◯『スープとイデオロギー』
監督:ヤン・ヨンヒ
日本、韓国合作、2021年
青春時代に済州4・3事件を経験したオモニ。
「絶対他の人に喋ったらアカン」
祖国を批判する事を許されず、学校では優等生を演じ続けたヨンヒに、オモニはそう4.3の事を語って聞かせた。
「結婚するのはどんな人間でもいい。ヨンヒがいいと思うなら。ただし日本人とアメリカ人はダメだ。朝鮮人なら、北でも南でもいい」
古いホームビデオの中のアボジは、ヨンヒにこう投げかけた。
仲睦まじい親子の風景の中に、絶対的なイデオロギーが影をチラつかせる。当人たちはさも当然かのように振る舞う。目に見えない力が言葉を狂わせ、曖昧にしていく。
オモニと、ヨンヒと、ヨンヒの夫となった日本人男性とで、朝鮮の民族衣装に身を包み、三人並んで写真を撮る。遠くへ行ったアボジの写真の横にそれを並べ飾る。アボジはたぶん、日本人だとは気付かないよねと笑いながら。
オモニが鶏のスープを作る。
鶏のお腹にニンニクを詰め、糸で縛り、五時間、鍋で煮詰める。
どこにでもあるような母の風景だ。
壮絶な体験を経た人だという事をつい忘れる。イデオロギーがスープに溶けて曖昧になっていく。
や、ちょっと違うな。
イデオロギーとは人の錯覚なのだと、スープが教えてくれる。
オモニの中には、何人ものヨンヒがいるようであった。
遠く離れた家族が、壁一枚の向こうで寝ていると思っているようであった。
記憶がスープに溶けていくようでもあり、歴史が、時間や空間の移ろいの中で、風に乗って飛び去っていくようでもある。
老いて、いろんな事を忘れていく母。
また、敢えて忘れようとする人も。
これも、どこにでもある風景なのかもしれない。
だからこそヨンヒは母を撮り、自身を撮り、語り伝えるのではないか。遠くへ行った人々の事を、自分たちが忘れないために。私たちに、忘れないでいてもらうために。
ポレポレ東中野、ユーロスペース他にて。