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「リコリス・ピザ」と「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の思い出


はじめに 〜別れの時がやって来た〜


ある「ワンス・アポン・ア・タイム・ハリウッド」の試写での事。

監督のクエンティン・タランティーノの隣には、ポール・トーマス・アンダーソンが座り、後半のとある場面で、ポールは上映中にタランティーノの方を見て「胸が張り裂けそうだ」と言ったらしい。僕は宇野維正の新書「ハリウッド映画の終焉(2023)」で初めて知ったこの話に胸が張り裂けそうになった。

「もう君は時間遅れだ」と歌うローリング・ストーンズの音楽が、マーゴット・ロビー演じるシャロン・テートのドライブ風景と重なり、ロサンゼルスの夕方を映し出す。1969年、シャロン・テート殺人事件が起きた夕方だ。公開後、この曲が流れるあの場面が評論家を中心とした業界関係者の間で語り継がれるようになった。なぜなら、この場面こそが、あの映画で最も印象的な場面だからだ。

曲中で流れる「時間遅れ(Out of Time)」とは、「時代」遅れの事である。日本でもベストセラーになった稲田豊史の「映画を早送りで観る人たち(2022)」が示すように、日本だけでも、もはや誰も映画を早送りせず、熱心に評論を読み、映画界がキューブリックやスコセッシのようなスター監督の独自性で成り立っていたあの時代は終わりつつあるのだ。

さて、これから紹介する2作品のうち1つである「リコリス・ピザ」という作品の中でこんな感じのセリフがある。「私が30になる頃には、あなたは凄い人になっていて私の事なんて忘れてる」主人公アラナがゲーリーに言うセリフだ。

これと、似たような言葉を10代の頃に30代の知り合いから聞いた事がある。彼女は名門大学を出た後、方向性を失いかけ、気づくと10年近い時が経っていた。「時代の波に乗り遅れた」と言う感覚と「後悔の連続」が彼女を支配していた。

現代では過去のルールがもはや通用しなくなりつつある。それは、ある人々にとって「良い変化」であるが、過去のルールでゲームをするのが得意な人にとっては悩みの種だ。

「現代」と書いたが、これはいつの時代でも同じで、一時期の韓国でブームになった台湾カステラの波に乗っている間は大金持ちだったはずの人がブームが下火になると地下に潜む貧者に変わったり(「パラサイト」)、一時期はサイレント映画の時の人だったスターが技術の進歩で自殺に追い込まれたりする(「バビロン」)と言った「時代についていけない感覚」は現代の映画の主題テーマの1つである。

シュテファン・ツヴァイクと言う文学者の作品を下敷きにしたウェス・アンダーソンの「グランドブダペストホテル」も、「古き良き時代の名残り」が「昨日の世界」になってしまう悲しさを描いている。ウェスは90年代に力強く登場し、現代を代表する映画監督の1人になったが、同時代に「ファイトクラブ」などで人気を博したデヴィッド・フィンチャー(「マンク」)や「ショーンオブザデッド」のエドガー・ライト(「ラストナイトインソーホー」)などと同様、ハリウッド全体が「過ぎ去った過去」への郷愁の気持ちに向かっているかのようだ。

ミノーシュ・シャフィクの「社会契約論」では現代人の多くが、物質的に豊かな生活をしていても「社会システムが何らかの形で正常に機能していない」と考えている事が示されている。映画界においても、社会が変化する事は両刃の剣なのだ。

そして、このクエンティン・タランティーノ9作目の本作が公開されてから数年は、先ほども示したように、その変化に追われた監督達がかつての映画産業にお別れを言う事に当てられた。僕を含めた映画ファンは、そんな彼らの声を聞くたびに何度泣いたか分からない。

スピルバーグは「フェイブルマン」でかつてのスタジオシステムに別れを告げ、タランティーノは今作でハリウッドのアルバム写真を作り上げた。パオロ・ソレンティーノやケネス・ブラナーと言った監督は、ここぞとばりに自身の思い出を綴り、時代の変化そのものを作り出したマーベルですら「デッドプール&ウルヴァリン」という最新作で20世紀フォックスという会社に別れを告げている。

そしてポールは「リコリス・ピザ」という作品で「70年代の夏はもう返ってこない」という当たり前の事実を観客に突きつけた。

「歯磨き粉をチューブに戻すことはできない」

クリストファー・ノーランが科学兵器の開発に対して用いたこの言葉は、同じくこの数十年で激しく技術改革が起きた映画界全体に当てはまるのだ。

さて、そうした郷愁を振り返るために、まずは時計の針を2019年に戻して、こうしたムーブメントの全ての発端だと多くの人が考える、ある作品についての話から始めよう。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」


その昔ーといっても80年代ースターウォーズファンは新作がやって来るまでに最低でも3年、長くて6年近く待たされたらしい。僕が生まれてもない時代の話なので分からないが、焦ったいと同時に、すぐに何でも手に入る現代と違って、別の「待つ楽しみ」があったのだろうと考えるとワクワクする。

オリバー・バークマンの「限りある時間の使い方」じゃないが、最後に何かを「待った」のはいつだろう。レストランで注文が来るまで本を読んで、電車の待ち時間はスマホでメールを返し、気づいたら見切れないほどのMCU作品の配信に追いつけなくなる。

ある時、知り合いの大学関係者とウェス・アンダーソンの「アステロイド・シティ」の話をしていて妙に噛み合わない事があった。後で分かったのは、その女性は「映画を全部見ておらず、途中まで見て、次に持ち越している」そうだ(ドラマか!)。このエピソードが示すように、じっと一本の映画を見ることすら出来ない忙しいのが現代だ。

そして、クエンティン・タランティーノの今作はそれに対してのアンチテーゼのように現れる。新作公開まで「じっと楽しみに待つ」と言う喜びを彼は理解しているどころか、劇中内の「楽しみ」も最後までとっておくのが毎回のスタイルだ。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」ソニー・ピクチャーズ より

彼が好きなセルジオ・レオーネの「続・夕陽のガンマン」のクライマックスも、アクションが起きるまでに会話と長時間の見つめ合いとそこに至るまでのドラマがある。これは後のタランティーノ作品の型となった。

最初からアクションの連続である作品に見慣れている人には退屈にすら感じるかもしれないが、映画とは本来、アクションを連続させるプロレス観戦のような物ではなかったはずだと言う事を今作は教えてくれる。

意図的にスローな物語展開

映画の冒頭は、白黒画面に「かつて売れていた」俳優リック・ダルトンの「バウンティロー」と言うTVドラマが映し出されるところからだ。タランティーノが当時の大量のTV作品を研究した後に作り上げたオマージュに溢れる(「スターウォーズ」でも使用された「落下する人物の叫び声の効果音」が入っていたり)映像で、劇中のシンプルな設定を見事に表現する。

物語展開は、それからリックらがプロデューサーのアル・パチーノ演じるマーヴィン・シュワルツに会いに行くところから始まる。「君の時代は終わった」と告げられ、イタリア映画の悪役を勧められる。スコセッシの「ウルフオブウォール・ストリート」と同様、ここでもディカプリオ演じるキャラクターの自尊心に火がつくのだ。「イタリアンだと?ふざけるな!」

ただ今作は、その後「物語らしい物語」はない。これが「退屈」と場合によっては感じてしまう要因かもしれないが、タランティーノ的にはまず大前提として、多くの人は「シャロンテート殺人事件」を知っていて、その数日前を描けば見ている間、緊張感を保持できると考えたようだ。

ガス・ヴァン・サントの「エレファント」を含め、1999年のコロンバイン高校の銃乱射はアメリカ中に衝撃を与え、関連する漫画、映画、小説が大量に登場した(スパイダーマンが高校生の銃乱射に失望するコミックまでもがある)。

また「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」のように9・11をベースにした作品も多い。

アメリカには国を震撼する出来事に対して、不謹慎になるリスクを超えて、大量のフィクション関連作品を作ると言うカルチャーがあるのだ。そうした点から、これも「シャロンテート殺人事件」の関連作品と考えて良い。

ただ、とはいえ肝心のシャロン・テートに至っては本当に何もしていない。タランティーノの願いとしては、亡き彼女をスクリーン上で生かしたかったそうなのだが、その分フィクションとしてのストーリーは犠牲になっているのだ。おそらくタランティーノも承知だろうが、今作の目的はヒッチコックばりのサスペンスを描く事ではなくノスタルジアを再現する事にあるのだ。

一方、リックはハリウッドでの最後の役割を成功させようと奮闘する(具体的には飲酒癖と戦う)ので、2時間以上ある映画は彼を軸に進んでいく。

スタントマンのクリフはクライマックスのマンソンファミリーとの一件の伏線として、彼らの牧場へ案内される。このブラッド・ピット演じるクリフは、作品全体の陽気なトーンに対して、ベトナム戦争で人を殺しすぎて、一般人と生活ができなくなった悲しい人物として描かれる。

多くの人は、このクリフの物腰やファッションについて指摘しているが、彼の真のファッションは服を脱いだときに現れる戦争の傷跡だ。そして、クリフの屈折した性格が屈折した集団を呼び、物語はクライマックスへと向かっていく。

これらが「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド(以下「ワンハリ」)」の主要軸だ。作品全体を埋め尽くす緊張感や当時のハリウッドの徹底した再現はどれも美しく、同時にどこか不気味で哀愁を帯びている。

また、陰鬱な歴史を再現するのは不謹慎だと言う考えを地で行く作品にもなってしまったかもしれない。

こうしたリスクを大胆に取る部分が僕達がタランティーノを愛する理由なのだが、「ジャンゴ」や「イングロリアスバスターズ」に対して、今作で描かれる悲劇は現実にその事件が起きてから浅く、遺族や関係者もまだ生存しているのだから(ついでにブルース・リーの遺族からも抗議が来ている)。

また、町山智浩さんが「映画無駄話」で話しているように、この長尺感覚はたとえ映画ファンでも感じてしまう部分がある。

そして、その主な理由はタランティーノが本作の冒頭でTVドラマを再現しているように、彼自身がアクションやサスペンスの詰まった映画的映画以上に会話中心のTVドラマに興味が移っているからではないかと言う指摘がある。

僕も含めた映画ファンは大好きな今作だが、タランティーノが刻一刻と映画に別れを告げているかのような作品でもあるのだ。

そして、その感覚は数年後、友人のポール・トーマス・アンダーソンに受け継がれる。70年代当時を再現するためのフィルムカメラを「ワンハリ」の現場から借りている事から、今作とのつながりの物凄く強い青春映画に。

「リコリス・ピザ」



「リコリス・ピザ」は主人公の高校生クーパーと社会人のアラナの10歳離れた恋愛を描いた青春映画だ。「レディ・バード」といった現代の青春映画と同様、思い出アルバムを巡るように、特別、物語の筋を持つというよりは当時の数々のエピソードの連続になっている。

こうした点から、今作はダフネ・デュ・モーリエの小説に影響を受けた「ファントム・スレッド」やアプトン・シンクレアの小説を下敷きにした「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」といったポール・トーマス作品同様、文学的な色合いが一層、強い作品になっている。ヒッチコックやポン・ジュノみたくサスペンスの構造で話を運んでいくのとは正反対に、キャラクターの心情が主導で話が進んでいくのだ。

理解できない部分とその解釈

物語はポール・トーマスの地元の知り合いをキャスティングした事からして非常に個人的で、理解できる部分と一般観客には全く理解できない部分がある。

この特徴も、先ほど挙げた「レディバード」と同様だ(監督のグレタ・ガーウィグが脚本に地元サクラメントのご当地ネタとアメリカ社会特有の大学入試制度や宗教観を盛り込んでいて、他文化の人が見ると全く理解できない部分がある)。

そして、「ワンハリ」と同様ポール。トーマス監督の個人的な気持ちが込められている。

ポール・トーマス・アンダーソン(写真提供:JOHN ANGELILLO / UPI / Newscom / ゼータ イメージ)

いくつか初鑑賞時に生まれた疑問を書かせてもらうとこうなる。

・なぜウォーターベッド商売の話にしたのか?何か(特に性的なもの)の暗示か、それとも何かの映画の引用?

・なぜジョン・ピーターズ?70年代のハリウッドが舞台だからサプライズ登場という事?

・中東戦争の影響で起きた石油ショックの際に「Life on Mars?」を流すのはなぜか?映画評論家の町山智浩はYouTubeでの藤谷文子との対談で「使い方が良い」といった発言をしているが、もう少し具体的にどんな点が?

 ・ジョン・ピーターズが自動車販売店の車をハンマーで叩き割る場面とアラナがゲーリーの友達と石油で遊ぶ場面が予告編にしか入っていないけど、一体何が起きているのか??

・ニーナ・シモンの「July Tree」を中心に各曲は何を表現しているのか?日本語字幕には歌詞が表示されず、今後調べていくしかない。

照明を含めた高級機材が映す場面は、ユニバーサルとMGMの資本も手伝って豪華なのだが、映画の出来とは無関係に、このように個人的に首を傾げたくなる場面や、気になる点も実際は多い。

もちろん分かる人には分かるのかもしれないが、僕からするとポール・オースター(ニューヨークのご当地ネタを盛り込んだ小説群を書く現代文学作家)の分かりづらい小説を読んだ時の感覚に非常に近いものを感じる。

細々とした部分は理解ができないが、キャラクターの心情を追いかけるという点では楽しめると言った感覚だ。

そして、ポール・トーマスと言う人はインタビュー集が出ていない事からも分かるように、あまり自身のバックグラウンドや作品の詳細について明かさない。

長年映画ファンが彼の作品を崇拝し、研究してきた成果として、アダム・ネイマンと言う大学教授・研究家が出した「ポール・トーマス・アンダーソン/マスターワークス」を読んで感動できるというものがあるが、あの研究書もある意味では監督の発言や思考とは別の評論家なりの一方的な解釈だった。

「リコリス・ピザ」も含め、ポール・トーマス作品は謎が多いのだ。

ちなみに、「マスターワークス」は、ちょうど映画研究者が開いたシンポジウムでの内容をまとめた「ドライブマイカー論」と言った本と同じだ。

こうした評論は魅力的でもあるし、結局、評論家は分からない部分は推測したり、個人的な解釈を加えるしかないのだが、少なくともあの本の中での濱口竜介監督のインタビューでは「シンポジウムで話された映画についての解釈が自分の思っても見なかった物だった」と発言している。評論は時に監督の意図を超えかねない。

なので、本題に入る前に未だ答えがわかっていない今作についての疑問点はおそらく以下の理由が関係している気がすると示しておきたい。

・時代表現である可能性
 「何でこれが出てくる?」という物のいくつかは、偶然作品上意味を持つ場合もあるが、基本的に舞台となる70年代を示すものだ。

・引用である可能性

・隠喩(メタファー)である可能性
 「ウォーターベッド」が作中で明らかに性的な物として描かれているように、登場するアイテムやキャラクターは何かのメタファーかもしれない。

例えば、ポン・ジュノ監督の「パラサイト」で落下する雨が、韓国を中心とした世界的な社会格差が金銭的にも「上から下に落ちる事」の隠喩になっているように。

・何の意味もない一発ギャグである可能性
 大真面目に議論していても、今作はコメディ映画だ。ただのギャグかもしれない。僕は大真面目に考えまくった挙句、「結局全部ただのギャグかい!」という不意打ちをウェス・アンダーソン映画で何度も喰らっている。

以下の点を考慮して、研究しがいのあるポール。トーマス映画「リコリスピザ」はどんな映画か考えていきたい。

キャラクターの心情


まずこうした細々とした疑問点は背景知識を必要とする(そもそもこの映画を恋愛映画として観に来たカップルのうち、「ジョン・ピーターズ」の事を知っている人がどれくらいいるのだろう?)ので、ポール・トーマスが観客に向けて想定した本来の映画の楽しみ方とは少しずれているはずだ。では、この映画は改めてどんな構図の作品なのか?観客はどこに目を向ければ良いのか?

多くの観客は背景知識がなくとも「ブギーナイツ」を楽しんだ。それは、やはりポール・トーマスがキャラクターを魅力的に描く方法を知っており、たとえ「マグノリア」のように数が増えても、しっかり全員の心情を掘り下げれる事を見せたからだ。

ユニバーサル・ピクチャーズ配給「リコリス・ピザ」より

「リコリスピザ」は「ブギーナイツ」よりも「マグノリア」よりもさらには「ザ・マスター」と言った作品よりも、ずっとアクションやサスペンスは減っている分、ますますキャラクターの内面や心情にフォーカスした作品になっている。そして、どの作品よりも孤独とは程遠く人と人の関係が濃厚な愛の物語になっている。

特にアラナという主人公だ。文学的に彼女の登場場面を表現するなら「人生に不機嫌そうで、同じ事を2回繰り返し言うのが特徴的」な彼女は作品を通して、メインキャラクターのゲイリー以外にも多くの男と出会い恋愛感情を拗らせ、揺さぶられていく。

ゲーリーは能天気だが優しい雰囲気のある男で、少し目を離すと男らしい馬鹿をやり始め、アラナは彼を理想化した事に嫌気が指す。

1つこの作品の流れを示す場面について例を挙げよう。

後半あたりで、金持ち俳優の自動車の窓ガラスを粉々にした後、神経質になっている自分をよそに友達とガソリン入れを使って自慰行為の再現をしているのを観た時の彼女は失望感マックスと言った様子だ(おまけに女たらしのジョン・ピーターズにもうんざり)。

こうして、次の場面では彼女はベニー・サフディ演じる政治家の元へ向かうのだ。まるで、「もっと知的でエリート的な人といたい」と言う彼女の気持ちの表れのように。しかし、その政治家はゲイで、それも必ずしも理想的ではない人物である事を知り、彼女は再びゲーリーを探し始める。

上記の流れは1つの例だが、映画はアラナと言う人物のくっ付いたり離れたりの恋愛感情をこんな風に表現していく。他の女とゲーリーがくっ付いたら、自分も外で他の男を探し始める。その男に失望させられ(ある時はバイクから落とされ、ある時は使い捨てのようなナンパを受けまくり)、ゲリーの事を再び想う。

今作はアラナと言う人物の内面で動いていき、それは非常に感情的で、個人的なのだ。各シーン同士のつながりが薄く見えるが、主人公を軸にエピソードを入れているのでこうなる。そして、これこそが「リコリスピザ」の構図だ。

 ポール・トーマスに近しい映画監督がタランティーノだとしたら、観客が完全にその意図を理解するのは難しい。タランティーノは「キルビル」で観客はおろか評論家にもわからない出典を持ち出し、言ってしまうとかなり評論家をイラつかせた(詳しくはイアン・ネイサンの書いた伝記を参照)が、これくらいの映画オタクぶりはポール・トーマスも同じだ。

例えば「ファントムスレッド」はマックス・オフュルスというフランスの白黒映画監督の撮影技法が元になっているが、この監督については日本で最も有名な映画評論家の町山智浩さんですら知らなかった。「リコリスピザ」はジョージ・ルーカスの「アメリカングラフィティ」やリチャード・リンクレーター「バットチューニング」といった作品が元になっていて、引用元を調べていくと楽しめる点は「ワンハリ」と同じだ。

おわりに:70年代の夏は本当に帰って来ないのか?〜次世代に託された使命〜


この記事は、冒頭で紹介したローリング・ストーンズの曲を聴きながら書いている。そして、ふとジャン・リュック・ゴダールがこの世からもういない事を思い出した(彼はストーンズのドキュメンタリー映画「ワンプラスワン」を監督している)。

いつかこんな日がやってくるのだろうか。スコセッシがいなくなり、スピルバーグもいなくなり、タランティーノは引退し、ハリウッドの夢は遠い遺跡のようになる時代が。考えただけで、辛い話だ。

ポールもタランティーノ、ウェスもみんなスコセッシに多くの事を学び、それを次世代に届けた。そして、そんなスコセッシはゴダールから多くを学んだ。新しい技術に敏感でいる事をヒッチコックから学び、写真家のように世界を切り取る技をキューブリックから学んだ。

アメリカ映画の伝説は、音楽と引用が激しく混ざり合う魔法の全ては、1960年代に喘息持ちのスコセッシが暗闇の中でキューブリック映画を繰り返し、繰り返し、繰り返し観ながらメモを撮り続けたその時から始まった。

こうした文化はいつの日か消えてしまうのだろうか?

フィルム撮影で70年代の思い出を綴ったこの2作品は何度見ても、そんな事を考えさせられる作品だ。コロナ下で劇場に行く人が減ってもフィルム撮影で立ち向かうクリストファー・ノーランがいる一方で、映画界のフランチャイズ化は進み、大きな変化が起きている。

まず、劇場で「ワンスアポンアタイムインハリウッド」と「リコリスピザ」(監督は違うが2部作だと思う)を見れた事に感謝するべきだ。

この2作品は、情報過多に慣れきった現代メディアのアンチテーゼのような作品で、同時にあまりに個人的で観客は容易に作り手の意図を理解できないようにもなっている。彼らの素晴らしい映画を幸運にも見れたのだから、何らかの形で多くの人にその魅力を伝える必要が、その深さを学んだ観客にはある。

結局、見ないと分からないような、とてつもない体験をこの2人の監督は提供したのだ。それはインターネット文化には生み出し得ない何かだ。そして、彼らはこの2作品で個人的な別れを表明したが、今やこうした作品を継承することは次世代に託された使命なのかもしれない。

クエンティン・タランティーノ(写真提供:Jonas Walzberg / dpa / picture-alliance / Newscom / ゼータ イメージ)



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