の河』(配給)、2018年『葡萄畑へ帰ろう』(配給)、2019年『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』(配給)、『エセルとアーネスト ふたりの物語』(配給)、2020年『巡礼の約束』(配給)と続き、2月に公開したチベット映画『巡礼の約束』はコロナのパンデミックによって岩波ホールが休館し上映中止。翌年の3月に「チベット映画特集」という形で再上映をさせていただき、そして2022年2月26日公開の『金の糸』(配給)がムヴィオラの最後の上映作品になる。宣伝作が4本、配給作が12本と特集上映を一度。19年で合わせて17の興行をご一緒した。濃いお付き合いだと思う。
加えて言えば、私自身が岩波ホールの観客だった。ホールのある神保町は都営三田線が通っていて私の実家から地下鉄で1本という身近さがあり、同じ理由で、水道橋から歩いていけるアテネ・フランセ文化センターや家から近い池袋の文芸坐が、「自分で見に行く映画を決める」年頃になってからの気に入りの場所だった。初めて岩波ホールで見た映画は1976年に公開されたジャン・ルノワールの『大いなる幻影』。最年少の観客だったかもしれない。映画はさっぱりわからなくて、だいぶ後にフィルムセンターでルノワールを見て、「こういう映画だったんだ」と思った。次に『フェリーニの道化師』を見た。私はサーカスが好きで、特に道化師が好きだったので、ものすごく泣いてしまった。それから今日に至るまで、自分の仕事でお付き合いした映画を除いて、おそらくは100本は軽く超える映画を見たと思う。1月14日付けの中日新聞によると岩波ホールは「六十五の国・地域の二百七十一作品を上映」とあるので、随分たくさんの映画を見たのだと思う。
今回の閉館に際して、「岩波がリードしてきた教養主義の終わり」と書く人もいたが、「教養」の何たるかもわからない年端も行かない私はただスクリーンに映る映画を見るだけで、「教養主義」にもさっぱり気づいていなかった。大学に行っていない私は、大体のことを映画館と日々の暮らしという街場で学んできたので、岩波ホールで見る映画は「知らない世界」の窓のようで「へぇ!」と思うことばかりで何を見ても楽しかった。
だから「こんなに早くこの日が来てしまったのか」という、うっすらした予感があったとはいえ、観客としても長くお付き合いしてきた映画館が、こんなにも呆気ない閉幕を迎えるとは思ってもみなかった。もちろんホールの運営に関わる人たちはもっと前から閉館の準備をしていたのかもしれないとも思う。けれど、「さよなら、岩波ホール」のような上映はまだ発表がない。できるならば、これまで上映された作品から今も上映ができるものを集めて、特集上映をしてほしい。もしやってくれるなら、作品集めでもチラシ作りでも告知でも、私も協力したいと思う。
その昔、広告の仕事を始めた当初、憧れていたコピーライターの秋山晶さんはサントリーの広告で「時代なんてパッと変わる」と書いた。その当時は、坂口安吾の「堕落論」にも共感した。その通りだと、どこか先人たちへの宣戦布告のようなその姿勢を「かっこいい」と思った。それでも一方では、岩波ホールやアテネ・フランセ文化センターで映画を見るのが好きだった。それは大学で映画史に触れるという機会を持たなかった私には、映画史に触れる機会でもあり、後年になってからは世界が経験した歴史を映画に描かれた人を通して知る機会だったからだと思う。
時代を変えたのは、秋山さんのサントリーのCMは「バブル」で、安吾の「堕落論」は「敗戦」だったのだろう。それで言えば、「観客の高齢化」「オンライン予約ができないこと」「鑑賞環境のシネコンとの落差」など閉館を伝える記事の分析はいずれも正しいとは思うが、岩波ホール閉館は、やはり「コロナ」が最後の直接的な引き金だったのは事実だと思う。「コロナ」で映画は変わる。映画興行が変わる。生前、高野悦子さんは「継続は創造だ」と言ったそうだ。裏を返せば創造がなくては継続はできないということなのだろう。今、たくさんのものが変わる時代になり、映画もまた変わる。それでも何が変わってもそこに厳然と映画史はある。映画が好きでたまらなくなった頃、映画史は何よりも楽しい宝の山だった。映画史はバレエのバーレッスンのように、どんなふうにでも動かせる体を作る基礎にも似ていると思う。昨年、配給した『スウィート・シング』のアレクサンダー・ロックウェル監督がインタビューの中で「映画史が僕の言語」と言ったとき、この言葉をたくさんの若い世代に伝えたいと思った。だから今は、岩波ホールに花道がほしいと感じている。岩波ホールは映画史と自分をつなぐ場所だったのだから。それは歳をとったということなのかもしれない。ただそれは、自分自身が経験したことを懐かしむだけでなく、これから時代を変えていく主役となる若い世代の人たちに「こんなホールがあったのだよ」と伝えたいと願うからでもある。映画史のページを捲るように、岩波ホールの映画の歴史をスクリーンで見ることができたら、なんと嬉しいことだろうと想像している。
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