クリミア・ドンバス分離運動。本の紹介「ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで」③
前回からの続きで、本の内容を紹介します!
クリミヤについて
クリミアは1783年ロシア帝国に併合されました。
ロシア革命後はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内の自治共和国になり、1945年ただの州に格下げされました。
1954年、政権を獲得して間もないフルシチョフのソ連指導部は、ロシアとウクライナ・コサックの合同を決めた1654年ベレヤスラフ条約300周年を祝賀して、クリミアの帰属をロシア共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移すことを決めました。
この決定が今に至るまでクリミアをめぐる火種となっています。
その後ウクライナはソ連邦から独立しますが独立を問う国民投票でもクリミアの独立支持は半分ほどでした。
(ウクライナ全体では独立支持は約90%)
1996年ウクライナ憲法でクリミアは自治共和国の地位を保障されましたが、2004年のオレンジ革命後、法廷言語や訴訟関連書類でロシア語を使ってもよいという特権を剥奪されロシア語系住民は不利な立場に立たされるようになります。
ユーロマイダン革命の暴力事件でクリミアから派遣された警察官が死んだことでクリミアは反マイダン側につきます。
さらにクリミアの活動家がマイダン活動家に襲われるという事件が発生。
クリミアの住民の中でこのままウクライナに留まることに不安が広がり、ウクライナからの分離につながりました。
ドンバス地方
ドンバスという名前の由来は「ドネツ川流域」あるいは「ドネツ炭田」という意味で現代の行政区画としてはドネツク州、ルガンスク州からなります。
ドネツク州はドン・コサックの地でもあります。
コサックは兵農兼務の辺境軍事組織です。
ドンバスの代名詞となっている石炭業は州中央部で発達しています。
ソ連期に工業化が進み、ドンバスの産業構造は、「地元で採れる石炭を燃料にして冶金・製鉄を発達させ、そこで生産される金属を原料にして機械工業を発達させる」というものです。
そしてドンバス住民の間ではウクライナ東部に共通している「ウクライナ東部の利益は中央に吸い上げられてウクライナ西部に搾取されている」
という意識がとりわけ強く、
このような不満がマイダン革命をきっかけに分離派を活発化させ「ドネツク人民共和国」の成立につながりました。
この本の筆者は2014年のクリミア住民投票、また「ドネツク人民共和国」成立時に現地を取材し関係者にもインタビューしています。
分離紛争では、ウクライナ政府軍はドンバス人民共和国を砲撃し多くの市民を殺害しました。
しかし、国家と認められていない紛争地域の市民は、国際刑事裁判所や欧州人権裁判所のような国際法廷で争うことができません。
紛争地域の民間人は、親国家の砲撃を受けその兵士は捕虜になれば拷問にかけられる危険性が通常の国家同士の戦争よりずっと高いのに、戦争犯罪を被っても国際法廷に訴え出る権利をはじめから奪われているのです。
このような事情なので紛争地域の弁護士や人権活動家は当該地域がいまだに親国家に所属しており、被災者は親国家の市民であるという擬制に基づいて訴えを国際司法に送っています。
ドンバスでも2014年5月以降ドネツク人民共和国の弁護士たちは共和国内でウクライナ軍と準軍事組織が行う破壊、殺人、傷害、拷問などの戦争犯罪の事実を確認し記録を残す作業を開始しています。
2015年9月、ウクライナ政府は、2014年2月20日以後のウクライナでなされた犯罪行為について、国際刑事裁判所の権限を認めてよいと宣言しました。
ここでいう犯罪とはヤヌコビッチとロシアが犯したものを意図していますが、この宣言後、国際刑事裁判所検察官は、ドネツクの弁護士が提出する資料も受理するようになりました。
こうしてドンバス地方で紛争が続いているうちに2019年ゼレンスキー政権ができます。
最初は親露派と思われたゼレンスキー大統領ですが、支持率が下がるにつれウクライナ民族主義に傾くようになります。
そしてロシアとの対立を深め戦争となってしまいました……
参考文献
「ウクライナ動乱―ソ連解体から露ウ戦争まで」松里公孝著 ちくま新書
執筆者、ゆこりん
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